第36話
翌朝、一道は始業前のいつもより早い時間に工場に行った。桜井も珍しく早く起きて、すでに2A3の回路図を見ていた。二人とも作りかけたアンプが気になってしかたがなかった。
一道は始業前の、社員が工作機械を使う前に電源トランスのヒーター用の巻線をやり直した。今度は2A3の電圧を四ボルトにする。これであればに二ボルトほど電圧降下があったとしても、ちょうど良い具合いになる。
改造した電源トランスを、2A3のフィラメントに整流回路を通してつなぐ。そして電流を流してみる。今度はフィラメントは正常に明るくなる。それを確認してからすべての真空管を取り付けて音出しをする。予想した通りの澄み切った音だ。
二人はしばらくの間、2A3の音に聞きほれた。
「あのハムバランサーのボリュームが気になるなぁ。ボリュームはどうしても音を悪くしているような気がして仕方がない。このハムバランサーは音質には影響しないのだろうか」
「三津田さんはほんとうにボリュームが嫌いなんですね。この場所にも音の信号はシャーシーとの間に流れますので、音質に影響はあると思いますがおそらく、実際に耳で聞くレベルでは変わらないと思います。もちろん、ハム音が最も小さくなるのはボリュームの中央あたりですので、同じ数値の2本の固定抵抗に変えてもハムは消えると思います」
「そうしようか」
広い頑丈な顔をした一道が少し神経質そうになっている。一道はボリュームによって音質が大きく変化することを今までの経験で感じている。高価なボリュームは扱ったことはなかったが、音質劣化の元凶こそボリュームだと確信している。
二百オームのボリュームをはずして三十オームの抵抗を二本取り付けてコンデンサーと抵抗に接続した。そして改めてまた懐メロをかけてみた。
「さすが、三津田さん!」
桜井は感心した。ボリュームの時と明らかな音質の差がある。固定抵抗にした方が音に張りとか艶といったものが感じられるようになり、楽器のふくよかさが出てくる。
「三津田さんのボリューム嫌いは、単に感情的なものではなくて、はっきりと音質に悪影響があるからだというのがわかりますねえ」
桜井はしきりにうなずいている。
「さあ、これで一応、完成だなあ。夕方には業者が2A3を持ってくるだろうからステレオで再生できる」
「そうです。これで完成です。完成された良い音です」
二人は顔を見合わせて笑った。
「それでは、このアンプを使って現代版の電蓄を作ろうか」
「古き良き時代の優れた音を現代によみがえらせましょう。爺ちゃんに言って、あの電蓄と同じくらいの大きさのキャビネットを作ってもらいます」
「そうしてもらってよ。ところで、今はこんな大きなフルレンジのスピーカーはないので、どうするかな?」
「やはり、録音がステレオですので、再生もステレオでいきましょう」
「そうすると、スピーカーをどうするかますます難しいなあ」
「考えられるのは、十三センチ程度の四つのフルレンジスピーカーをつけて、左右二つずつに分けてステレオで流せばいいでしょう。そうすると、両チャンネルのスピーカーの距離がほとんどないので、音の広がりは少ないと思いますが、この形状では仕方がないかと思います。それに、両チャンネルのスピーカーを一緒にして密閉すれば相互干渉してダメですし、この大きさのままで左右に分けて密閉型にすると今度は容量が少なくて息づまったような音になる可能性があります。すると後面開放型にせざるを得ないと思います」
桜井の話を聞きながら一道は腕組みをして考えこんでいた。
「後面開放がもともとの電蓄の音だから、それでいいだろう。確か、昔の高級ラジオに三D方式というのがあったな。それは前面にウーハーとツイーターを取り付けて、左右の側面にフルレンジのスピーカーをつけているものだった。それで音を立体的に聞こえるようにしたものだ。かなり高級品で、普通の家庭ではなかなか買えなかった。この電蓄もそうしようか。左右の側板に、一個ずつのスピーカーでは弱いので二個ずつつけて全部で八個のフルレンジスピーカーで鳴らそう。2A3のアンプも前面と側面の音量が自由に調節でき、さらに出力を強化するために、二組つけよう」
一道は生き生きとしてくる。
「それはすばらしいです。また、どんな音がするか楽しみになります」
桜井も元気な声を出す。
「それに、電蓄という以上、アナログプレーヤーも付けなければならないだろう。せめてMMカートリッジがつけられるように双三極管一本でフォノイコライザーをつけておこう」
「アナログプレーヤーをつけておくのはいいですねぇ。本来、音はアナログですから」
桜井もアナログの音に興味を持っているようだった。アナログプレーヤーのユニットはさすがに製造している種類は少なかったが、キャビネットが大きかったので、どの業者のものでも簡単に取り付けることができると思える。それほど高価なものではない適当なプレーヤーを発注した。
二人は相談しながら、電蓄用のキャビネットの寸法や形状を詳しく書いて、松次郎にファクスをした。キャビネットが出来るまでの間に2A3アンプ四ユニットを一つのシャーシーに取り付けたものを製作した。
二週間ほどして、懐かしい木の香りのする立派なキャビネットが届いた。総ヒノキ造りだ。
「いつもながら立派なものだ。まるで高級家具だなあ。いや家具というよりも、芸術作品に近い」
一道はキャビネットを盛んにさすっている。下段の前面と側面の八個のスピーカーを取り付ける位置には、建具細工の格子状のものがつけられて、その裏にはサランネットがしっかりと張られている。アンプが入る部分には前面を耐熱ガラスにして、真空管が見えるような造りになっているのは、6ZP1と同じだ。アンプのスペースの上段には6ZP1のコンポで使った同じチューナとCDプレーヤーのユニットが取り付けられるようになっている。さらに一番上段がアナログプレーヤーを取り付けるスペースになっている。
二人は、他の者から見ると、何かに取りつかれたような状態で電蓄の製作を始めた。しかし、本人たちにすれば、製作する楽しみを味わいながら、慌てずに作っていた。
完成したのは深夜だった。静まりかえった部屋で、完成した電蓄に灯を入れる。一道は、自宅から持ってきたアナログレコードの一枚を恥ずかしそうに紙袋から取り出す。
「やはり、三津田さんの世代ではアナログレコードを保管しているのですね」
「いや、金に余裕などなかったから、少ししか買っていないけれど、大事に持っている。これはそのうちの一枚だ」
一道は、彼の顔形には全く似つかわしくないはにかみの表情を見せる。そのレコードには『森昌子十七歳の演歌』というタイトルで、幼さと大人の入り交じった森昌子の笑顔がジャケットいっぱいに広がっていた。
一道は、何か儀式でも始めるような手つきになってレコードを取り出しターンテーブルの上に置く。それから、そろそろとピックアップを節くれだった人さし指で持ち上げてレコードの端に下ろす。スピーカーから針がレコードに落ちる独特な音が出る。そしてその音が部屋中に広がったので、期待が膨らむ。すぐに、最初の曲の『連絡船の唄』の哀愁を帯びたイントロ部分が部屋の空間に満ち溢れるように流れてくる。その音を聞いて、二人とも思わず拍手をする。
「これは素晴らしい。まるで目の前で演奏されているようだ」
「本当に良い音ですね。予想以上の音の広がりがあります」
二人とも興奮気味になる。レコードの両面の曲を聴く。いくら聴いても聴き飽きることのない音質だ。
「やはりアナログの音はいいですね」
「これが自然の音と違うのかなあ…桜井君」
「そうですねえ、アナログの方が情報量はデジタルより圧倒的に多い訳ですから、多い分だけ原音に近いですよね。デジタルはどんなに細かく切ろうが、切っていることに変わりはありませんから。自然の音はすべて、細切れになっているものではなくて連続しているものです。なんといっても自然の音に近いのはアナログです」
桜井もレコードの音を聞いて確信を深めたようだ。
「でも、この電蓄であれば、CDも十分に良い音で聞けるのではないですか」
今度は桜井が、自分のCDを持ってきてデッキに入れる。室内管弦楽団の演奏だ。
出できた音を聞いて二人はまた感動する。アナログの音とは違って少々機械的な音はするが、細かい弦の音の綾まで余すところなく再生する。実際のホールでの演奏会の音と非常によく似ている。さらにその他の交響曲などのCDも色々とかけてみる。特に弦楽器の音は冴え渡って響く。演奏者の体の動きが想像されてくるようなみずみずしさだ。さらにその曲が録音されている周囲の状況やマイクの遠近さえも手に取るように感じられる。
2A3電蓄の音を聞くと心の中のモヤモヤとしたものが見事に消え去って心の中全体が晴れ渡るような気持ちにさせられた。
二人は次から次へと寝るのも忘れて音楽を聞き続けた。
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