第1話 変わり者のクラスメイトと人殺しのサンタクロース

その日の放課後。

 高校の薄暗い教室で、俺は何をするわけでもなく、一人ぽつんとたたずんでいた。別に用事があるわけでもなければ、誰かと待ち合わせをしているというわけでもない。

 理由のない、ただの気まぐれだった。 

「ーーそれにしても」

 教室正面にある黒板の日付隣り、ハートや音符でデコレートされて書かれたそいつを見て、俺は憂鬱な気分で満たされた。

『クリスマスまであと5日!』

 クリスマスの到来に浮き足立った女子たちが書いたと小耳にはさんだが、ずいぶんと余計なことをしてくれたものだ。こんなことをわざわざしなくても、俺の中でクリスマスへの――さながら死の宣告に類似したカウントダウンは十分だというのに。

「消すか」

 無論、黒板に書かれた文字をだ。

 書いた女子たちに恨みはあれど、危害を加えるつもりはない。罪を憎んで人を憎まずというやつだ。というか、書いた女子たちを消してしまったら、それはそれで大問題である。

 動機がクリスマスのカウントダウンなんて、洒落にもならない。

 さておき、決断した俺は早々に行動に移る。黒板の前まで歩いて、クリーナーで綺麗になった黒板消しを手に取り、黒板に押し当て、

「おや、これはこれは、珍しい人がいますね」

 前触れもなく声をかけられ、手を止めていた。

 いや、台詞からして声をかけるというよりはつぶやきに近いと思うが、それにしたって声量が大きかったので、俺としては反応せざる終えなかった。

 振り向かされた。

 要するに、声をかけられたのだ。

 振り向いた視線の先には女子生徒。西條明が立っていた。

 髪は襟首まで伸びた黒のストレートで、年頃の女子高生には珍しくその顔には化粧が一切ほどこされていない。鳶色の瞳がフレームのないメガネの奥で瞬き、ふっくらとした桃色の唇は緩やかな曲線を作っている。百五十とちょっとの身体は凹凸が目立たず、実に日本人らしい体つきだ。

 西條は同じクラスの女子ではあるけど、ぶっちゃけてしまうと隣の席なんだけれど、俺は彼女がどういう人物なのかを一切知らなかった。話しかけたことなんてないし、話しかけられたことだってない。もっと言ってしまえば、こいつが誰かと話している場面すら見たことがなかった。

 何を考えているかわからない奴。

 西條明を一言で説明するならこれに限る。

「いたら悪いか?」

「そんなことないですよ。生粋の帰宅部で、いつもホームルームが終わると真っ先に教室からいなくなる沢野君が放課後になっても残っているなんて、きっと失恋でもしたんでしょう可哀想にーーと、ちょっと驚いただけです」

「内容が具体的だな」

 でもって、失礼だ。

「おっと、オフレコでお願いします」

「本人を前にしてオフレコもないだろ」

「申しわけありません。なにぶん嘘がつけない性格でして」

 本当だ。

 口では謝ってるのに、顔は全然悪びれてない。

「ところで、沢野君は誰もいない教室で何をしているんですか?」

「俺? 特に何もしちゃいないぞ」

「では質問を変えましょう。沢野君は、今何をしようとしているんですか?」

 ぴっと西條に指さされた先には、黒板消しを持つ俺の手があった。

 消そうとしていたのをすっかり忘れていた。

「あ……と、消し残しのある黒板を綺麗にしようとしてたんだよ」

「なるほど、殊勝な心がけですね」

 目を半分に細めた西條がゆっくりとした足取りでこちらにじりじり寄ってくる。みるみると、ぬるぬるとーーって、近い近い近い!

 目と鼻の先。吐息さえも感じられそうな距離まで接近して、俺が思わず仰け反ったところで、ようやく西條の顔は止まる。覗き込んでくる西條の瞳は、薄明かりの中で妖しい光を滲ませていた。

「何だよ、文句でもあるのか?」

「いえいえまさか、文句なんてこれぽっちもありません。私が書いたわけでもありませんからね。いいんじゃないですか、消してしまっても。書いた方も勝手に書いたわけですし、でしたら消すのも勝手だと思います」

「そ、そうか」

「ええ、とても身勝手だとは思いますが」

「……」

 消しづれぇ。

 勝手も身勝手も意味合いは同じはずなのに、なんだこの罪悪感の違いは? これじゃあ消したとき、俺がすっごく悪い奴みたいじゃないか。

「どうしたんですか沢野君。黒板消しを持つ手が動いていませんよ。それはただチョークで書かれた文字です。クリスマスを心の底から楽しみにしている女子たちの、気持ちや思い出がつまっているだけじゃないですか」

「お前は、俺に消させたいのか消させたくないのかどっちなんだ」

「そうやって人に最終的な判断を押しつけるなんて、沢野君は無責任で嫌な人ですね」

「その台詞、お前にそっくりそのまま返してやるよ」

「でしたらこうしましょう」

 言いながら、西條はいつから持っていたのか、白色のチョークでカウントダウンを塗りつぶしてしまった。

 あっという間もなかった。

 俺は何が起こったかがわからず、見る影もなくなったカウントダウンを呆然と見ていた。

「嫌な人になってみました」

「いや、でもこれじゃあお前」

「さっさと消してください。それで共犯ですから」

 俺の言葉を遮るように言って、西條はニコリと笑う。そのイタズラっぽい笑顔が、俺の心臓をざわつかせた。

 共犯なものか。

 西條は嫌な奴になって。

 俺はちょっと嫌な思いをしただけなのだから。

「しかし意外だな。西條はもっと大人しいやつだと思ってたんだけどな」

 変わり果てたカウントダウンを消しながら、俺は背後にいる西條に話しかける。西條は西條で何かをしているようで、ガタガタという音が聞こえてきた。

「意外とは心外ですね。私は私を偽っていたつもりなんてありません」

「いや、でもさ、喋っているとこをあまり見たことないし、休み時間とかだいたい本読んでたりするだろ。なんていうか、典型的な図書委員キャラなんだろうなぁなんてひそかに思ってたんだぜ」

「図書委員……つまり、沢野君は私がムッツリスケベだと言いたいんですか?」

「俺の脳内変換システムにそんなもんはねぇよ」

「ムッツリスケベあるところは否定しませんけどね」

「そこは嘘でも否定しろ。そして恥じらえ!」

 人って見た目で判断するもんじゃないな。

 まさか西條がここまでおしゃべりで変な奴だとは思わなかった。

 あと、ムッツリスケベ。

「私としても、意外ではありましたけどね」

「何がだ?」

「沢野君の人柄がです。貴方はいつも孤高で、話しかけづらい、あるいは話しの通じる相手ではない。典型的な不良キャラなんだろうと、ひそかに思っていたんですよ」

「不良キャラね」

 ひそかもなにも、俺は不良だった。

 なりたくてなったわけじゃない。気がついたときには、両親をのぞく周りの人間が俺を不良として扱っていた。それだけのことだ。

 良くない人間。

 欠陥のある人間。

 煙たがられる人間。

 つまり俺はそういう奴で、学校という場所があまり居心地の良いものでないのは確かだ。

「この辺りではちょっとした有名人ですよ。たしか『激昂のサンタクロース』でしたよね?」

「なんだその肩書き? 初耳だぞ」

「ええ、私が今思いついて呼んでいるだけですから」

 知る由が皆無すぎる!

「一応聞くが、何で『激昂のサンタクロース』なんだ?」

「さんた、だからですよ」

「はい?」

「沢野讃太。貴方のフルネームでしたよね。『月明かりだけが照らす世界、怒れる讃太は返り血によって自らの服を赤く染める』と言ったところでしょうか」

「物騒すぎるし、俺はそこまで荒れた覚えはない! っていうか、したり顔でそれっぽい雰囲気の声出して語るな」

「我ながらいいセンスしてると思ったんですけどね」

「いいや、小学生か、よくて中学二年生レベルのセンスだ」

「気に入ってくれないんですか?」

「気に入っているように見えるか?」

 サンタクロースやクリスマスのせいで荒れたというのに、こんな肩書きが付けられてしまうとは。

 これを皮肉と言わずしてなんと言えばいいのやら。

 まぁ、それに関しては俺にこんなキラキラネームみたいな名前をつけた両親にも文句を言ってやりたいのだが、それはひとまず置いておこう。

「それで話しを戻すけど、西條は俺のどこが意外だったんだ?」

「はい、沢野君が実はヘタレで、とても弄り甲斐のある人だということが発覚しました」

「そんな見直し方、ちっとも喜べねぇよ」

「お婆ちゃんが言っていました。食べず嫌いは良くないと」

「お前は、俺を食うつもりなのか?」

「失敬、人見知りと間違えました」

 なんて台詞を、西條はにやりと笑って言った。

 俺の反応を見て楽しんでやがる。

「もういい。ーーところで、さっきから西條は何をしているんだ?」

「見てわかりませんか?」

 西條の言うとおり、俺の質問は愚問だった。

 彼女が何をしているのかなんていうのは一目瞭然で、だから、俺がするべき質問は次のようになる。

「どうして、掃除してるんだ?」

 柄の長い箒を両手で持ち、西條は教室中央にゴミを集めていた。もっとも、本日の掃除は掃除当番たちが済ませたので、集まっているゴミも少ない。

「どうしてと訊かれましても、したいからしているとしか答えられませんね」

「潔癖なのか?」

「そうではないんですけど、癖ようなものだというのは確かですね」

 掃除するのが癖で、潔癖じゃない。

 なぞなぞか?

「悪い。先に言っておくが、俺はクイズやなぞかけの類にはめっぽう弱いんだ。できれば、差し支えなければだけど、はっきり言ってもらえると助かる」

「さて、どうしましょう」

 動かしていた手を止めて、西條はその場で思案顔になる。どうやら意地悪で教えないというわけではないらしい。

 どちらかといえば、俺みたいな言葉を交わし始めて間もない輩に、気安く喋れる内容ではないということだ。

 話したくないのなら、無理には聞かないぞ。

 そんな紳士的かつ気の利いた一言を俺が告げるよりも早く、西條は口を開けていた。

「“良い子”になりたいんですよ」

 俺が口を挟むのを妨げるように。

 流れるように。

 つぶやくように。

「私は、サンタクロースに会いたいんです」

 しかしはっきりと、彼女はそう口にしたのだ。

 聞き間違いなんかじゃなかった。


***


 そうして時は過ぎて、時刻が午後八時をちょっと過ぎたあたり。満点の星空をぼんやりと眺めながら、俺は薄暗い田舎の住宅街を歩いていた。外灯の数はまばらで、俺以外の通行人は一人として見あたらない。寒さで澄んだ空気は静まりかえっていて、チンケな表現をするなら世界に一人きりになった気分にさせてくれる。

 俺がついさっきまでいたのは、学校近くのゲームセンターだ。

 古くて、たばこ臭い。やる気のないぐうたら店員と、暇をもてあました若者たちのたまり場になっているところだ。そこで俺は一昔前に流行っていたリズムゲームやシューティングゲームをやっていたというわけである。

 元々ゲームが好きだからっていうのもあるけど、一番の理由は家に帰りたくなかったから。

 我が家は自営で洋菓子の店をやっていて、クリスマスのシーズンになるとケーキをバイキング形式などで大量に売り出すのである。近所での評判もそこそこ良いから、ピーク時には洋菓子店とは思えない長蛇の列ができあがり、店内は嵐のような光景が広がる。

 で、そのタイミングで帰ると問答無用で手伝わされるのだ。

「腹、減ったな」

 ピークは過ぎたし、腹も空いた。

 そんなわけで、俺は今こうして帰路についているのである。


『すみません。変なこと言いましたよね私。もう帰ります。さようなら』


 ふと脳裏に蘇ったのは、数時間前に聞いた西條の言葉。

 あの後、西條はそう言い残して教室から早々に去ってしまった。

 集めていたゴミはちゃんと捨てていったし、掃除道具の後片付けだってしていった。

 でも、俺には何一つ聞かず、何一つ言わせてはくれなかった。

 不満があるとかじゃない。俺としてはむしろ何か言えと迫られる方が困るわけで、助かったのだ。

 サンタクロース。

 赤い外套をを身に纏い、トナカイが引くソリに乗り、空を駆けて世界中の良い子たちにプレゼントを配る老人。

 空想上だけの、実在しない人物。

「いもしない奴に、会えるわけがないだろ」

 あのとき言いそびれた言葉を、俺は今さら口にした。

 いや、正確には言えなかったのだ。

 サンタに会いたいと言う西條の顔はもの凄く真剣で、そんな西條に言えるわけがなかった。

 気軽に言ってはいけない気がしたのだ。

「フフッフ、そう頭ごなしに否定するものでもないでしょうよ」

 だよな。

 人の夢を否定するのはよくないよな。

 実現が可能であれ不可能であれ、その人の生きる原動力には間違いなくなるんだから。

「いえいえ、俺様がおっしゃりたいのはサンタクロースがいるっつーことですわ」

 そっちかよ。

 というか、サンタが実在するとか言っておいて、『グリーンランドのサンタクロース協会に登録されてる公認サンタのことだよ~ん』とかいうオチなんだろ、どうせ。

「テメェ殿もよくそこまでの雑学もってやすな。素直に感心しますわ」

 いやぁ、それほどで……も?

「うぁ」

 声に振り返って、俺は失礼なくらいどん引きした。

 第一印象は変質者。

 グレーのハーフパンツに薄汚れた白いシャツ。穴だらけのオンボロブーツに、全身をすっぽり覆うフード付き黒コート。チカチカと点滅を繰り返す街灯の下で、使い古したぞうきんみたいな肌と真っ赤な口がやけに鮮明で、気色悪かった。

「フフッフ、なかなか期待通りのリアクション。結構結構」

「自覚してんのかよ」

 たち悪いな。

「褒め言葉ですわ」

「いや、俺は自覚してんのかって言っただけだぞ」

「へぃへぃ、俺様が言っているのは『たち悪いな』のほうですんよ」

「は? 俺そんなことーー」

 待て。

 ちょっと待て。

 俺は、たちが悪いなんて口に出してないぞ?

「フフッフ、なぁに難しいことではありゃしません」

 言いながら、黒コートの変質者は一昔前の露出狂みたく、そのコートを全開にした。

「俺様は、ただの通り魔。通りすがりの悪魔ですから」

 直後、俺はわけがわからなくなった。

 乏しい表現力だと思われるかもしれないが、俺にはそうとしか言えないし、そうとしかその状況を受け取ることができなかった。

 視界は真っ暗で。

 口の中は砂を含んだみたいにざらついて。

 肌を舐める空気は生温くて。

 嘔吐物のような臭いが鼻をさして。

 悲鳴のような耳鳴りが脳まで響いて。

 わけが、わからなかったのだ。

 五感すべてが不快に侵されて、残された感情は恐怖一色に塗りつぶされた。

 逃げることも叫ぶこともできず、津波のように押し寄せてくるでたらめで鮮明な感覚に、ただ耐えるしかなかった。

「フフッフ、安心してくだせぇよ。悪いようにはしませんで。テメェ殿はサンタやクリスマスが嫌いなんでっしゃろ? なら俺様とは同志っちゅう関係になるんですよ」

 同志、だって?

「そう。俺様もサンタやクリスマスが大嫌いなんですわ。だから、テメェ殿には力を貸してあげるんすよ。あの忌々しいサンタやクリスマスをメチャクチャにするねぇ」

 思考が止まっていた。

 さっきまで胸中を占めていた恐怖がすっかり消えた。

 代わりに芽生えた憎しみとか、憤りとかが溢れて上回ったからだ。

「本当か?」

「えぇえぇ、俺様は十二月が生んだ悪魔。契約は必ず守りますとも。フフッフ」

 サンタクロースが憎かった。

 クリスマスなんて大嫌いだった。

 それをメチャクチャにできるんだっていうなら、俺はーー。

「面白そうなことしてるな。お前ら」

 声がした。

 それは思考を遮る声で、俺にとって衝撃的だった。

 否。衝撃そのものだった。

「あガっ!」

 左のこめかみに痛烈な一撃を喰らった俺は、あり得ないことに十メートル離れた電柱まで吹っ飛ばされ、激突することで止まる。電柱は折れて倒れて、俺の背後で無惨なことになっていた。

「な、んだよ。クソが」

 普通なら致命傷になりかねない奇襲を受けた俺はしかし、痛む頭をさすりながらも問題なく立ち上がっていた。

 それだけじゃない。暗かった視界は昼間のように鮮明で、聴覚や嗅覚など他の感覚も研ぎ澄まされているような気がした。

「悪い子だ。十二月の悪魔なんかと契約するなんて」

「あ? お前はなんだよ」

「うはは、この俺を見て、その質問は不要なんじゃないか?」

 赤いコート。

 赤い帽子。

 黒いブーツにベルト。

 へらへらと笑うオッサンは、どこからどう見ても、紛うことなくサンタクロースの格好をしていた。

 たったそれだけのことが、この上なく胸くそ悪かった。

「サンタのコスプレした変態野郎だろ!」

 俺は怒鳴りながら十メートルを瞬く間に駆け抜け、油断しきっているコスプレオッサンに殴りかかった。

 きっと頭部が潰れて中身が飛び出すだろうけど、どうでもいい。

 殺すつもりで、俺は拳を振り下ろした。

「筋は悪くない。が、まだまだだ。直線的すぎる」

 トンッ、と軽く足を払われて、俺は勢いのままにアスファルトにキスさせられた。

「っの野郎」

 すぐに立ち上がって、サンタコスプレのいる方を見る。

 けど、そこに奴の姿はすでになかった。

「こっちこっち」

 いつの間にか俺の正面に立っていたコスプレオッサンは、俺の眉間、顎、鳩尾を拳でテンポよく打ち抜いていった。俺は防ぐことも避けることもできず、仕上げの回し蹴りでぶっ飛び、宙をくるくる回って、再度地面に這いつくばることになった。

「安心しろ。ちょいと痛むが、すぐ助けてやるからな」

 見下ろすオッサンが何かを言っている。

 助けるだって?

 笑えすぎて腹筋崩壊するぜ。

「ふざけんなよ。俺はサンタなんて信じちゃいないし、信用だってしてない。助けなんてまっぴらごめんだ」

 立ち上がろうにも、ダメージを受けすぎたらしく、うまく体勢を立て直せなかった。

 でも。

 それでも。

 あのふざけたコスプレ野郎を一発ぶん殴らないと気が済まなかった。

「ああああああぁぁぁぁあああああああぁぁあぁあぁぁぁぁああああっっ!」

 腹の底から吼えて、全身に気合いを入れる。

 不思議なことに、それだけで体中の痛みが消えて力がみなぎった。

「……さ……た」

 コスプレオッサンが何かを寂しげに呟いたが、うまく聞き取れなかった。

 今までにないほどのでかい隙。

 俺にはそれだけで充分だったのだ。

 足下のアスファルトを蹴り砕き、勢いに乗って肉薄。

 ふざけたコスプレ野郎の脳天に今度こそ必殺の一撃を!

「悪いな」

 喰らわせる寸前で、俺は三度目の地面を味う。

 振り抜いた腕を掴んでの、とても綺麗な一本背負いだった。

「終わらせてやる」

 胸ぐらを掴まれ、今度は力任せに宙へ投げられた。

 上空からだと距離感が全然わからないけど、学校の屋上から見下ろしたときくらいの高さはあるような気がした。

「歯ぁ食いしばれ」

 眼下では、どこから出したのかコスプレのオッサンが鞭を手にしていた。そして、オッサンが鞭を一振りした瞬間、嵐のような打撃が俺の全身をくまなく襲った。一撃一撃が拳大の石をぶつけられたかのように重く、ナイフで裂かれるかのように鋭い。それこそ体がバラバラになるんじゃないかってくらいの猛襲だった。

「フィニッシュだ」

 かろうじて聞こえた台詞のあとに、腹が締め付けられる感覚。霞む視界で見れば、鞭がしっかりと巻き付いていた。

 ぐんっと引き寄せられ、俺は自由落下よりも早く地上に吸い込まれる。

 そんな俺を待っているのは無論コスプレ野郎だ。獲物を仕留める猛禽類みたいな眼光で、殺気を放ちまくって拳を握りしめていた。

『まずいっすネェ』

 脳内に悪魔の呟きと、サンタが拳を突き出すのはほぼ同時。

 結果、俺の鳩尾部分には風穴ができていた。

「おい、嘘だろ!?」

 豹変したのはコスプレオッサンの顔だった。全身に俺の返り血をたっぷり浴びて、自分がやったくせに目を白黒させていた。

「ガハッ」

 喉の奥から血が逆流して、口からゴボリと噴き出した。

 激痛と燃えるような熱さ。

 ああ死ぬんだなぁなんて他人事みたいに思いながら、俺の意識は朦朧となっていった。

「おい、しっかりしろ。大丈夫ーーじゃないよな。こういうときは傷口を心臓より高い位置。なんてレベルじゃない。ええと、どうすりゃいい」

 さっきまで俺のことを遠慮なく殴っていたオッサンはすっかり余裕をなくし、手についた俺の血をまき散らしながらあたふたしていた。

 そんな滑稽な姿を目に焼き付けながらも、俺は人生の最期にこう思った。

 やっぱ、サンタなんて大嫌いだ、と。

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