第42話

「この日は工場を休みにするので、男はスーツにネクタイを締めてきてくださいよ」

 神津が一道と桜井に案内状を渡しながら言った。中を見ると〝カミツ工業株式会社、社長交代式〟と見出しに書いてある。会場は高級ホテルになっている。

「俺の結婚式を利用して、毅君を次期社長として紹介してから何年経っているんだ!どうせその望郷が売れすぎて金儲けに忙しすぎて交代する暇がなかったのだろう。今は金を儲けすぎて、腐るほど貯まったから社長の座を譲るんだろう」

 一道は白けた雰囲気になった。

 当日は工場は稼働していなかったが、出勤日ということで無理矢理、全従業員がホテルに集められた。会場は一般的な結婚式の三倍もあろうかと思える広さの部屋だった。前の方に座っているのは大人数の神津の親せき縁者だった。司会はプロに頼んでいた。会合は二部形式になっていて、一部では経過報告、新社長あいさつ、業者祝辞、従業員代表祝辞などがだらだらと続いた。最後に、神津が立った。彼は感動した面持ちで、これまで会社を大きくしてきた自慢話を長々とした後、最後に、

「・・・たとえ業績が上がらなかったといたしましても、あと五十年くらいは操業が続けられるだけの経済的基盤をつくり上げました。どうか信頼と安心のお取引を今後とも息子である新社長に対しまして引き続きよろしくお願い申し上げる次第です。今後私は、熱海に購入しております温泉付きの別荘で、毎日、ゴルフ三昧でおいしいものを食べ、のんびりと余生を楽しむ所存でございます」と満足そうに話を終えた。会場からは義理のような拍手がした。

 会合の雰囲気は、業者は取引上の付き合いから参加しており、従業員は仕事だから仕方がなく来ているので、盛り上がっているのは神津一族だけだった。社員にとっては、同族会社なので社長が親から息子に変わろうが大差はないと思え、それほど関心のあることでもない。いわば同族の喜びを増幅するために取引関係者や従業員が利用されているようなものだった。多くの社員が慣れない会合や会場で、気疲れがして嫌気がさしていた。

 いい加減うんざりしたところでやっと一部が終わって二部になり、食事が出てきた。食事の時間の間、室内管弦楽団が出てきて生の演奏をBGMがわりにやった。さらにその後はプロの歌手や芸人が出て来て、慣れた歌や演技を見せていた。そして、終わりには一人ひとりに豪華な記念品が配布された。

「こんな無駄金を使う余裕があるのならもっと従業員の給料を増やしてやれよ」

 一道は苦々しそうにつぶやきながらホテルを出た。

 社長交代式を終えてから、前社長の神津夫婦はあいさつでも言っていたように、すぐに熱海の別荘に移り住んだ。神津は工場近辺の不動産以外にも、熱海に限らず全国のリゾート地に別荘や土地を買いあさっていた。それらは年々値上がりを続けている。あいさつで、不況でも五十年間会社が維持できる、と言ったのは大げさな表現でもなかった。

 毅が新社長になって最初に工場に来た時には、一道に向かっていきなり、

「私のことを毅君と呼ぶのはやめろ。従業員の手前もあるだろう。これからは社長さんと呼べ」と不機嫌そうに言い放った。そのくせ一道を呼ぶ時には年上にもかかわらず、父親が呼んでいた「一道君」を引き継いでいた。

 それからも時々、工場に顔を出すと必ず一道のいる部屋に立ち寄った。そしてうろうろと何かを探すような様子だった。一道たちが新しい製品を開発していないかどうかを調べているのだった。そういう時でも一道の方から毅に話し掛けることはなかった。一道は「社長さん」と言って話をしなければならないのを極端に嫌っていた。だから、毅はひと言もしゃべらずにまた、工場へ降りて行くことが多かった。

「小さいころから神経質なガキだった。買いたいものが手に入らないと、どこであろうが座り込んで、ギャーギャーと両手を振り回してわめいていた。わがままな男だ。あんなやつのところへ嫁に来る女などいない。一生涯、ひとり暮らしだろう」

 一道は毅が部屋を出るとすぐにわざわざ大きな声で言った。

 日頃は、毅はあまり工場の方には顔を出さなかった。米沢も同じだった。理由は、工場はうるさいし、暑いし、寒いし、むさ苦しいということだった。二人は工場よりも快適な本社ビルの方に居座った。

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