第39話
2A3電蓄は、当然のように神津と米沢によって商品化された。アナログプレーヤ、CDプレーヤー、チューナーは標準につけておいて、カセットデッキとMDデッキはオプションとして販売した。
「そんな、詐欺のような定価をつけずに、もっと良心的な金額にせよ」と一道が怒鳴ったくらい高額な価格設定をした。それでも〝名球2A3真空管アンプによる最高級ステレオ
「世の中の人間は、何を考えているのか分からない。2A3という意味が分かっているんだろうか」
注文の多さに、設計製作者の一道と桜井は首をかしげた。また、これまでの《望郷》シリーズの注文も一向に減る様子はなかったので、カミツ工業としては未だかつてない利益を上げているはずだった。それが証拠に、社長は次からつぎへと不動産を買いこんでいた。場所は全国の観光地にまで及んでいた。
「銀行マンが不動産を探してきて、その上、代金のローンまで組んで準備してくれる。今は銀行の言うとおりに不動産を買っておけば、いくらでも金がもうけられる時代だ」
神津は口癖のように言っていた。神津と米沢は見るたびに羽振りがよくなっていくようだった。
製造が順調になれば何時もの通り、一道と桜井はほとんど毎日、自由に時間を使えた。
「あこがれだったが300Bのアンプを作ろうか」
一道がポツリと言った。
「そうですねえ、ここのところ全くトラブルもなく順調ですからまた新しいアンプを作りましょうか」
「300Bというのは三極管で、非常に音がいいらしいが、子供の頃は高価で手に入れるどころか実物を見たこともなかった。雑誌で写真を見て、頭の中で300Bアンプを組み立てて夢の中で聴いていた。ところがこの頃は中国で製造されたものが安く日本にも輸入されているなあ。ソケットは2A3と同じだし、試験的に2A3のシャーシを使って作ってみようか」
一道の目が輝き始める。
「そうですねえ、どんな音がするかまた楽しみです」
桜井も乗り気になる。
「300Bの特性を考えると、特殊なものでもなく、扱いにくい真空管でもありませんので、標準的な回路にすればいいと思います」
桜井が参考資料など何も見ずに言う。彼の頭の中には300Bの情報がすでに充分に入っているようだ。そしてボールペンを取って回路図をサラサラと描く。
「300Bの良さを発揮させるのはやはり、本家本元のWEの91型がいいと思います。ただ、前段のWE310Aという球は数少なく、業者に探させてもおそらく手に入れるのは難しいと思います」
一道は少し心配そうな顔になる。桜井は今度は資料を調べる。
「でもこの球の特性は6C6とかなり似ていますから、十分に代用できます。こちらを使いましょう」
「それじゃあ、それでいこう。6C6は倉庫にまだ沢山あるから、300Bだけ注文しておこう」
話が決まると早い。それからは楽しく話を弾ませながら作業を進めて行くのはいつものことだった。
「300Bのフィラメント電源は三端子レギュレーターで安定化させましょうか。おそらく単なる整流回路より、こちらの方が電圧が安定する分、音質がよくなると思います。そのために、電源トランスのヒーター用の電圧を十一ボルトか十二ボルト程度にしてください」
「それじゃあ、電源トランスも2A3のものよりもコワも大きくして初めから作り直そう。ついでにOPTもCHトランスもすべて十分に余裕のあるものにしておこう。そうすれば発熱の問題も気にしなくてもいいからな」
一道は300B用のトランス類を全部はじめから作った。それで、2A3用のシャーシは合わなくなったのでシャーシも初めから作ることにした。
トランス類とシャーシを完成させてからシャーシ上にトランスを取り付けて重さを計ってみると二十五キログラムを超えた。
「ずいぶん重厚な雰囲気のするアンプになりそうですねえ」
桜井は華奢な手で顔を赤くしながらシャーシーを持ち上げた。ここまでの作業にほぼ三日が掛かった。300Bの納品が翌日になるということだったので作業を終えた。
翌朝、二人は配線を始めた。一段増幅のシングルアンプなので、作業量は少ない。昼過ぎには完成させることができた。ちょうど300Bも届いたので食事もせずにすぐに真空管を挿した。配線は間違った可能性はないと思えるので、そのままCDプレーヤーとスピーカーをつないで電源を入れる。この瞬間に、体中の力が抜けてしまいそうな不思議な緊張感に襲われるのは、何台アンプを作っても同じ感覚だった。
300Bのヒーターが徐々に明るくなるにつれて、音楽が部屋中に広がってくる。曲はいつもの懐メロだ。
「ウーム、さすが300Bだなぁ・・・」
「そうですねえ。いいですねぇ・・・」
二人とも感動してあまり言葉が出ない。2A3とはまた違った趣のある音だ。2A3が日本的な繊細美を表現するものであるとすれば、300Bはアメリカ的な解放感の喜びを表現するものだった。
「六十年も前にこんな音がしていたなんて信じられませんねぇ。今の半導体の高級アンプなんか足元にも及びません。だれが聴き比べても良い音であることは明確です」
「ほんとにそうだ。やはり真空管がいい」
二人とも満足そうであった。
二人は数日間、さまざまなジャンルの音楽を300Bで聴いてみた。WE91型アンプは聞けば聞くほど能力の高さに感服させられる。さまざまな楽器や歌声を得意、不得意なしに再生する。その中でも特に管楽器、ピアノ、パーカッションの音は、演奏している人間と聞いている人間との距離が限りなく縮まるように感じられる。原音からさまざまな媒体を通って音が再生されているにもかかわらず、その中間のものがすべて消え去ったような気持ちにさせる音質だ。それは、媒体物によって一切の色付けがなされていない音で、目をつぶれば目の前で実際に演奏されているのを特別席で聴いているような錯覚にさえする。
真に優れた音響機器というのは、それらの存在を取り去って感じさせないものであることがWE91型アンプを聞けば納得できる。
一道と桜井が300Bを聞いているところへ、これまでも何度か途中で覗きに来ていた神津と米沢が入ってきた。
「やっと、完成したか」
二人は300Bアンプを見るなり大きな声を出した。
「良い音がするじゃないか。すぐに製品化しなさいよ、一道君。超高級システムコンポとして売り出しましょう」
神津は少し威圧的な雰囲気で言う。
「これなら、高額な価格設定をしたとしても、よく売れますよ。今の時代は、こういう本物を求めている人が、たくさんいる時代なのです」
珍しく、米沢の言葉に真実味がある。
「そうだ、大事なことを言い忘れていた。製品化する時には今度こそスピーカーは必ず三ウエイにしておくれ。いくらなんでも超高級オーディオシステムが、一ウエイでは笑われてしまうからな。それと低音がドスンドスンと腹に響くようにしなさい。これは売れるための大切な条件だから必ず守りなさい」
神津は自分が経営者であるという雰囲気を強く出してくる。
「そんなの、音を悪くしているのと同じだ」
一道は不満げに口を曲げる。
「いや、三津田さん、どんなに素晴らしい音がしたとしてもそれを買ってもらう人がいなければ、意味がなくなります。製造者の喜びとしても、できるだけ多くの人に製品の良さが分かってもらえることが一番だと思います。そのためには宣伝材料がなければなりません。三ウエイはひとつの宣伝材料ですから、ぜひともそうして下さいね、工場長の私からもお願いしますよ」
米沢の声の響きにはまた真実味が薄れてくる。
「三ウエイにすればいいのだろう、三ウエイに。ゴチャゴチャ言わなくてもそうしてやるよ」
一道は投げやりになって大声を出す。彼は、神津から何か頼まれると結局、ほとんど断れないことを自覚している。
「お願いしますよ、技術主任さん」
神津と米沢は今度は頭を下げて、そそくさと工場の方へ降りて行った。
「よくもあれだけ態度が変えられるものだ。金儲けのためなら何でもする人間だ」
一道は出て行った二人の方を向いて怒鳴るように言った。
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