第35話

 年明け早々に一道夫婦に赤ん坊が生まれた。元気な女の子だった。一道は病院で初めて我が子を見た瞬間に、目には見えないが自分との運命的なつながりを実感して幸福感で胸がいっぱいになった。名前は妻の名前の一字を取って、明美とつけた。

明美が生まれたから一道は、工場で就業時間が終わると直ぐに自宅に帰った。そして明美の面倒を見ている間に、和美は工場に行って清掃をした。

 明美は子育ての楽な子でほとんど病気もせずにスクスクと育ったいった。

 工場では《望郷Ⅲ》や他の製品の製造が順調に進んでいた。そうすると例によって一道と桜井は暇だった。自由になる時間が出来ると松次郎の家からもらってきた2A3の電蓄が気になってきた。

「桜井君、今度は2A3のアンプを作ってみようか。そしてあの電蓄を蘇らせてやろうよ」

「ええ、いいですねえ。どんな音がするか楽しみです。2A3はもともと3極管ですから回路は非常にシンプルにまとめられます。ただ、直熱管ですのでフィラメントがそのままカソードの役割をします。ですから、フィラメントを交流で点灯すると、どうしてもそのハム音が出てしまいます。いろいろな回路を見ますとそれを防ぐためにフィラメントに並列にバランス用のボリュームを入れて、ハム音を低減させる回路になっています」

 桜井もすぐに乗り気になる。彼は一つの真空管の名前を示せば、それに関連するさまざまな情報が頭の中に入っていた。それもそのはずで、暇な時は種々の真空管の規格や回路を調べるのが何よりの楽しみだった。

「そのボリュームは、フィラメント電源を直流にしても必要なのかなあ?」

一道がボリューム嫌いであるのは桜井もよく知っている。

「直流にすれば、基本的には要らないのでしょうが、リップルはどうしても残りますからつけていた方がいいと思います。実際に製作してみて聴いてみない事にはこういうところは理屈ではわかりません。とりあえず、フィラメント用の電源はダイオードで整流しますが、ハムバランサーもつけて置きましょう。ついでにハム防止のため、前段のヒーターも直流点火にしましょう」

 桜井が手際よく回路図を書く。自己バイアスのシンプルなものだ。

「ドライバー段が6SN7一本では少し弱いと思いますので、双三極管ですからからパラレル接続にすれば十分にドライブできると思います。整流回路は6ZP1のものをそのまま使ってもいいですが、入手が簡単な整流管5U4G一本でやりましょう。ちょうど手持ちもありますので」

 桜井の頭の中にはいつでも取り出せる真空管の回路がいっぱいに詰まっているようだ。

「よし、これでいこう。回路は単純であればあるほど音はいいはずだ」

 二人は早速、製作に取り組んだ。

 シャーシー、出力トランス、チョークトランスは6ZP1のものを使えばよい。電源トランスだけは2A3のヒーター電圧が違うので、少し外観も大きくして新しく作ることにする。一道はすぐに電源トランスの製作を始める。手際よく電磁鋼板を打ち抜いて鉄心を作り次に、コアにホルマル線を巻いていく。慣れたもので一時間ほどで完成する。

「B電圧は、2A3の規格からすると少し高すぎるが、実際にはこの程度で全く問題は出ないだろう。少々高めで使った方が、力強い音がするからな。少々の誤差などは全く問題にならない。太っ腹な人間のようだ。こういうところが真空管の良さだなあ。」

 一道は、真空管を語るときはいつも自慢そうな様子になる。

「俺の小さいころは、2A3はこんな高級電蓄にしか使われていなく、とても手にすることのできる真空管ではなかった。手にするどころかは、近くには持っている人もいなくて聴く事もできなかった」

 一道は古い電蓄を感慨深そうに見る。

「2A3は今でも日本製のものはびっくりするほど高いが、中国ではまだ生産されているので、安い2A3がいくらでも手に入る。失敗して焼き切ることをそんなに恐れなくてもよいから楽だ。とにかく業者に半ダースくらい入れさせておこう」

 二人の性格で、作り始めるといくら時間が経とうが、出来上がるまではやめなかった。2A3シングルアンプも完成させるまで製作を続けた。例のごとく夕食は和美が工場に運んでくれた。

 完成したのは夜の十時頃だった。配線は部品点数も少ないし間違えることはなかったがやはり、じっくりと音が出るのを楽しみたいので、まず真空管を全部抜いた状態で電源を入れる。そして電源トランスの出力電圧と各真空管のヒーター電圧をチェックする。それぞれの電圧は正常だ。次に整流管を挿してB電源が供給されるところの電圧をチェックする。負荷がないので高めではあるが正常な電圧だ。最後に残りの真空管を挿して電源を入れる。2A3は手持ちが無かったので、松次郎から貰った電蓄のものを一本だけ片チャンネルに挿す。ショートなどの配線間違いはないとは思ったが、いちおう手際よく、各ポイントの電圧を測定する。それぞれ正常な電圧だったが、2A3のヒーター電圧だけは異常に低い。2A3を見ても確かにヒーターが赤くなっていない。

「おかしいなあ!」

 二人とも同時に声を出した。

「2A3を挿す前の測定では、整流して平滑回路を通ったので高すぎるほどの電圧で、三V近くまであったのだが」

 一道が盛んに首をかしげている。もう一度、2A3を抜いて電圧を測ってみる。そうすると間違いなく3V近くある。今度は、整流回路を外して、トランスの交流出力をそのままって2A3のヒーターへ接続する。すると、しっかりとヒーターが灯る。

「ああ、分かりました。うかつでした」

 桜井が納得したようにうなずいた。

「どうしてだ?ちゃんと二ボルト出るように巻線をしているし、容量も余裕のあるようにしているのに」

 一道は納得できない顔をしている。

「整流による電圧降下です。整流して、負荷をかければ当然電圧は交流の時より下がります。その下がる電圧が、例えば、一ボルトとしますと、この6SN7のヒーター電圧のように六・三ボルトくらいであれば一ボルト下がったとしても真空管は通常に作動します。特に6SN7はヒーター電流はわずかですからこのようにしっかりと点いています。ところが、二ボルトで、しかも電流が大きい2A3では、一ボルト下がるということは、定格電圧の半分になってしまうということです。これではヒーターは赤くなりません」

「ホーッ、そうだったのか」

 一道はうなった。

「それではトランスの電圧を何ボルトぐらいにすればいいのかな?」

「そうですねぇ。四ボルトぐらいにしておけばいいと思います。もし高くなり過ぎたら適当な平滑用の抵抗を入れて調整できます。ただ、おそらくかなりの発熱になると思いますから、整流回路はシャーシーの上に持ってきた方が無難です」

「そうか。今からトランスの巻線をやり直すと時間がかかりすぎるので、とりあえず交流で点火して音を出してみようか」

 二人は、6ZP1コンポに使っているCDプレーヤーとスピーカーをつないだ。そして例のごとく懐メロCDをかける。二人の心がおののく。すぐに音が出てきた。

「ホォーッ!」

 二人とも同じように感動の声を上げた。6ZP1の音とはまた趣の違った音質だ。あやふやなところがまったくない、明快な、澄んだ音だった。

「さすが、銘球といわれたものだなあ!」

 一道は非常に感心している。しばらく二人は、2A3の音を聞いていた。

「十分に良い音だが、2A3のヒーター電源を一度、電池の直流でやってみて、音の違いを調べてみようか」

 一道が部屋にあったを単一乾電池を二個持ってくる。電池二個で三ボルトになるがこの程度の誤差は少々の時間であれば、真空管にとっては問題にならない。電池ボックスに入れて配線を2A3のヒーターに取り付ける。そして同じCDの懐メロを聞いた。

「オッー!やはり、全く違う」

 一道は大きな声を出しながらポンと手を打った。フィラメントの電源を交流にするのと直流にするのとでは、音質に誰が聴いてもわかるほどの明らかな違いが出た。2A3の透明さが、電池にすると際立って聴こえた。2A3という真空管の特徴は、電池で点火して初めて最大限に発揮されるのがわかる。

「確かに、今までに聞いたことがないほど、澄明な音質ですねぇ」

 桜井も感嘆の面持ちになる。

「とりあえず、今夜はここまでにしておこうか。明日また電源トランスを巻き直すよ。それに業者に2A3を直ぐに持ってこさせてステレオで聴けるようにしよう」

 二人には珍しく、完成せずに作業を中止した。

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