第46話

 一道と桜井が『楽器スピーカーシステム』の完成に夢中になって日を過ごしているうちに、年を追うごとにというより月を追うごとにと言った方が適切なくらい、世の中の経済が音を立てて急速に崩れていった。景気後退というのは、徐々に悪化して知らぬ間に進み、気がついてみると景気が悪くなっていた、というもののように思われがちだったが、今回は見る見るうちに崖から転落するように落ちていった。

 米沢の必死の宣伝活動が続いていたにもかかわらず、あれほど売れていた《望郷》シリーズの注文数は急激に減っていった。会社の利益は未だかつてない急カーブで減益になった。また、一道のマンションのポストに入っていた「売り物件求む」のチラシが以前は迷惑するほど入っていたが、ほとんど入らなくなってきた。それと時期を同じくして、売りに出るマンションの値段が、信じられないほどの加速度を以て下落していった。

神津や米沢が、世の中はいったいどうなっているんだ、と思っているうちに、カミツ工業も容赦なく不況の滝つぼへと一直線に落ちていった。政治や経済などには全く無関心な一道でさえ、この異常事態に、

「やはり世の中が間違っていたんだ。大変なことになるぞ」と将来に不安を感じ始めていた。

 この不況への急降下の状態の中でも、『楽器スピーカーシステム』の製作は、一道と桜井で着実に進められた。

 作業の進行状態は完成まで八十パーセント程度のところまできていた。試聴室ホールのステージには、スピーカーを取り付けられた楽器とアンプがずらりと並び、壮観な景観になってきていた。次に取り掛かろうとしていた作業はピアノにスピーカーユニットを取り付けることだった。

 工場に来ていた毅に一道が声をかけた。

「グランドピアノを買ってくれ。できるだけ良い音のする奴を頼む」

 これを聞いた毅の顔が憎々しくゆがんだ。

「お前たちは一体何を考えているんだ。このままいったら、一年もしないうちに会社はつぶれてしまうんだぞ。これまでどれほど『原音再生プロジェクト』に金を注ぎこんできたと思ってるんだ。それなのに、会社がこういう苦しい時に何の役にも立たない。これまでは、金のことについては一切、なにも言わなかったが、もう、それどころではなくなった。こんな状態の時に、まだ金を出せというのか、お前らに会社をつぶされたようなものだ」

 毅は怒鳴り散らして工場を出ていった。毅の豹変ぶりに一道も桜井も驚きを通り越してあっけにとられていた。確かに最近の工場の在庫の増加を見ると不景気であるのは分かっていたが、カミツ工業がそれほど危機的状況にあるとは思わなかった。どうやら、工場自体の収益の悪化よりも手を広げていた不動産事業が壊滅的な打撃を受けているようだった。

一道と桜井にとっては、いくら資金が無くなったからといっても『楽器スピーカーシステム』の製作をこのまま途中で止める気には全くならない。

「会社が金を出さないと言うのであれば、俺が出してでも完成させる」

 一道の頑固さが顔に表れる。

「ええ、僕も出しますよ。歴史的な音響システムになるかも知れないのにここで止める訳にはいかないです」

 桜井も珍しく意志の強い声を出す。

 ピアノが使われている演奏は非常に多い。ピアノの原音はスピーカーでは再生しづらい性質を持っている。実際のピアノ音は波形が複雑なうえに、音波が放射される方向によって複雑に変化し、さらにそれが絡み合って聞こえてくる。録音しずらく再生しづらい楽器がピアノだ。オーディオ機器の良し悪しを簡単に調べようと思えばピアノ音を再生すれば判断しやすい。それだけに『楽器スピーカーシステム』から外す訳にはいかない楽器だった。

「それじゃ、中古のグランドピアノでも買おう」

 一道は電話帳で中古ピアノの業者を探して注文した。一週間ほどして傷だらけのピアノが視聴室に搬入されてきた。一道と桜井は、そのピアノを前に考えこんでしまった。スピーカーユニットを取り付ける位置を決めるのが意外に難しい。さらに、音階の幅が非常に広いので、ひとつのフルレンジスピーカーだけではカバーできなくて、複数つけざるを得ない。どこでもいいから適当に穴を開けて取り付けてみて、実際に音を出してからだめであればやりなおせばよい、という訳にはいかないだけに悩んだ。つける場所を決定する根拠になる判断基準が絞り切れなかったのだ。

「どこでもいいような気がするし、どこでもだめなような気もする」

 作業は何時ものように深夜になっていた。一道はいつまでもブツブツ言いながらが考えこんでいた。それからまたピアノのあちらこちらをのぞき込んだりし始めた。

その時だった。急に胸が痛くなる。我慢できず床にうずくまる。しばらく横になっていれば収まるかと思ったが、さらに胸が締め付けられるように痛く息苦しくなる。痛む部分が徐々に範囲を広げてくる。そして首から歯茎の方まで進んできて、歯全体がまるで浮き上がったような感じになってくる。やがて胸に何トンもある巨大な岩を載せられている様な苦痛に襲われてくる。今までに経験したことのない異常な痛みに一道はただごとではないと思った。

「桜井君、すまんが、和美を呼んでくれ。それから救急車も呼んでおくれ」

 一道は意識が朦朧としてくるように感じた。

 和美が来るのと救急車が到着するのとほぼ同じだった。一道はすぐに救急車に乗せられ、和美が付き添って病院へ搬送された。

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