第37話

 大阪にはめずらしく雪の降っていた深夜、田舎の親戚から電話がかかってきた。

「一道さん、お母さんの状態が非常に悪いのよ。急に悪くなったというより、少しずつ悪くなってきていたんだけど、大阪に出てがんばっている一道さんに迷惑をかけるのは気の毒だと思って、兄弟や親戚同士で、なんとか世話をしていたけれど、もうみんな限界を越えて疲れ果ててしまってねえ。やはり長男に面倒を見てもらわなければいけないと思って電話をしたのよ」

 言いにくそうな口ぶりだ。

「そんなに悪いとは知らなかったなあ。時々、電話で話をした時には、悪いようには思えなかったし、お袋も何も言わなかったからなあ」

「ああ、電話ではなかなかは分かりにくいような病状だからね。とにかく少しでも早く帰ってきてお母さんの世話をしてあげてよ」

 要領を得ないままに電話は切れた。実際に母親に会ったのは結婚式の時なので、もう一年半近くは立っているが、月に一回位は電話を入れていた。その時には特に変わった様子は感じられなかった。

 一道は心配になって夜も遅かったがすぐに、母親の民代のところへ電話を入れた。電話に出た民代は、少し沈んで元気がない声であるのを除けば今まで通りで、特に体調が悪いようには思えない。彼が、

「体の調子は悪くないか」と何度尋ねても、

「いや、特に悪いところもない」と民代は答える。親戚の言うことと民代の返事には大きなギャップがあった。それを一道は、たいへん病状が悪いので逆に隠そうとしているのではないかと思い、心配する気持ちが募っていった。そうすると居ても立ってもいられなくなった。

 それで、神津に電話を入れて事情を説明し、故郷に帰ることを伝えた。そしてすぐに会社の車で出発した。以前に帰ったコースと同じで、瀬戸大橋は通らずに中国道を広島まで下った。やはりこのコースが交通量が最も少ないと思えた。

 途中のフェリー以外、ほとんど休憩もとらずに運転したので、九時間弱で帰ることができた。大阪でも雪が降っていたが、南国の南宇和でも風が刺すように冷たい朝になっていた。

 家の前に行って見ると窓には全部雨戸が閉められている。玄関には鍵がかかっている。普通は台風でも来ない限り雨戸は閉めないし、旅行にでも行くとき以外に玄関に鍵をかけることはない。

 玄関を叩くと内側から何個も鍵をはずす音がする。それから戸を開けて出てきた母親の顔を見た時にすべてが分かった。これまでの母親の表情とは全く違っている。その顏は、完全に精神に異常をきたした表情になっている。それに、体もやせ細っている。

「おふろ、いったいどうしたのだ?」

 驚いて一道は尋ねた。

「大きな声を出すな。それでなくても、至る所から盗み聞きされているのに。気をつけろよ、一道」

 民代は鋭い目つきになって天井やふすまを指差して目配せをする。どうやら、誰かが隠れて話を聞いている、その場所を目で一道に教えているようだった。

 何を聞いても何を話しても、まともな会話にはならない。困ってしまっていると、叔母や叔父がやってきた。

 事情をいろいろ聞くと、亀三が亡くなり、一道が大阪に帰ってから、少しずつふさぎ込んでいることがを多くなってきた。しかし、異常なことを言ったりしたりすることはまだなかった。ところが、一道の結婚式に大阪に行きそして帰ってからは、急に訳の分からない事を言い出したり、誰彼かまわず、攻撃するような行動を取るようになってきた。それでも何とか、叔父叔母で面倒を見ていた。しかし、少しずつひどくなっていって、手に負えない状態になったということだった。今は、いつ取り返しのつかないような事をしてしまうか分からない状態だった。

「何度も、精神科に連れていこうとするのだが、嫌がって暴れるのでどうすることもできない」

 叔父も叔母も民代のことで心身ともに疲労しているようで、衰弱した表情になっている。一道は話を聞いて、これ以上親戚に迷惑をかけてはいけないと思った。

「分かった。俺がこのまま大阪へ連れて帰って面倒を見るよ。こんなに叔父さんや叔母さんに迷惑をかけているとは思わなんだ。すまなんだ」

 一道は頭を下げた。叔父や叔母は、

「料理もしないので、食事もろくに食べていないから、できるだけ早く入院させた方がいいと思う」と言って帰って行った。

 また、二人だけになって、いろいろと長時間話をしているうちに、以前の母親との間のように会話がかみ合うようになってきた。

「一道、大阪から帰って来て腹が減っただろう。美味しいものは何もないが、お米と卵だけはある。今、ご飯を炊いて、お前の好きな卵焼きを作ってやるから、ちょっと待っておれ」

 叔母は料理などをしないと言ったのに、民代はそそくさと炊事場に行き、食事の準備を始めた。その姿は、以前に父親が亡くなった時に帰って来た時と同じように、母親としての喜びを感じているような雰囲気だった。

米が炊き上がると卵を焼いた。民代は少し前の衰弱した表情とは違って、笑顔にさえなって、ご飯と卵焼きを二人分、食卓の上に置いた。

「お前が修理してくれたラジオを聞こうか。テレビはつぶれてから金もないし、目も悪くなって見るのがつらいので修理もしていない。お前が修理してくれたラジオの方がいつまでも長持ちをしてよく聞こえている」

 民代は立ち上がって箪笥の上に置いていた高一ラジオのスイッチを入れた。少し間をおいて、徐々に放送が聞こえてくる。三十年も時を隔てたラジオが雑音もなく立派に鳴る。一道は自分が中学生になったような気分になった。

少年のころは学校を休まなければならないくらいの病気でなければ卵焼きは食べることが出来なかった。それも醤油をたくさんかけて、卵そのものは少しずつかじって、ほとんど卵についた醤油をなめるようにしながらご飯を食べた。それでも何よりも旨いと思った。

 食事をほとんどしないと言った母親が一道と一緒に食事をすると、卵焼きをおかずにいかにも腹が減っていたというようにうれしそうに食べる。

「一道の好きなカタクリコを作ろうか」

 ご飯を十分に食べた後で民代が言った。〝カタクリコ〟というのは、片栗粉に砂糖を混ぜたものを少量の水で溶いて、熱いお茶を注いで練ったものだった。ほのかなお茶の香りと甘さが半固形の片栗に溶け込んで口の中でとろけた。なにより高価だった砂糖が口に入るので嬉しかった。これも風邪をひいて高熱が続いたとき以外は食べさせてもらえなかったものだった。

 民代は砂糖をたっぷり入れた〝カタクリコ〟を作って満足そうに一道の前へ出した。一道はそれを箸ですくうようにしながら口の中へ入れる。懐かしい甘さが口の中いっぱいに広がる。一道は目頭が熱くなった。

「お前も、大阪でつらい思いをしているんじゃなあ」

 民代は涙をポロポロとこぼした。

 翌朝、一道は早速、母親を連れて帰る事にした。車にはあまり荷物が積めないので、生活に必要なものだけを車に載せた。高一ラジオはかさばったが、民代がどうしても持っていくと言うので車に載せた。

 民代は大阪に行くことを嫌がらずに、むしろ喜んだ。

「やっぱり、お前がいてくれると安心だ。一人で住んでいると、ちょっとでもスキがあると家の中に泥棒が入ってきて大事なものを盗まれる。盗まれるどころか、騒ぐと、殺される。それが、昨夜などは犯人が全然、出てこなかった。お前がいてくれたから怖がって近寄れなかったのだ。お前らの迷惑にさえならんのであれば、一緒にいるのがいちばんいい」

 民代は息子の傍にいると安心できるようだった。

 借家の解約、必要な金の支払い、残った品物の処分などは叔母にお願いした。いよいよ出発する時になって、裏の少年時代の研究室であった倉庫の中に入った。そこには永遠に時が変わらないように思えるさまざまな真空管のラジオなどがまだたくさんあった。おそらく、これらの真空管もすべて処分されるだろうと一道は思った。そう思うと一道の人生の土台になるようなところにぽっかりと大きな穴が開いてしまうように感じた。そしてそれは再び埋めあわされることはないように思えた。

 一道はいつまでも立ち去りたくなかったが、自分の気持ちを振り切るようにして車に乗った。そして大阪へ出発した。

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