第43話
昼食時間になった。一道の弁当箱は蓋がうまく閉まらなくて汁がこぼれたりするので、新聞の折り込み広告などで二、三重に包んでいた。彼はその広告のチラシを開いて桜井と一緒に食べ始めた。そして何気なく皺になったはチラシに目がいった。それは大型カー用品販売店のバーゲンの宣伝だった。その中で彼の目が吸いつけられたものがあった。バッテリーの値段だった。
「普通乗用車用のバッテリーが二千九百八十円か、これは安いなぁ」
一道は自分の車は所有していなかったので、自動車につけるためにバッテリーの広告を見たのではない。それ以外の利用の方法が頭の中に浮かんできていた。
「十個買っても三万円、二十個買って六万円。二十五個買って三百ボルトか」
「そんなにバッテリーを買ってどうするんですか」
桜井は食事をしながら不思議そうに一道の顔を見た。
「いやいや、一度やってみたかったことがあるんだ」
「何をしたいのですか」
「真空管アンプの電源をすべてバッテリーで補給すれば、真空管の本来の音がするのではないかと思うんだ。やってみたくても、バッテリーがあまりにも高くて、できなかったが、一個三千円くらいであれば、やってみようかという気になった」
一道の食事の箸が止まる。
「それはまた、楽しみが増えるような話ですね」
桜井も興味をそそられる。
「ヨーシ、食事が済んだらバッテリーを買いに行こう」
今度は忙しく箸を動かせて食事を終えた。一道は自分から話しかけることはほとんどない毅に、「試作機を作るので十万円出せ」と言って、不満そうな毅から金を出させた。それからチラシのカー用品店に行ってバッテリーを三十個買った。会社のライトバンに積むとその重さに車体がかなり沈んだ。
バッテリーは工場の駐車場から一道の部屋まで何回にも分けて汗だくになって二人で運び込んだ。
「とりあえず、B電圧が少し低めでも十分に働いてくれる2A3で鳴らしてみよう」
一道はこう言って、2A3アンプの配線を外部電池に接続できるようにした。
「2A3と6SN7のカソードについている自己バイアス用の抵抗もコンデンサーも必要ありません。第一グリッドの方にバッテリーから負のバイアス電圧を取れるようにして接続してやれば不要です。そして6SN7のプレート電圧も2A3のプレート電源からバッテリー三個ほど手前の端子から取ってやればちょうどいい電圧になります」
桜井はおもしろそうに言う。
「ホーッ、こうすると、一つの2A3アンプには一つコンデンサーしか使わないことになるなあ。どんな音がするか楽しみだ」
一道は声を弾ませる。
「最後にヒーター電源をどうするかだが、バッテリーは12Vなので、家庭用電気コンロのニクロム線でも使って電圧降下させようか。少々電気の無駄遣いにはなるが・・・」
一道は少し困った顔になった。
「鉛蓄電池は構造上、一つのセルが二ボルト少しの電圧になります。ですから、自動車用は十二ボルトですので六個のセルを直列につないでいます。バッテリーの上部のセルとセルの間の接続部分にドリルで何カ所か穴を開ければ、直列につないだ結線部分を切り離すことができます。2A3の消費電力からすれば、バッテリーひとつの六個のセルを並列につないでやれば、十分な時間、灯り続けます。6SN7の六・三ボルトはバッテリーのセルを三個ずつに分ければちょうどいい電圧になりますし、消費電力はわずかですので、ひとつのバッテリーで二個分を灯しても余裕です」
「なるほどなあ、うまく電圧が合う。やはり、真空管は本来、鉛蓄電池で利用することを考えていたのだな」
一道はいつも壁に当たると、その壁をいとも簡単に桜井が乗り越えさせてくれるのを感じていた。
一道は早速一つのバッテリーにドリルで穴を開けようとした。
「三津田さん、ちょっと待ってください。バッテリー液は希硫酸ですので危険です。先に全部、金属ではない容器に電解液を抜いてから作業して下さい。金属に触れさせると反応して水素を発生します。そして皮膚についたりしたら、その時は何ともないかもしれませんが、水分が蒸発しますと濃度が増しますので、皮膚と反応して火傷と同じようなりますからすぐに十分に水で洗ってください」
桜井が心配そうに言った。
「桜井君は、何でもよく知っているなあ。君みたいな優秀な人材がうちのような会社にいてはいけない。もっと有名な大企業に行って出世をした方がいいぞ」
一道は桜井の優秀さを知るたびに嬉しさを感じた。
バッテリーは桜井が言う通りセルとセルを直列に接続している辺りに穴を開けると簡単に切断が出来てリード線を取り付けることができた。二ボルト用と六ボルト用のバッテリーの加工は順調にできた。バイアス電源には微妙な電圧の調整が必要だったので、アッテネーターを取り付けた。
いつものことだったが二人は、工場の就業時間が終わってからも製作を続けた。工場に人がいなくなり静かになってからの方が作業に集中できた。
夕食時になって、和美が明美を連れて食事を持って来た。皆で一緒に食事をしてから、和美は工場の清掃を始めた。その間、一道は明美の相手をおもしろそうにしていた。明美は、早くも、危なっかしく歩き回るし、片言でよくしゃべる。それは両親の無口さを取り返すためのようにさえ思える。その間にも桜井は、手際よく配線を進めていく。
「安全のために、バッテリー一個ずつに五アンペアのヒューズを取り付けて直列に接続しておきます」
桜井の作業は確実で早い。和美が清掃を終えた時には、B電源、ヒーター電源、バイアス電源と完成していた。和美は明美の手を引いて、
「今夜は遅くなりそうねえ」と言ってマンションへ帰って行った。
「ついでに、CDプレーヤーの電源も電源トランスを外して、バッテリーから直接、接続しておきます。こうすると、百ボルトの電源からは完全に分離させることができます。電灯線を通して進入してくる雑音をシャットアウトできます」
桜井の手先はますます器用に動いた。
すべて完了したのは、終電車が通過して、その後の線路点検用の車両が通過した後だった。これ以降は線路を通過するものは何も無い。あたりは静まって時々、遠くで車のエンジンをふかす音が耳に入ってくるくらいだ。
「さあ、完成だな。スピーカーとCDプレーヤーをつないで音出しをしようか」
「そうですねえ。ちょうど周囲も静かですし、いいですねぇ」
二人はこういう時の、いつもの期待と緊張のこもった表情になっていた。
電源のスイッチは三電源にそれぞれつけておいた。まずヒーターのスイッチを入れる。百ボルトの電源トランスを使うよりも早く力強く赤熱するように見える。そしてC電源、B電源とスイッチを入れた。配線は単純なものだったので特にテスターを使って電圧などの測定はしなかった。二人はアンプやバッテリーに鋭い目を向けて異常はないかを確認する。全く異常は起こらない。
懐メロのCDをプレーヤーに入れる。突然、イントロが部屋中に鳴り響く。その音を聞いた瞬間に、二人の顔が一瞬驚きの表情になり、それから感激の面持ちになった。
「ヤッターッ!大成功だ」
二人は思わず握手を交わす。バッテリー式2A3シングルアンプの音は電源トランス式に比べて、これが同じアンプなのか、と思えるほど全く別次元の音質だった。
「音が良いのか悪いのかを判断する時、僕たちは無意識に、これまでに聞いていた音と比較しながら判断をしています。もし、ただひとつだけのオーディオ機器の音しか聴かなかったとすれば、音の良し悪しを判断することはできません。音が良いか悪いかはそれを判断する人が以前にどれだけの音を聞いてきたかによって判断が変わってきます。目の前でさまざまな機器の音を聴き比べるのであれば判断は正確になってきますが、これまで聞いた機器を全部、並べるわけにはいきませんので、当然、過去に聞いた音については記憶をもとに判断することになります。その記憶の感覚は、さまざまな、その人自身の思いこみなども含めて、条件によって変化します。そういう不安定要素のある過去の感覚と現在の音とを比較するわけですから本人も気がつかないうちに判断を誤る場合が多いのです」
桜井が感激の面持ちで勢いよく話す。
「この2A3バッテリー式の音はこういった音の判断原理を寄せ付けないものです。原音そのものに近いですから比較のしようがありません。この音が悪いというのであれば、それは録音が悪いと言えます。入力された音の信号に対して、まったく色付けされない、そのままの音です。往々にして音の良し悪しの判断は、アンプによって色付けされた、その色付けの具合いに対して良い悪いと感じている場合が多いのですが、この2A3の音はその判断基準を超越したものです。この音を聞けば、多くの音の良いといわれるアンプから出てくる音がいかに色付されているかがはっきりと分かります。例えて言いますと、これまでのアンプは、絵を描くのに画布自体に色がついているものを使って描いているようなものです。それ対して、この2A3は、真っ白なキャンパスの上に絵を描いているのに例えられます。過去に聞いた音と比較ができるのは、キャンバスの色合いであって、真っ白なキャンバスに対しては比較のしようがないのです。この音こそ音質評価の機軸にすべきです」
桜井の長い持論に一道はめずらしく眠むそうにならなかった。2A3の音が彼の心に染み入っているようだった。
二人は朝方までさまざまな音楽を聞いた。曲が変わるごとに、新鮮な感動と驚きを与えてくれる音質だった。二人は永遠に聞き続けても飽きることがないように感じていた。
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