第38話
一道は民代を大阪に連れてきたら当然、今住んでいるマンションで一緒に住むことを考えていた。しかし、民代は、
「お前たちに迷惑をかけてはいけない。済まないが狭いアパートでも借りてくれないか」と言って一緒に住もうとはしなかった。それで工場の近くの安いアパートを借りて住ませることにした。
「食事は一緒に食べよう」と言ったが、それも、
「若い者と年寄りは食事が合わないから」と断って、自分で料理した。一道は母親が気を使わないように生活をさせるのがいちばんだと思って、好きなようにさせた。
民代は亀三の死後の扶助料だけが収入源だったので、アパートを借りて自炊すると不足がちになる。一道夫婦もローン返済で生活はぎりぎりだったので、とても母親を援助するほどの余裕はない。一道は神津に事情を言って給料を上げてくれるように頼んだ。神津はしぶしぶと、
「足らない分だけにしておくれよ。本来は出せない金だからねぇ。長い間家族のように働いてくれているから出すんだから、その分、もっとしっかり仕事をしておくれよ」と言った。一道は神津から離れると、
「《望郷》で大儲けしているくせに、ケチ野郎!」とつぶやいた。
アパートで生活を始めた民代は、息子夫婦に迷惑をかけたらいけないと思ってか、また、民代は親しい縁者以外の人間がそばにいると非常に緊張して苦痛を感じる性格だったこともあってか、自分の方からはめったに一道のマンションにやってくることはなかった。それに、同じアパートの住人と仲良くするということもできなかった。それで一道や和美は時間があればしばしば、民代のアパートに行ってはさまざまな世話をした。民代は生まれてからずっと愛媛県の漁村で育っていたので、都会の生活にはなかなか慣れることができなかった。
それでも、半年ほど過ぎると、民代も大阪の生活に少しずつ慣れてきて、自分で少しくらい離れた所でも買い物に行くことができるようになった。何よりもこの間、故郷で見せたような精神的な異常な状態にはならなかった。
「お袋はやはり寂しかったのだなあ。親父が亡くなって一人で生活をして、侘びしくなっていたのだろう。こうして近くに子供がおれば、おかしなことも思わなくなるのだろう」
一道は和美に安心したように言った。何度も民代のアパートへ行っているうちに民代は、
「一道、ウチもだいぶ生活に慣れたから、もうこんなにしょっちゅう来てくれなくてもいいよ。和美さんも、明美ちゃんが動き回って目が離せなくなって大変なのに。何かあったら、こちらからお前のマンションに寄るから、もう来なくていいよ。来てくれるとウチも気を使うから」と言うようになっていた。
一道も和美も民代の言葉に安心してアパートに行かなくなった。
三ヵ月ほど経った日曜日の朝だった。珍しく民代の方から一道の家に電話があった。
「ずいぶん、苦しまされている。もう、我慢の限界になった・・・」
民代は気だるそうな抑揚の無い声を出した。何時もと違う調子が心配で、一道はすぐに民代のアパートへ行った。ドアを叩くとしばらく何かゴソゴソしている音がした後、ドアが開いた。
「一道か、足元に気をつけて入れ。押しピンを置いている」
見ると部屋の中央の母が座っているあたり以外は、一面に畳用の長いピンが上に向けて置いてある。
「どうしたのだ、お袋?」
一道は驚ろいた声を出して、ピンを全部拾い集めてから母のそばに座った。
「犯人のやつがしょっちゅう入ってくるから、痛い目に合わせている。ところがちょっと部屋を出た間に押しピンの位置を変える。それで自分で踏んで痛くて歩けない」
民代は足の裏を見せた。いたるところにピンの刺さったと思える赤い斑点がある。それに全体が赤くはれている。
「ドアに鍵を掛けていたら、こんな部屋、どこからも人が入ってくるところは無いぜ」
一道は困った顔になった。
「押し入れの天井から入って来ている」
民代は怖い目つきをし、ヒソヒソ声になる。
「今、こうして一道と話をしているのも聞かれている。見られている」
民代は一道に目配せをしながら天井を指さし、さらに声を落とす。
「上の部屋のやつも、右も左のやつも、みんな、犯人の手先になっている。一晩中、壁をドンドン叩いたり、天井でびっくりするほど大きな音を出して嫌がらせをする。それが頭の中に入ってきて・・・」
民代の話はいつまでも終わらなかった。一道は母親の苦悩を聞きながら、故郷の親戚が疲れ果てていた理由が分かるような気がした。同時に入院させるしかないと思った。
翌朝、一道は嫌がる民代を無理やり車に乗せて、精神科の病院へ連れて行った。母親の診察を横で聞きながら、一道が驚いたことがあった。それは精神科医が指摘する母親の心の状態が、自分にもぴったりと一致することだった。一道の場合は自分の精神の異常さに自分で気づいて、なんとか日ごろは理性でコントロールしているが、それができなくなったら全く母親と同じような状態になるだろうと思った。
「心の病気以外にも認知症もすこし出てきていますので、この状態では他人に危害を及ぼしたり、自分で自分を傷つけたりする可能性が非常強いので、即入院させましょう」
医者から言われて逆に一道はほっとした。ちょうど、病名がわからずに苦しんでいる時に、病名がわかったら安心するのと同じだった。ところが民代は顔色を変えて入院を拒否し始めた。民代の頭の中には、精神科に入院するという事に対する偏見が染み付いていたのだった。
民代がどうしても同意しないので、一道はとりあえず母親を連れて自宅に帰って来た。
「もう、一人でアパートに住むのはこりごりじや。お前たちに迷惑をかけたらいけないので、老人専用の病院なら入院てもいい」
民代は部屋に入るなり、しみじみと言った。
一道は認知症だということで入院させてくれる病院を電話で捜した。不思議に思えたが、寝たきりの状態の患者なら受け入れるが、民代のように自由に体の動く患者は簡単に受け入れてくれなかった。それでも、無理に頼むと大阪北部の一つの病院が連れてきてみてください、と言ってくれた。
「ひょっとしてこのまま入院するかもしれないのなら、もう一度、アパートに寄ってお前の修理してくれたラジオを持って来てくれ。あれはウチの守り神なのじゃ。あれだけは病院に持って行って枕元に置いておきたい。そうすると心が落ち着くのじゃ」
民代は哀願するように言う。一道は病室に持ち込むには少し大きいかと思ったが、母親が安心するならと思い、高一をアパートから取って来て車に積んだ。それから病院へ行った。
「本来、あなたのお母さんのように自由に歩けるような患者さんはうちの病院は受け入れないのですが、ずいぶん困っているようですのでとりあえず受け入れます。でも、この病院には閉鎖病棟というのはありません。だから、自由に体が動く人は出入りも自由にできますので逆に危険なことになるかもしれません。それを家族の方に了承してもらわないと入院許可できません。もし何かありました時には病院側としては責任が取れませんのでよろしいでしょうか」
病院の職員は厳しいことをていねいに説明してくれた。一道はそれを了解して、そのまま民代を入院させた。
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