第45話
「こんな訳の分からない事があっていいのかしら。世の中、何かおかしくなっている。ねえ、あんた」
和美が銀行から送られて来たマンションのローンの明細書を見ながらあきれた顔をしている。
「ナーニ、ナーニ、なにがおかしいの?」
言葉をよく覚えてきた明美がうれしそうに寄って来て和美の持っている明細書を取ってクシャクシャにする。それを一道が取り上げて見る。かなり前からだったが明細書の右端の欄に「未払い利息」という項目があって、ローンを支払うたびに増えていた。和美は決められた金額を毎月払い込んでいるのに残高が増えていくのが納得がいかない様子だった。夫婦にすれば残高は気が遠くなるほどの高額だったが、月々少しずつでも元金に払い込まれて減っていけば、いつかは払い終わるという慰めになった。ところが金利が上がり過ぎて、月々のローンの支払い額、全額を利息に充てたとしてもなお不足になって未払い利息として増えてくるのだった。月々支払っているのに借金が減るどころか果てしなく増えてゆく。
「確かに、世の中、何か間違っている。普通じゃない。いつかはつぶれてしまうに違いない」
一道は腹立たしくなった。一道が購入したマンションは神津が言ったように確かに急速に値上がりをしていった。現在の売り買いされている値段は、すでに購入金額の一・五倍弱になり、一道夫婦にすればそんな高額な財産を自分たちが持っているという実感は湧かなかった。子供の養育費が増えて、二人の稼ぎでは生活できなくなるようであれば売却を考えたが《望郷》シリーズの順調な売り上げのおかげで、カミツ工業としては会社始まって以来の大幅な増益が続いていた。さらにその利益のほとんどを不動産に注ぎ込んでいたので、会社の資産は天井知らずに伸びていた。
そのおかげで一道夫婦の給料も値上げをしてくれた。子供の養育費や生活費の上にローンを払っても貯蓄ができるようになっていた。しかし、二人には支払いをすればするほど借金が増えるということが金融機関の仕組みであるとしても納得することができなかった。
一道は世の中の状況に漠然と腹を立てながらも、日々の仕事はまるで趣味のように楽しくやっていた。
スピーカーで直接、本物の楽器を鳴らす作業は、工場の部屋でひとつひとつの楽器にスピーカーを取り付け、納得のいく音が出るまで調整してから、本社の三階へ運んだ。その展示室兼試聴室はフロアの広さは百五十畳位で、それに五十センチほどの高さの舞台が三十畳ほどあって試聴室というより小さなホールのようだった。
バッテリーは舞台の下の空間に置いた。今度はバーゲンのものではなくて、もっと容量の大きい高額なバッテリーを大量に並べた。水素ガスがたまる可能性があるので、換気用のファンも取り付けた。
弦楽器へのスピーカーの取り付けは、比較的簡単だった。それぞれの楽器の音階にあったスピーカーユニットを選んで取り付けた。鳴らすアンプは2A3が最も自然な楽器の音を出した。最も大きいウッドベースには三十センチウーハーを取り付けて、300Bパラシングルで鳴らした。
木管楽器や金管楽器への取り付けは試行錯誤の連続だった。結果的には一つひとつの楽器に合わせてスピーカーと接続する接合部を製作した。金管楽器には鋳物工場に頼んでぴったりと合うものを作ってもらった。木管楽器には松次郎に頼んで、一本の木材をくりぬいて作ったもらった。
弦楽器の場合はひとつの楽器で、その楽器の持っている高音から低音までの音を出すことができたが、管楽器の場合は、音階の違いにしたがって共鳴部分も変化するので、どうしてもひとつの楽器では固定された共鳴部分の音階は強調されるが、それ以外の音階は弱められる傾向が強い。それで管楽器については同じ楽器を三個使用して、それぞれ高中低の音を出す共鳴状態に固定して同時に音を出すことにした。管楽器はすべて300Bシングルアンプで鳴らした。そうすると三個の楽器の高中低の音のつながりが予想した以上にうまく鳴り、管楽器の力強さと柔らかさが見事に表現された。300Bシングルの音質は管楽器の音を出すとき、その真価が発揮されるように思えた。
さらに苦労したのは人間の声だった。色々と長時間をかけて実験してみたが結局、人間の声帯から喉や口腔の状態を調べ、同じような形の空間部分を松次郎に頼んで木材で作ってもらった。さすがに一つの木材から作るのは難しいので縦に割った状態で左右を別個に作ってから張り合わせた。
また、人間の声の場合は、子供、大人、男性、女性と音階のバリエーションが多いため、五種類の共鳴部分を作ってもらう。人間の声のアンプには6ZP1パラシングルが音質的にふさわしいと思えていたので、それぞれ個別に五個のアンプをつないで鳴らした。これも大成功だった。子供たちの歌う童謡から男性演歌歌手の響きまで、違和感なく口の部分から溢れるように音が広がってきた。
さらに、ドラムや太鼓にも一方の震動部分の中央を切り取ってユニットを取り付けた。またパーカッションには、ツイーターの振動部分に接触する直前くらいまで近づけて共振するようにして取り付けた。
楽器の種類の多いこともあり、これらの作業には非常に時間がかかった。さらにそれぞれのアンプにロー、ハイパスフィルターを周波数を設定しながら追加した。一道と桜井は寝食を忘れたように製作を続けていたが、一年たっても完成しなかった。それでもどうにか少人数の演奏の音楽には対応できるまでにはなった。
「これでピアノの無いジャズくらいは、すべて実際の演奏と同じ楽器で鳴らせるだろう。一度、接続して実際に鳴らしてみるか」
作業が深夜まで続いていた時、一道が両手を挙げて背伸びしながら言った。
「それじゃ、ジャズのCDの中で準備の出来た楽器だけで演奏しているものを捜してきます」
桜井は一度、工場の自分の部屋に行き、CDを持ってすぐに帰って来た。二人はそのジャズ演奏の楽器に合うように楽器スピーカーやアンプをセッティングする。準備が完了した時は、朝方に近かった。
「さあ、いよいよ、鳴らしてみるか!」
二人は今までの新作のアンプの鳴らし初めでも、感じたことのないほど大きな緊張感に包まれた。そして動悸がするのさえ感じられる。一道は無骨な手を震わせながらCDをプレーヤーに入れてプレイのスイッチを押した。
静まり返っただだっ広い空間に突然、力強いジャズの演奏が鳴り響く。あまりものリアルさに二人ともしばらくは声も出せない。体も動かせない。こんな所でこんな時間に生の演奏が始まるという、想像を超えた信じられない音場になる。
「鳥肌以外の何物でもない!」
しばらくしてから一道は実際に鳥肌が立った太い腕をさすりながら緊張した顔で言った。
「奇跡に近いです。今、目の前に有名なアーチストがやってきて、手を動かし、足を動かし、口を動かして演奏しているのが見えるようです。たった二人のために・・・ひっとすると、僕らは世界で初めての実験を成功させたのではないでしょうか」
桜井は信じられないことが眼前で行われているのを見ているような顏をしている。そして、膝をガクガクと震わせている。
曲が終わると二人は、演奏会場ででもあるかのように激しい拍手を送った。
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