第47話
救急車が走りだすと一道は気分の悪い横揺れや、寝たまま感じる加速減速の息苦しさに徐々に意識が遠くなるような気がした。その中で、胸の苦痛が一段とひどくなっていった。こんなに苦しいのなら死んだほうがマシだとさえ思えた。病院に着くとすぐに集中治療室に入れられた。
「九十パーセント以上の確立で急性心筋梗塞でしょう。急がないと厳しい状況です。すぐに循環器の医師を呼びます」
宿直の医師は心臓のエコー検査をしながら言った。
一道は耐えられないような苦痛にさいなまれ、意識を失いそうになりながらも耳だけは良く聞こえた。彼にはそれが不思議に思えた。ふと、通夜の時、死者の枕元でその人の悪口を言ってはいけない、全て聴こえていて死後の世界まで持って行くことになるから、と言われた事を思い出した。
心筋梗塞という言葉を聞いた時、彼は信じられなかった。いや、信じたくなかった。しかし、大変なことになったという気持ちになった。同時に父親を思い出した。父親もこんな苦しい思いをして死んでいったのかと思い、いとおしさを感じた。また、親子の宿業のようなものも感じられた。
一道はやがて時間の観念がなくなっていった。それと目は開いてはいたのだろうが、目に写る映像が意識の中に入って来なかった。ただ、妙にはっきりと聞こえる言葉だけで自分の状況を判断していた。
緊急手術をすることになった。心臓血管の外科の医師は宿直ではなかったが、すぐに自宅に連絡して出動要請された。その医師が車で病院に到着するまでの間も電話で様々な指示がなされて、その都度、一道の体に点滴のチューブなどが増えていった。どうやら手術のできる医師が到着次第、すぐに手術を開始できるようにしているようだった。
一道は、ベッドの周辺で宿直の医師と車で移動中の医師との会話を聴きながら、自分の手術が一刻の猶予も許されないものなのだということは理解したが、なぜか、自分のことのように感じられなかった。
手術担当の医師が来るまでに服を抜かされたり、点滴を打たれたりしているうちに、一道は徐々に意識が薄れていった。それにつれて苦痛も少なくなってくるようだった。どうやら耐えられないような痛さに、自己防衛的に意識を失いかけているようだった。やがてほとんど痛みも感じなくなった。それどころか妙に平安な、静かな気持ちになった。
・・・嗚呼、これが死というものだろう
彼はそう思った。しかしそれは、いかにも自分自身として信じ難かった。まさかこれで生を終えるとは信じられなかった。しかし、それからますます心が静まっていって、今置かれている状況との関係が遠いかなたのもののように感じられてきた。逆に、彼のこれまで生きてきた人生が急速に近づいてきて振り返られた。
父親や母親に守られて、何の不安もなく育った幼いころ、あの懐かしいまたすばらしい鯆越の山、海。そして旺盛な好奇心から作ったさまざまな真空管の機器と製作の喜び。そして悩める青春時代。仕事のこと、家族のこと。これらのことが人間としてのこの世の思い出として、宝のように豊かに慈愛深く感じられた。同時に、これほどまでも、無限にある大切なものが死というものを通じてなくなってしまうものかと思うと、本当に勿体なくまた残念なものだと思えた。なによりも、あれだけ全力を注いだ『楽器スピーカーシステム』が完成しないままに死ななければならないことは耐えられない思いがした。
「あんた、手術が上手くいくように祈っているから、がんばってよ!」
いよいよ手術室に入る時、和美が泣き声で言った。あれほど感情が表れない和美が泣いているのだと思うと現実に引き戻されるように感じた。
意識がもうろうとしている中で、手術は明け方までかかった。
一道の梗塞状態は心臓の筋肉へ血液を送る太い動脈が全部、百パ―セント近く詰まっていた。それで太股の動脈から通したカテーテルで詰まった血管を風船の原理で広げ、再度、詰まらないように血管の内側からステントと言われる金属製のスプリング状の梁を施術するものだった。それを五ヵ所も血管の中につけなければならなかった。
一道は意識を失ったのか、眠ったのか分からなかったが、昼過ぎになって意識がはっきりとした。
「ああ、俺は生きていた!」
彼は何か大きな戦いを終えたような気分になった。
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