遭遇

【一】


 香ばしいパンの匂いがする。それが合図かのように、下の工房から声が聞こえた。

「ロティや、ちょっと届けてきてくれるかい」

 養母のカヤに呼ばれ、ロティは作成中の矢じりを片付けると、二階の部屋から外階段に出た。トゥラヒールの町は昼下がりの日差しに包まれ、通りを歩く野菜売りの威勢の良い声が聞こえる。階下では、ちょうど養父のラジンがを大きなバスケットを抱えて工房から出てきたところだった。

「おお、ロティ。代わりに行ってくれるのか」

「うん。父さんも母さんも最近は腰が痛いみたいだから。ゆっくり休んでよ」

 ロティはバスケットを受け取ると、カヤの字で書かれた配達先のメモに目を通した。ほとんど近所だったが、一軒だけ初めて行く家のようだ。

「そうそう、そこのお宅には先週赤ちゃんが産まれてね」

 工房のドアからカヤが顔を出した。

「そのお祝いだよ。カカドの実を使った丸いパンさね。健康に育ちますようにって」

「へえ、そうなんだ」

 バスケットには一際大きな丸いパンが一つ入っている。カカドの甘酸っぱい香りがした。

「今度、おれにも作り方教えて欲しいな。カカドは煮詰めるの?」

 ロティの言葉にカヤは困った顔をした。

「それよりロティは勉強してお役人さんにでもなっておくれ。パン屋なんて私たちだけで充分さね。ねえ、じいさん」

「ああ。何しろロティは、神様が与えてくださった――」

「いってきます!」

 最後まで聞くことなく、ロティは駆け出した。ラジンの言うことはいつも一緒だ。

 ――神様が与えてくださった尊い御子だ。

 そんなはずはない。自分は山奥で拾われた孤児なのだ。養父の口癖が愛情表現なのはわかるが、どうしてもやるせなくなる時がある。山の中で泣いていたこと以外は何も思い出せない。どこかの戦争から逃れてきたのだろうと聞かされた。

 それでも、子どもに恵まれなかった養親は、ロティを我が子同然のように育ててくれた。周囲の住人も戦災孤児だと忌避することなく親切だった。しだいにロティも打ち解けるようになり、今では何も不自由なことはない。自分の生まれ年など当然覚えていないが、周りの話からすると十六歳くらいの年齢のようだ。子どもから大人の身体になりつつあるのは自分でもわかる。

 このまま、パン屋の跡継ぎになるのも良いが、外の世界を見てみたいとも常々思っている。単純に、若者にありがちな冒険心が芽生えてきたのかもしれないが、役人になるためなら養親を遊学も許してくれるだろうか。

 ――きっかけも、お金もないからなあ。

 そんなことを考えながら、ロティは近所の家々を回り、パンの配達を続けた。シズ王国の王都であるトゥラヒールの町は、今日も陽気な音楽が流れ、人々でごった返している。この周辺では、最大国家の王都だけあって、多くの旅人の姿も目にする。そのたびに、ロティは自分を冒険者の姿に重ねて、一人でわくわくするのだった。

 誕生祝のパンを抱え、入ったことのない路地に向かう。初めて訪れる家に少し緊張しながらノックをすると、中からふくよかな女性と、これまたふくよかな赤ん坊が顔を出した。

「こんにちは。カカドのパンをお届けにきました」

「まあ、いらっしゃい」

 女性は柔らかく微笑むと、家の中に声をかける。奥から赤ん坊の父親だと思われる男が現れて、パンを受け取った。ロティは代金を確認すると、袋にしまいながら頭を垂れた。

「新しい命に、燦爛たる者(スチル)たちの加護がありますことを」

「どうもありがとう」

 幸せに包まれた家を後にして、ロティは空のバスケットを弄びながら、少し町をぶらつくことにした。そこへ、前方から見慣れた帽子をかぶった人物が歩いてくるのが見えた。

「あ、コット先生。こんにちは」

「ロティか」

 狩人のコットはわずかに目尻を下げただけで、顔は相変わらず無愛想だった。ずいぶん前から、ロティは男子のたしなみとして、家の真向かいに住んでいるコットから弓矢を習っていた。養父母も、いつか飽きるだろうと好きにさせてくれている。よその軍事国家では、弓矢を凌ぐ兵器が開発されているという噂話を聞くが、ロティは弓を射る瞬間の研ぎ澄まされていくあの感覚が好きだった。今では野鳥を射落とすくらいまで上達している。今は禁猟の時期だが、コットは夏に備えて弓づくりの材料でも調達してきたのだろうか。にわかにロティも弓矢の素材探しに行きたくなった。

「そろそろ狩猟の準備時期ですよね。おれも新しい弓作りを実践してみようかと思います。湖のある森なら、それなりの木がありますよね?」

 しかし、弓矢の師匠は、やや深刻な顔でロティに言った。

「近頃、森が騒々しい。お前も気をつけろ」

 そして頭に軽く手を置くと、コットはゆっくりとその場を去っていった。珍しいこともあるものだ。教え子に対して心配するような言葉をかけるなんて、今まであっただろうか。あのぶっきらぼうな態度が、実は照れ隠しだったということを最近は理解してきたが、さすがに率直な態度で心配されると少々戸惑う。ロティは師匠の気遣いに感謝しつつ、なるべく森の奥へは行かないよう決めた。


 街路を抜けて、小川にかかる橋を渡る手前で、人影がたたずんでいるのが目に入った。あちこちを見渡し、どうも道に迷っているように見える。すると、その人物もロティに気づいたようでこちらに近寄ってきた。

 しかし、ロティは思わず身構えてしまった。


 黒く長い髪をした、背の高い女だ。

 しかも顔の左半分は仮面で覆われている。


 鼠色の外套に身を包み、肩には布袋を、腰には細い剣のようなものを下げており、すぐに旅の者だとわかった。しかし、その半仮面だけは異様に感じてしまう。ロティは気づかないふりをして橋を渡ってしまおうと決めた時、声をかけられた。

「お急ぎのところを申し訳ない」

 静かで落ち着いた女性の声だった。見た目はともかく、丁寧な物言いにロティは少しだけ警戒心を解いた。

「何ですか」

 ロティの声色で察したのか、半仮面の女は頭を下げた。

「私は初めてこの町に来た者。どうか道を教えていただけないだろうか。このトゥラヒールに探知術が使える術師チャディアがいると聞いたのだが」

「あ、えっと。ペンデック先生のことかな」

 ロティは、昔聞いたカヤの話を思い出した。トゥラヒールには先祖代々、術師チャディアの血を引いた家柄の屋敷があると言っていた。ペンデックという名前だったはずだ。かなりの高齢らしいが、おそらく間違いないだろう。

 丁寧に屋敷の位置を説明すると、半仮面の女は再び頭を下げ、立ち去った。

 ――術かぁ。

 その存在は確かに知っているし、使える人間がいるのも承知している。けれど、実際には見たことがない。大昔はたくさんの術師チャディアがいて、やれ稲妻だ、やれドラゴンだと魔法を操っていたようだが、それもおとぎ話なのではないかと疑っている。ペンデック家が術師チャディアの家柄でも、せいぜい予言だの予知だの、占い程度のことを行なうだけなのだ。あの半仮面の女のように頼る人間がいる以上、不要なものとは言わないが、どうもロティはそういう話に抵抗がある。単に、興味がないふりをして、自分には術の仕組みを理解できないだけかもしれない。基本的に勉強は苦手なのだ。

 ロティは湖に向かう森の中で手ごろな枝を拾い集めた。自分はまだ貧弱な道具しか作れないが、いつか師匠のコットと肩を並べるくらいの狩人になるつもりだ。きっとその力は、自分の歴史を辿る冒険には必要だから。そんなことを考えていると、アンジールの木が実をつけているのを見つけた。ロティは思わず歓声を上げ、その小ぶりの果実を一つもいだ。遅咲きの種類だろうか。もう収穫の季節は終わりかと思っていたが、この上ない幸運だ。アンジールのタルトをカヤに作ってもらおうと思い至ったところで苦笑する。

 ――冒険者はタルトくらいで舞い上がらないよなあ。

 もう一つ取ろうと手を伸ばした時、馬蹄が聞こえてきた。こんな場所を走る馬など珍しい。誰かが放牧している家畜かと思ったが、それにしては音が激しいようだ。ロティは音がする方に注目していると、湖の反対側から一斉に鳥たちが羽ばたいていくのが見えた。異様な鳴き声も聞こえる。ただならぬ予感がして駆け出すと、ちょうど道が緩やかに下る先、木々の間から一軒の家が見えた。こんなところに人が住んでいたとは驚きだ。確かに静かで住みやすいかもしれないが、町から離れすぎている。移動には馬が必要だろう。そう考えると、さっきの馬蹄もあそこの住人の荷馬車かもしれない。

 拍子抜けしたロティは、元来た道を引き返そうとした。


 その時――。


「うあ!」

 横の茂みから大きな馬が一頭飛び出した。さらに、もう一頭が道に躍り出る。いななき、興奮した馬たちが乗せているのは、黒と黄色の頭巾で顔を隠した二人組みだった。

 ロティは反射的にそばの大木に身を隠した。二人組みは周囲を確認すると、何かの合図をして馬の腹を蹴り、駆け出した。その後に続いて、さらに栗毛の馬がロティの目の前に飛び出す。何か大きな荷物を背負わされている。

 それは、黒い布をかぶされた一人の女だった。馬の背に仰向けのまま縄でくくりつけられている。馬が駆け出すと同時に、女の細い手から何かが転がり落ちた。それに何の反応も示さない女はまるで死んでいるように思えた。


 その異様な光景にロティは棒立ちになった。

 女を乗せた馬が坂道を登り切ったところで、ようやく我に返り、道に飛び出す。

 ――誘拐。

 坂の下で呆然とするロティの足元に、白い布に覆われた箱のようなものが落ちていた。



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