第41話
「三ウエイスピーカーか。音を悪くするだけだな」
一道は愚痴っぽくなっていた。充分な出力のアンプの試作はできたが、神津の要求するスピーカーは一道の音に対する思い入れからは遠く離れていた。
「例えば、一本のトロンボーンを吹いているのに、音の高さによって違った三つのスピーカーから聞えたら、それはバケモノだ。この世に有り得ない音だ」
「そうですよね。それに複数の音源があると必ず、位相のズレや相性の不一致、相互干渉の悪影響が出てきます。マルチウエイ動作にしてもこの弊害から逃れることは出来ません。下手にネットワークで三ウエイにすれば、音の信号が最後の段階でコンデンサーやコイルを通過することになり、フルレンジ一個で鳴らすよりもはるかに音質は落ちてしまいます」
二人とも思案顔になった。
「それでも社長さんが希望しているように三ウエイにするとすれば・・・」
しばらくして桜井が口を開いた。
「300Bシングルでフルレンジを鳴らして、低音は、六十ヘルツ以下位をスーパーウーハー的に300Bパラシングルで補い、高音は非常に高い音、例えば六キロヘルツ以上位をコンデンサー一本で取り出してツイーターに入れれば、フルレンジ中心の音で、それほど音質的には落ちないと思います」
桜井は頭の中で計算をしながら言っているようだった。
「そうか、そうすればフルレンジの良さはそのまま残して、低音と高温を補うことになるんだな。よし、その方式でスピーカーを作ろう」
一道はいつも桜井の企画構想には全幅の信頼を寄せている。話が決まるとすぐに、二人はユニットを選んび始める。ウーハーは可もなく不可もなくといった大きさの三十センチにした。フルレンジは音域の広い十六センチのものにし、ツイーターはドーム型のものに決める。
スピーカーボックスは長方体の標準的な形にするが、下に三分の二と上に三分の一の密閉ボックスに内部を仕切っておく。下側にはウーハーを取り付けて、上側にはフルレンジとツイーターを取り付けるようにする。容量は三十センチのウーハーが駆動しやすいように大きめにすることにする。
大筋が決まると早速、簡単な見取り図を手書きで書く。そして、松次郎にファクスで送る。松次郎はすでにスピーカーボックスの製造には精通していたので、詳しい設計図などは全く必要なかった。
続いて二人はアンプの形式を考えた。
「やはり、2A3電蓄のようにアナログプレーヤーは付けておこう」
「そうすると始めにフォノアンプを付けて、その後にアッテネーターを置いてシングルアンプに入れましょう。同時にローパスフィルターを通してパラシングルにも入れます。ローパスフィルターは双三極管一本で簡単に作れます。ここにもアッテネーターを付けて低音だけの音量調節が出来るようにしておきましょう。音質調整をすること自体が原音を崩すことになりますが、このコンポの場合、ウーハーの音量調節をできるようにしていなければ、使い勝手が悪いでしょう」
桜井の頭の中にはいつもすぐに回路が浮かび上がるようだ。
「かなり大型のアンプになりそうだな。一つのシャーシーにするのは重量や放熱のことを考えると無理のような気がする。一つのシングルとパラシングルを同じシャシーに組み立てて、モノラルアンプ二台に分けよう。そうすれば上下二段に重ねると、それほどかさばらない」
一道もアンプの形状を頭の中に描いていた。
次に中央のキャビネットとアンプケースの形を考えた。アンプの外見としてはこれまでの《望郷》と同じく、シャーシーの前に真空管を一列に並べ、アンプケースの前面を耐熱ガラスにして真空管が見られるようにする。ただ、フォノアンプとローパスフィルタ用の真空管は配線上の便宜と雑音防止のためシャーシの後ろに取り付ける。それから、二つのアンプは共に発熱が激しく、キャビネットの中で二段に重ねると高温になり過ぎそうだったので、静音設計の冷却ファンを取り付けることにする。
これらのことを考えてキャビネットの形を決めた。一番上にはアナログプレーヤーを置き、その下にチューナとCDプレーヤーを一列で横に並べる。さらにその下にオプションにするMDデッキ、カセットデッキが横一列に並べられるようなスペースを作る。そして最下段にアンプ二台を縦に重ねる。横幅は放熱のことを考えて、余裕のあるものにし、高さはスピーカーと同じになるようにする。
一道はまた、手書きでキャビネットの形状を書く。そして松次郎のところへファクスした。
二人はマルチアンプの製作に没頭した。物作りの充実感が体中に満ちるてくるような期間だった。
二週間ほどして、松次郎からスピーカーボックス、センターキャビネット、二個のアンプのケースがまとめて工場に届いた。スピーカーボックスはかなりの重量で、二人で工場の部屋の中へ移動させなければならなかった。それぞれの梱包を解いてみると、松次郎の木工技術はさらに磨きがかかったような出来栄えで、どれも高級な嫁入り家具のようにさえみえた。二人は心を弾ませながら、スピーカーのユニットを取り付けたり、アンプやプレーヤなどをケースに収めたりして完成させていった。
完成した時は工場の静まりかえった深夜になった。最初の音出しにはやはり、例の森昌子の懐メロアナログレコードにする。神妙な顔をして一道が無骨な指からピックアップをレコード面に下ろした。
音が出てきた瞬間に、二人とも疲れが吹っ飛んだ。高音から低音まで、すべての音階にわたって明瞭にそれぞれの音の主張が表現されている。また、すべての楽器や歌声が隠れることなく広がる。同じレコードのなかにいかに多くの音源が記録されていたのかということに驚かされる。一部の音が強調されたり、弱められたりせずに自然な調和で響いてくる。高音はツイーターの音圧が強調されずに、フルレンジとうまくつながり、違和感を感じさせない。フルレンジは十六センチあるので音の広がりが十分に確保され、奥行きのある豊かな響きになっている。ウーハーは、予想以上のリアリティーのある音に仕上がっている。この音を聞けば「豊かな重低音が出る」などと宣伝される機器の低音が歪みだらけの雑音であることがはっきりと分かる。いくら音量を上げても通常、低音が増強された時に感じられる耳障りな一部の周波数のブーミーな音は全く出てこない。ベースギターを強く弾くか、弱く弾くかという楽器そのものの音量の強弱と同じものだ。
十七歳の森昌子がまさに目の前に蘇ってきたように感じる。
「これなら誰が聞いても良い音だと感心するよ。音に興味のない人間が聞いたとしても感動するに違いない」
一道はこの上ない満足そうな顔である。
「そうですねえ、予想した以上の、はるかにいい音質になりましたねぇ。高中低のスピーカーのつながりが何の不自然さもないですねぇ。これほど違和感がなくなるとは思いませんでした。この音は、どこかで聞いたことのある既製品の音ではないです。かといって昔の音でもないです。自然の生の音に近いものです。原音に近いということは、古いとか新しいとかという評価基準を超越したものです。それは、この音と他の高級オーディオとを聞き比べれば一目瞭然になるでしょう。大成功ですね」
桜井も非常にうれしそうだった。
翌日、神津と米沢がやって来てしばらく、出来たてのコンポの音を聞いていた。
「これは素晴らしい・・・今まで聞いたオーディオの中で最も良い音がする」
二人とも感動した面持ちになった。本来、この二人は音がいいかどうかはそれによって金がどれだけ儲けられるかということと繋がっている。音そのものの評価ではないはずだった。その証拠に、二人は日ごろは自社で製造している《望郷》シリーズをほとんど使っていない。テレビばかり見ている。音楽鑑賞が好きではないのだ。ところが、今回のコンポから出てくる音楽はいつまでも聴き続けていたいような様子だった。
「早速、製品化しよう。一道君、すぐに製造ラインの設計をしておくれ。製品名は《望郷Ⅴ》だ」
「社長、これは売れますよ。うれしい悲鳴が上がるほど忙しくなるでしょう」
神津と米沢は動物が獲物でも取ったような顔をして工場の方へ降りて行った。
一道と桜井は《望郷Ⅴ》の製造工程を考えたが、現在の工場に製造ラインを増設するのは場所的に無理だった。この事を神津に言うと、神津はすぐに工場から少し離れたところにある、これも線路沿いの建物だったが廃品回収の工場を買い取った。広さは、今の工場の二倍近くもある。この工場の経営者と神津は昔から付き合いがある。一道も時々話を交わしていた。
「こんなに世の中の景気が良くなってきているのに、古紙の値段はどんどんと下がっていて、ほとんどタダ同然。再生紙を製造するよりも海外から安い原料を仕入れた方が安く出来るのだから、これでは商売にならない」
その経営者はよくこんなことを言っていた。それに、周辺の土地の値上がりは激しいもので、不動産を持っているだけで財産が増えていくような状況だったが、さすがに線路のすぐそばの土地は買い手もなかったし、値もあまり上がらなかった。だから神津からの建物の購入の話にはすぐに乗ってきたのだった。
購入した工場の建物はそのままにして、内部を整備して《望郷Ⅴ》の製造ラインの設置を考えた。神津と米沢が急がせるので、一道と桜井は前の《望郷Ⅳ》の時と同じく深夜まで仕事を続けなければならなかった。しかし、いつものことだったが、一道と桜井にとっては楽しいものだった。
三ヵ月ほどでラインが完成した。試作品の製造をしてみると、全く問題はなかった。試作品がそのまま製品として売り出すことができるものになった。米沢はこの時とばかりに、さまざまな方面に誇大広告と思えるような宣伝を大量に打った。
「大きい、重い、高い。こんな商品が今時、売れるわけがないだろう。家電の量販店に行けば、安くて軽くて小型で、多機能で、その上数値的には《望郷Ⅴ》よりはるかに性能の良いミニコンポがいっぱいあるじゃないか。こんなもの売れるわけがない」
「そうですねえ。価格設定が、非常識なほど高額になっています。いくら品物が良くても音楽を聴くのに、これだけのお金を使う人はそれほどいないのではないかと思えます」
一道も桜井も《望郷Ⅴ》は自分たちが開発した自信作ではあったが、一般受けする商品にはならないと思えた。
ところがしばらくすると、またも米沢の宣伝戦略が功を奏したのだろうか、一道と桜井の予想に大きく反して、多量の注文が連続して入ってくるようになった。それは一本の製造ラインでは間に合わないほどになり、二本目のラインの準備を始めなければならなかった。
「こんな商品が売れるなんて、世の中がおかしくなっているぞ」
「そうですねえ、こんな高額なお金を音楽を聴くために出費するというのはどんな人なのでしょうねえ」
二人は《望郷Ⅴ》の売れ行きに、世の中の動きが分からなくなったのを感じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます