マギドラ
ギフト
不死鳥の殺し方
1
ケイが目を覚ますと、見知らぬ天井があった。
長い年月を感じさせる、年季のはいった天井だった。
横になっていた上体を起こすと、かけられていた布団が静かにはがれた。これもまた年季の入ったもので、薄いくせに重さだけはしっかりとある。窓から差し込む日の光が顔に当たり、ケイは眩しさに目を細めた。
「ようやっと気がついたか、お若いの」
かすれた声がかけられて、ケイが振り向くと、暖炉を前に一人の老人が椅子に腰かけていた。七十は優に超えているであろうシワだらけの顔は、静かな笑みを浮かべている。
「お前さん森で倒れておったんだ。覚えとるか?」
「……ええ、まぁ」
ケイは苦笑いを浮かべ、自らの頭をぽりぽりと掻く。
「情けない話し、森で迷っていました」
「なんだ行き倒れか。しかしお前さんは運がいい。普通なら飢えた獣に骨までしゃぶられとるよ」
からからと笑う老人は「ちょっと待っていなさい」と部屋を後にする。数分と待たず戻ってきたその手には小さな鍋があった。中身はぐつぐつと煮立った粥で、それを目にしたケイの腹は大きく鳴った。
「ここ数日、水しか口にしていなかったものですから」
「冬の山は獣たちが木の皮まで食い尽くしとる。少ない蓄えで山には入ればおのずとそうなるよ。これはお前さんの分も含めて作ったものだ。遠慮せんでええ」
老人は粥を一緒に持ってきた木製の椀に盛り、ケイへ差し出した。ケイは両手でそれを受け取ると、深々と頭を下げてから一口啜った。
「ーー美味いです、とても」
「ろくな味付けはしとらん。空き腹にまずい物なしというやつだ」
老人はもう一つ椀を取ると、粥を盛って自ら啜った。
「ところで、お前さん名前は?」
「申し遅れました。俺はケイといいます」
「ケイさんか。……それで、ケイさんはどうして山におったんだ?」
「この山には珍しい薬草が多くあると耳にしたもので、収集に」
「ほほう、確かにこの山には珍しい薬草がごまんとある。儂も少なからず利用しとるよ」
「と言うことは、貴方は医者ですか?」
「ああ、この里ではまったくもって役立たずではあるがね。……いや、役立たずな方がまだマシなのかもしれん」
老人の自嘲に、ケイは首を小さく傾げた。
そんなケイの様子に気付いた老人は、残りの粥を流し込み、息を吐いて、ゆっくりと立ち上がる。
「そいつを食べたら。里を案内しよう」
短く告げて、老人は部屋を出ていく。
それを見送ったケイは粥をじっくり味わいながら食べ終え、ベッドから立ち上がった。まだ本調子ではなく少しフラついたが、歩くだけなら問題はなさそうで、壁に掛けられた濃紺のコートを羽織り、枕元に置かれた自身の肩掛け鞄を取ると、老人に続き部屋を出た。
老人についてケイが家から出ると、そこは一風変わった里だった。
山に囲まれた里ではなく、山の中に溶け込んでいるような里だった。木々が至るところから生え、道は獣道に近い。里の中央をやや流れの急な川が流れていて、流れ着く先は滝となっていた。
なによりケイの目を引いたのは里の外れに建つ祭殿と思しき建物だ。
山奥には不釣り合いなほど、大きく立派な殿だった。
「ついてきなさい」
老人の足は真っ直ぐそこへ向かっていた。
祭殿の前には踏みならされた広場があり、里の住人ーー否、規模を考えれば里の外からも集まっているのではないかと思えるほどの人垣ができていた。
更に見れば、怪我をしている者、咳き込んでいる者、蒼白い顔をしている者ーーそこにいる誰もが体の不調を抱えた人々だった。
「こっちだ」
本来ならば診なければならない医者の老人は、しかし見て見ぬふりをして、その人垣を素通りしていく。
ケイはわけのわからないまま、老人の後に続く。
殿の正面口を前にして、老人はようやく足を止めた。
正面口の前には一人の男がいた。恰幅の良い中年男性で、見るからに質の良さそうな服を着ている。老人とケイの存在に気がつくと、にこやかな表情で歩み寄ってきた。
「あんたがこんなところに来るなんて珍しい事もあるもんだな。何だ医者の不養生と言うやつかね?」
「この儂がそんな柔なもんじゃないことはお前さんならわかっとるだろう」
「そりゃそうだ。なら、そこの少年が理由かな?」
中年男がケイに笑みを向ける。その視線は残飯を前にした豚のようで、ケイは若干引きつつも何とか会釈した。
「ケイさんといってな。この里の近くで遭難しとったんだ」
「それは大変でしたな。で、君はどこを怪我しているのかね? それとも病かね?」
「生憎、空腹を除けば健康体だ。ここには見学として連れてきた。儂の頼みとあれば文句はあるまい?」
老人の台詞で中年男の態度は豹変する。
面白くないといった本心を、隠そうともせず剥き出しにしていた。
「ああ、これから正面口を開く。端から見る分なら問題ない。私は忙しいからこれで失礼するよ」
踵を返し、中年男は足早に去っていった。
その後ろ姿を眺めながら、老人は呆れた様子でため息を吐く。
「あれでここの里長だ。わからんものだろう」
「裏表がないという点では信頼できますね。でも、それだけではないんでしょう?」
ケイが冗談めかして言うと、老人はしかめ面を少しだけ綻ばせた。
「じきに始まる。見とればわかるよ」
老人が言い終えるのと同時に、里長の男が正面口の扉を仰々しく開けた。
ケイが覗き込むと、広い祭殿の中には少女が一人、ぽつんと座っているだけだった。
年齢はケイよりも少し下の十代中頃。しかし、整った顔立ちと落ち着いた雰囲気は可憐というよりも壮麗だった。純白を主にした神官のような服を身に纏っていて、燃えるような朱く長い髪が何よりも印象的だった。
「……あの子は?」
「聖女様だ。幼い形をしているが、歳はアンタと変わらんか上くらいかの」
聖女と呼ばれた少女と人垣の間に里長が立つ。満面の笑みだった。
「皆の者、大変待たせた。これより聖女様による浄火を始める」
里長の言葉を合図に人垣が動いて、すぐさま綺麗な列を成した。
一番目は松葉杖をつく青年だった。その右足には添え木が包帯によって巻き付けられている。骨折をしているのは一目瞭然だった。
青年は火の巫女に一礼すると、患部である右足を少女の方へ伸ばした。
それを確認した少女は、傍らに置いてあった短剣を手に取ると、躊躇いもなく自らの手を深々と切った。
傷口からは鮮血が瞬く間に溢れ、青年の折れた右足へと垂れて包帯を赤く染めていく。すると間もなく包帯に染みた血は煙を上げ、ついには火が付き、激しい炎となって燃え上がった。
「……」
青年は驚くことも、悲鳴をあげることもなく、ただ燃え盛る炎を見惚れるように眺めていた。
数秒とかからず炎は小さくなり、消えて、折れていたであろう青年の足は彼の身体を松葉杖なしで支えていた。
あれだけ深々と切った少女の傷もまた、炎とともに跡形もなく消えていた。
「ありがとうございます。聖女様」
青年は少女に深々と頭を下げ、後ろでその様子を見守っていた人々からは歓声が沸いた。
「聖女様の浄火。毎日のようにアレをやっているのだから医者なんて無用よ。あの子の父親である里長も、昔は気さくで良い奴だったんだねぇ」
「……なるほど」
渇いた笑いをこぼす老人を尻目に、ケイは聖女と呼ばれる少女を見据える。
あれだけの歓声を受けてなお、少女の顔は人形のように無機質のままだった。
2
その日の夜。
天蓋付きのベッドで眠っていた聖女は目を開き、文字通り布団から飛び起きた。
「ーー誰?」
「すまない。驚かせるつもりはなかったんだ」
問いかけに応え、暗闇から姿を現したのはケイだった。両手を挙げ、その顔は愛想笑いを浮かべている。
「……」
じりっと聖女は後ずさる。警戒心を露わにした顔は険しく、ぎらついた眼光はケイを射抜くように向けていた。
「まぁ落ち着け。俺はケイという者だ。どこからどう見ても怪しい者だが、君に危害を加えるつもりはない」
「信用できない」
「そうか。ーーだが、君の体質について心当たりがあると言ったらどうする?」
「っ!」
ケイの放った言葉に、聖女と呼ばれる少女は息を呑み、動揺を露わにした。
「どうやら話しを聞く気になったみたいだな」
「聞くだけ。話がいい加減だったり、それ以上近づくようなら人を呼ぶ」
「了解。これ以上は許可なく近づかないことを約束しよう」
言いながら、ケイはその場に腰を下ろす。その目は「立ち話も何だし、君も座ったらどうだ?」と語っていた。
聖女は数秒悩んだ後、
「変な人」
観念したように腰を下ろした。
「名前も変だし」
「さらっとバカにしやがったな。そういう聖女様はさぞかし崇高なお名前なんだろうな?」
ケイが尋ねると、聖女はわずかに俯く。
「……忘れた」
「忘れた?」
「もうずっと聖女をしている。誰もが私を名前ではなく聖女様と呼ぶ。」
淡々と喋る聖女。
けれど、ケイにはその横顔が悲しげに見えた。
「なら、好きに名乗ればいい」
「好きに?」
「そうだ。忘れてしまったと言うのなら、また新しく考えて名乗ればいい。せっかくだから自分が好きなようにさ。難しいことじゃないだろ」
「けど、急には考えられない。自分の好きな名前なんて、考えたことないから」
それに、と聖女は言葉を継ぐ。
「どう名乗ろうと、私は聖女としか呼ばれない。これからもずっと」
なんとなく気まずくなってしまった空気に、ケイは頬を指で掻く。一度だけ深いため息を吐き、それから努めて明るい表情を作って見せた。
「だったら、俺が考えてやる」
「え?」
「ああ決めた。君の気に入りそうな名を考えておく。そして、周りがなんと言おうと俺はその名で君を呼ぶ。それまでは聖女で我慢しろ」
半ば強引とも言える一方的なケイの宣言に、聖女はぽかんとする。しかし、その言葉を胸中でかみ砕き、反芻し、ゆっくりと理解したところで、
「やっぱり、変な人」
微かに、けれど確かに、その口元を緩めた。
そして同時に、眼前のケイに対する好奇心を芽生えさせていた。
「それにしてもよくここまで来れたわね。見張りがいたはずだけど」
「欠伸を噛み殺して交代時間を待ちわびている奴らか? あれを見張りと呼ぶんなら確かにいたな」
「彼らに何かしたのか?」
「まさか、何もせずに歩いてきたから来られたんだ」
「何言ってるかわからない」
「よく見ろ。君ならわかると思うが?」
ケイはしたり顔で床をトントンと指で叩く。
その仕草で、正確にはその指先にあるものを見て、聖女は目を大きく見開いた。
「影が、薄い?」
「ご名答」
比喩ではなく、ケイの影は目を凝らさなければ見えないほどに薄かった。部屋の明かりが弱いとはいっても影は生まれる。しかし、同じ光源にさらされているというのに、聖女とケイの影の濃さには雲泥の差があった。
「今の俺は人の意識から外れやすくなっている。声をかけたり触れたりしなければ隣に立っていても気づかれない。君には効果ないみたいだったが、それは君が常に周囲を警戒していたからだろう」
「過去に何度か攫われそうになったから」
「そう言う理由か。なんか悪いな」
「いい、気にしてない」
それよりも、と聖女はケイをまじまじと見つめる。
「本当に何者なの? 人間じゃないの?」
「これは一時的なものだ。日が昇る頃には他の人間と同じ“普通”になっている」
「どういう事?」
「さてね。この村に来る前、透明人間に遇ったとだけ言っておこう」
「もしかして、からかってる?」
「からかうつもりなんてないさ。それに、もし俺が冗談を言っているのだとしたら、君は一体何だと言うんだ。……なぁ、聖女様?」
「わ、私はーー」
不意に、答えようと開いた聖女の口から何かが零れた。
それはヌメリとしていて、強い鉄の匂いを放ち、床を赤に染めるものだった。
「あ……ああ、ああぁぁぁああぁぁぁああああぁぁああああっっ!」
目の当たりにした聖女は、その心は、呆気なく崩壊した。
口からは湧き水のように血を溢れさせ、胸を押さえ、掻きむしり、断末魔を上げながらその場でのたうち回った。
瞬く間に部屋は血の海で満ち、そして浄火の時と同様に燃え上がった。
燃え盛る炎の中、依然として火の巫女は苦しみ藻掻いていたが、やがて動かなくなり、自身の生み出した炎によって焼かれていった。
しかし、そんな狂気じみた時は長くは続かない。
これもまた浄火の時と同様、部屋を埋め尽くすほどの劫火は数秒とかからず、跡形もなく消え失せたのだ。
部屋には焦げ跡一つなく、肺さえ焼きかねない熱風は身を切るような冬の夜風に塗りつぶされていた。
まるで先ほどまでの凄惨な光景が嘘であったかのように、元通りだった。
ただ一つ、部屋の真ん中で倒れたままの聖女を除いて。
「おい、大丈夫か?」
我に返ったケイは慌てて聖女に駆け寄り、抱きかかえた。
火の巫女の瞳がうっすらと開く。ぼんやりとした眼差しは虚空からケイへと移り、みるみると生気を取り戻していった。
「……ケ、イ? ケイ、なの?」
「ああ俺だ。これは一体何なんだ?」
聖女は答えない。
堅く目を閉じて頭を何度も横に振り、縋るようにケイの服を掴んで離さなかった。
「ーー約束」
「は?」
「約束を破った。これ以上は近づかないって」
「お前、今そんなことを言ってる場合じゃーー」
「少しの間でいいからこのままでお願い。それで、全部許すから」
その小さな肩は震えていた。声はか細く、奥歯がカチカチと鳴る音だけがケイの耳に届く。
「ああ、わかったよ」
ケイは頷き、少女の燃えるような朱い髪をそっと撫でた。
3
「丁度、今と同じ冬の日だった。私は雪で足を滑らせて崖から転がり落ちたそうよ。木の枝や岩にぶつかりながら落ちたからすぐには死ななかったみたいだけど、もう助からない状態だったらしいわ」
しばらくの後、落ち着きを取り戻した聖女はとつとつと自身のことを語り出した。
「その口ぶり、記憶がないのか?」
「ええ、その事故の影響で私には目覚める以前の記憶がない。こればかりは、この体であっても治せないみたい。浄火の聖女だというのに皮肉よね」
「だから、名前も覚えていなかったのか」
ケイの指摘に、聖女は苦笑を浮かべて首肯した。
「結果的に私は死ななかった。信じられないけど突然浄化の炎に包まれた私は、再生して一命を取り留めた。この血に癒しの力を宿してね。里長ーー父や里の者は奇跡だと大喜びいていたわ」
聖女は首から提げていた巾着を開いて中から薬包を取りだした。
「でも、そんな都合のいい奇跡なんてあるわけがない。聖女を始めてしばらく経った頃、私はさっきみたいな発作を起こすようになった。原因は不明で、この発作を抑える薬を定期的に服薬するしかないの」
「ちょっと見せて貰ってもいいか?」
「どうぞ」
火の巫女から薬包を受け取り、ケイは中身を確認する。
土色の粉薬で、動物の肉を焦がしたような臭いが、ケイの鼻を刺激した。
「ケイは、薬に詳しいの?」
「正直そこまで詳しいわけじゃない。あくまで俺の専門はマギドラだからな」
「マギドラ?」
「魔薬とも呼ばれる常識では考えられない効果をもたらす薬だ。一度口にすれば常人であっても魔法の真似事が可能になる。空を飛ぶことも、姿を消すことも……そして、死を誤魔化すこともな」
「待って。それってーー」
「ああ、君の体に起こったという奇跡もマギドラが絡んでいる可能性が高い。そうであれば不死鳥薬というマギドラだ。服薬した者には不老不死の力が宿り、どんな怪我や病も燃えることによって再生する。おまけにその血は他者さえも癒すと言われている」
「この発作については?」
「それに関しては俺もわからない。不死鳥薬はマギドラの中でも希少で、事例も極めて少ない。もしかしたら服薬より前の怪我や病は治せないのかもしれないな」
「そんな……私、ずっとこのままなの? 死ぬこともできずに、浄火と発作を、永遠に?」
聖女は愕然とし、血の気を失った顔で視線を床へ落とす。
「嫌よ。発作に苦しむのも、その度に焼かれるのも、浄火も、何もかも! もう嫌っ!」
聖女は顔を上げ、ケイを真っ直ぐに見つめる。その瞳には決意と懇願が入り交じっていた。
「ケイ、答えて。貴方は、私を殺せる?」
「いいのか? せっかく拾った命だぞ」
「お願い!」
「……一つだけ。不死鳥薬を服薬したにも関わらず死んだ者の話しはある。成功する確証はないが、それでもいいか?」
「構わない。可能性があるなら」
「了承した。俺はひとまずここを出る」
ケイは立ち上がり、踵を返す。しかし、歩き出すことなく、
「二つ、言っておきたいことがある」
背を向けたまま、静かな口調で告げた。
「何?」
「一つは、もうその発作を抑える薬は飲まなくていいと言うことだ。どうせ明日には関係なくなる」
「わかった。二つ目は?」
「後悔するなよ」
それだけを言い残し、ケイは暗闇に溶けていった。
4
翌朝。
太陽が山の向こう側から上り始めて間もない頃。ケイは昨日助けてくれた老人の家を訪ねていた。
扉を叩いて間もなく、老人が顔を出す。
「おお、ケイさんか。お前さんどこに行っとった? また遭難しているのかと心配しとったんだぞ」
「その節はどうも。今は時間大丈夫でしょうか?」
「? 構わんが」
「では、お邪魔します」
一礼してケイは老人の家の敷居をまたぐ。老人に招かれ、暖炉を前に老人と向かい合うように座った。
「急に押しかけてすみません。実は貴方に折り入って聞きたいことがあって来ました」
「何だ、改まって」
「貴方は、この辺りの薬草で作れる土色の薬を知っていますか? 動物の肉を焦がしたような臭いのする薬です」
ケイの言葉に、老人はわずかに眉をひそめる。真一文字に口を結び、頑なに開くことを拒んでいるようだった。
「貴方は知っているはずだ。この里には貴方しか医者がいないと聞いている。医者である貴方ができることは限られている」
「……あの薬には強力な鎮静作用がある。その反面、遅効性の毒を含む。初期症状なら同じ薬を飲むことで発作を抑えられるが、毒は体内に蓄積し、やがて死へ至らしめる。よく知っておるよ。だが、ケイさんは命知らずだな」
老人はため息を吐いて、諦めたように笑う。
ケイは、そんな老人を睨んで返した。
「昨夜は、聖女様のところにいたんだな」
「ええ、彼女は俺の専門だったので」
「そうか。やはりお前さんはあのマギドラという代物の専門家だったのか」
「気付いていたんですか?」
「風の噂で存在は耳にしている。そんな摩訶不思議な薬があるとは信じていなかったがね」
老人は暖炉に薪を放り込む。小さな火がパチパチと音を立て薪を燃やし、静寂の中でうるさく響いた。
「あの毒薬は、保険ですか?」
「儂と里長は“籠”と呼んでおる。最初の発作は食事に混ぜて投薬し、起こさせた。毒で弱った身体は遠くへは行けず、鎮静作用によって、あたかも発作を抑えられているとあの子は勘違いする。飲んでもすぐには発作が起こらないから毒だと気付かれる心配もない。彼女が死んで燃えて再生しても、勝手にあの薬を飲むのだから発作は定期的に何度でも起こるーー結果、聖女様はこの里から逃げられないし、そもそも逃げる気も起こさない。よくできておるだろう?」
「ええ」
頭に来るくらい、とケイは付け足した。
「あの時、魔女がいたんだ。恐ろしくも美しい魔女がな。ーーあの子が瀕死の状態で運ばれてきた時、手の施しようがなかった儂はあの子の命を諦めとった。だが、どこからともなく現れた魔女は、火のように朱い丸薬を差し出してただ一言儂に問いかけた。『彼女を救たくはないか?』と」
「……なるほど」
「驚かんのか?」
「マギドラの入手にはいくつかルートがありますが、魔女から与えられるというのはもっとも多いケースです。奴らはマギドラをばら撒き、その効力を人間を利用することによって検証する。つまりは人体実験です。貴方も彼女も、まんまと利用されたんですよ」
老人は自らを嗤った。
嗤いながら、両手で顔を覆った。
「後悔したよ。自分の浅はかさを呪った。それでも、何とかしようと娘の身体を診た」
「でも、わかったのは彼女が死なぬ身体になったことと、その血に治癒能力があるということだけだった、ですか?」
「ああ、そして、そのことを知った里長は変わってしまったよ。最初は『怪我も病もない村にしよう』と息巻いていたが、月日が経ち、気付けばご覧の有様だ」
「十分です。聞きたい話しはもうありません」
ケイは立ち上がり、
「待ちなさい」
老人が制止した。
「どうする気だ? この話しを聞いて、何もしないわけではあるまい」
「俺はマギドラの専門家、魔薬師です。世にあるマギドラの鑑定、保存、調剤、交付、処理を生業とする者です。成すべき事をするだけ。この村で常識となりつつある異常を、取り除きます」
「そんな事ができるのか? いや、仮にできたとしても、お前さんはーー」
「彼女は、私に自らを殺してくれと懇願してきました」
老人の言葉を遮り、ケイはぴしゃりと言う。
「永遠に苦しむのなら、浄火の聖女を続けるのなら、死んだ方がいいと断言しました。そんな彼女を……貴方ならどうしますか?」
老人の返事を待たず、ケイは歩き出す。
ケイが扉を開くと、日はすっかり昇り、その日行われるであろう浄火の時間が迫っていた。
「聖女は俺が処理します。どうかお達者で」
そう言って、ケイは扉を立ち去った。
5
「皆の者、大変待たせた。これより聖女様による浄火を始める」
ケイが祭殿の前に辿り着くと、正面口を開いた里長が満面の笑みを振りまいていた。昨日と変わらずできあがっていた人垣は一つの生物のようにうねり、這いずり、やがて一本の綺麗な列になる。
ケイは昨日と同様に、人の群れを避け、ずかずかと歩き、座している聖女の前に立った。
列を成していた人々は不満や暴言、戸惑いを口々にしていたがケイは知らぬ存ぜぬという態度。それは慌てて駆けてきた里長を前にしても変わることはなかった。
聖女も、まさかこのタイミングでケイが来るとは思っていなかったのか、目を丸くしていた。
「本当に、いいんだな?」
ケイの真っ直ぐな眼差しと、短い確認。
聖女は固唾を呑み、そしてケイと同様の真っ直ぐな眼差しを返して頷いた。
「……わかった」
ケイが動く。
目の前にいて何かを喚いている里長の胸ぐらを左手で掴むと、堅く握りしめた右の拳を肉付きのいい里長の顔面に叩きつけた。
鈍い音がして、口を切った里長がゴロゴロと転がり、周囲は静寂に包まれた。
ケイは唖然としている聖女を抱え、人気のない場所に向かって駆け出した。
その場にいた誰もが、何もできず眺めていた一拍の後、
「何をぼさっとしている。早く追わないか!」
怒りで顔を真っ赤にした里長の怒号で、人々は弾けるようにケイと聖女の後を追った。
「ケイ、どうしてあんな事を?」
ケイに抱えられていた聖女はようやく我に返り、必死に走るケイを問いかけた。
「マギドラは人を狂わせる。――わかっていても、許せないことはある」
それだけを言って、ケイは走る速度を更に上げる。
住み慣れた人間であっても歩くのに苦労する道を、ケイは難なく走り抜ける。
だが、そんなケイと聖女の逃走は呆気なく終わりを迎えた。
そこは里の中央を流れる川の端。滝の流れ落ちる場所だった。見下ろせば足が竦むほどの高さがある。
ケイ達の周囲を、里の住人達がぐるりと取り囲んでいた。
「ケイ、どうするの?」
「大丈夫だ。任せてくれればいい」
ケイは聖女を地面に下ろし、その頭を優しく叩いた。
「ようやく追い詰めたぞ。愚かなよそ者め」
遅れてやってきた里長が、息を切らしながら前に出てきた。額からは汗を流し、目は真っ赤に血走っている。孕んだ怒気は殺気となり、全身からピリピリと漲らせていた。
「それを独占するつもりだったんだろう、卑しい奴め。それは私の……いや、この里のものだ」
血の混じった唾を飛ばしなが叫ぶ里長に、そうだそうだと周囲の村人はそろって声を上げる。殺気がじわじわと増長し、その場に満ちていくのをケイと聖女は肌で感じていた。
「この子を平然と物扱いか。いよいよ末期だな」
「黙れ黙れ黙れっ! よそ者が、よそ者のくせに偉ぶりやがって。今ここで殺してやる」
里長の怒声を合図に、囲む村人たちが距離を詰め始める。
ケイは傍らで怯える聖女を庇うように前に出た。
「落ち着けよ。そんな煩わしいことをしなくても、もとより死ぬつもりだ」
「ははは、そいつはいい。面白い。ならとっとと死ね。死んで見せろ」
「そんなに急かすな。物事には順番があるんだ」
そう言って、ケイは聖女へと振り返る。その薄い肩を両手で掴むと、
「先に謝っておく」
言うや否や、ケイは聖女の唇を奪う。舌を割り込ませ、聖女の舌に絡ませると、音を立てて聖女の唾液を啜った。
驚愕する聖女。
呆然とする里長と住人。
ものの数秒で事は済み、ケイが唇を離すと、聖女の唇との間に糸がひいた。
「そんなっ……わ、私っ、は、はは初めて……初めてっ! だった、のに!」
今にも燃え上がりそうなほど顔を真っ赤にし、聖女は瞳を潤ませてケイの胸をポカポカと何度も叩いた。
「悪い。続きはあの世で聞くから」
とんっ、とケイは取り乱す聖女の肩を軽く押す。
「ーーえ?」
それだけで聖女の身体は大きく傾き、滝壺へと真っ逆さまに落ちていった。
ケイは火の巫女の姿が見えなくなるのを確認してから、里長の方へ振り返る。
「死んだぞ」
あっけらかんと告げるケイに、周囲は騒然となる。
「お前、自分が何をしたのかわかっているのか? いや、今はそんなことどうでもいい。誰か早く妻女様を回収に行くんだ」
「無駄だよ」
里長の指示を、ケイは一蹴する。
「聖女様なら、たった今死んだ」
「ふん、何を言い出すかと思えばくだらない。アレが死ぬわけがないだろう」
「それはどうかな?」
ニタリと笑みを浮かべるケイに、里長は言い様のない不安に駆られた。
「あんたも知っているように、彼女は自らを燃やすことによって再生する。だったら、火の燃えない場所で死ねばどうなると思う? 例えば、水の中とか」
「まさか……嘘だ」
「信じる信じないはそっちの勝手だが、専門家の言うことは聞いておいた方がいい。でないと無駄な時間と労力をさく羽目になる」
「このっ、殺してやる」
「だからその必要はない。俺もこれから死ぬと言っただろう」
里の住人達が見ている目の前で、ケイは平然と滝の方へ後退していく。
「お前は、狂っている」
「それは正しい見解だ。マギドラは人を狂わせる。専門家である俺だって例外じゃない」
あと一歩下がれば落ちるというところで、ケイは足を止めた。
「もう手遅れかも知れないが、狂った俺からの餞別だ。ーーあんた達は聖女様の浄火という異常に慣れすぎた。異常に接し続けていれば、依存すれば、もう助かりはしない。あとは衰退と滅びを待つだけだ」
「何だ? 何が言いたい?」
「この里の住人はよく怪我をしないか? よく病気にかかったりしていないか? おそらく日常茶飯事だと思うんだけどな」
ケイの台詞に、里長の、住人たちの顔から一気に血の気が引いた。
「それじゃあ、俺はもう死ぬぞ」
「待て。待ってくれ。お願いだ!」
「早く死ねと言ったのはあんただろう」
「頼む。聖女様がいなくなった私らはどうすればいい? 怪我をしたら? 病を患ったら? どうすればいいんだ?」
今にも泣き出しそうな、すがりつくような里長を目の当たりにして、ケイは呆れたように息を吐き、目を閉じる。
「どうするも何も、普通に、医者を頼ればいいだろう」
言って、ケイは後ろに跳んだ。
あっと言う間もなく、その姿は聖女同様、滝壺へと吸い込まれ消えていった。
6
ケイが目を開くと、そこは滝壺から少し離れた川沿いにある岩の上だった。
見上げた空にはまだ太陽が高く、ケイが飛び降りてからさほど時間が経っていないことがわかった。
「やっと起きたわね、ケイ」
ケイを頭上から覗き込む影があった。
整った顔立ちは、その両頬を膨らませて不機嫌を露わにしている。朱く長い髪は濡れて少女の身体の至る所に張り付いていた。
「よお、引き上げてくれたのか」
「言いたいことがたくさんあったけど、落ちてきた貴方が燃えながら流れてくるから、全部忘れちゃったわ」
「そいつは、怪我の功名だな」
ケイは笑いながら身体を起こす。浄火の力のおかげか、痛みや不調は微塵もなかった。
「でも、まさかケイが私と同じだとは思わなかった」
「何がだ?」
「ケイも不死鳥薬を飲んでいたんでしょ? 燃えていたし」
「いや、俺は不死鳥薬を飲んではいないぞ」
「え? でも、どうして?」
「そもそも不死鳥薬というのは不死鳥の血を原料に精製されていると言われている。そして不死鳥薬を飲んだ者の血や体液にも一時的ではあるが同等の効果があると言われている」
「血? 体液ってーーあっ!」
滝に落ちる直前の事を思い出した少女は、その顔を再度真っ赤にした。
それを尻目に、ケイはくつくつと喉の奥で笑って立ち上がる。
「ケイは、嘘吐きだわ」
「何だよ、急に」
「私は殺してって頼んだのに。こうして生きているもの。どうせ、不死鳥薬を飲んでも死んだ人がいるっていうのも嘘だったんでしょ」
「嘘じゃない。不死鳥薬を飲んでも死んだ事例は本当にある」
ケイは拗ねる聖女の頭をぽんぽんと叩いた。
「その昔、仲の良い夫婦がいた。しかし女性の方は病弱で、若いうちに大病を患って死にかけてしまう。それをどうにかしようとした男性はどこからか不死鳥薬を手に入れてきて、女性の延命に成功したという。その後、二人は末永く幸せに暮らし、やがて男性が老衰で亡くなった。すると、傍らで見守っていた女性も灰になって崩れたという」
「もしかして、私が死ぬ方法って」
「ああ、憶測だが、恋をすることだ。一生を添い遂げてもいいという相手を見つけて、死が二人を分かつまで一緒にいることだ」
「私が、恋?」
「あの里にいる限り。聖女様でいる限り。お前はきっと恋なんてできなかっただろう。でも、もうお前は自由だ。好きなところへ行き、好きに生き、好きな奴を見つけて、好きに死ねばいい」
言って、ケイは優しく笑いかける。
その笑みに、聖女と呼ばれていた少女は胸が高鳴るのを感じた。
「そ、そんな、急に自由だと言われても困るわ。どこに行けばいいかもわからないし、どう生きればいいかもわからない」
だから、と少女は一歩ケイへと歩み寄った。
「しばらく、ケイと一緒にいさせて」
少女の自然な上目遣いに、ケイは一瞬たじろぐ。それから気恥ずかしそうに頭を掻き、らしくない小さな声で、
「死にたがりな聖女様に、トドメを刺さないとな」
ぶっきらぼうに言った。
そしてわざとっぽく咳払いをし、少女に面と向かって立った。
「これからよろしくな、セツ」
ケイから少女への最初の贈り物。
それは、間違いなく少女の胸を打つものだった。
「うん、ありがとう。ケイ」
それは、少女が長らく忘れていた笑みさえも思い出させるものだった。
マギドラ ギフト @UuUlaifu
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