第33話

 食後は一道と桜井は二人で周辺を散策した。途中、少し遠かったが杉山の墓参りにも行くことにした。墓は寺の境内の奥にあるということだった。寺の山門には幹回り三メートルもあろうかと思える大きなイヌマキの木が左右に立っていて自然の門構えになっていた。正面に古い本堂があって、その裏に墓所があった。たくさんある墓石の中を行き当たりまで歩くと杉山のものは直ぐに分かった。もっとも新しく見えるものだったからだ。墓石の前で手を合わせていると住職の奥さんらしき婦人が水を入れた桶とひしゃくを持って来てくれた。

「どうぞ、お水をあげてください」と言って桶を置き、手を合わせた。一道の頬が引きつった。

「スッ、スミマセン、いくらですか」

 一道はいつもの太い声と違ってかすれた声を出した。婦人は一瞬、何のことか意味が分からなく目をしばたたいた。桜井も不思議そうに一道を見た。

「・・・マァ-、お金など要りませんよ。檀家の皆さんのお陰で出来ているお寺ですから。ゆっくりしていってください」

 婦人はいまにも吹き出しそうな様子で引き返した。一道は自分の拳で自分の頭をゴツンとやった。

・・・金の亡者のような神津や米沢などと一緒に居ると俺までいつの間にか、金でしかものが見えなくなったのか

 一道は亡霊を振り払うように頭を大きく振った。桜井は、一道の言動には時々自分の思考の範囲を超えることがあるのを感じていた。

二人は墓石に水をかけ、再び手を合わせてから石段に腰を下ろした。よく晴れて風も無く日差しはまぶしいが、暑く感じるか快く思えるか微妙な気候だ。蝉が騒がしく鳴くにはまだ早く、小鳥のさえずりが時折聞こえるくらいでそれが静かさをさらに強く感じさせる。目前の墓石の頂きにシオカラトンボが来て止まった。

「妙に静かだなあ。あの世とこの世の境目のようだ」

 トンボは一道の声には反応せずに動かなかったが、目に見えないほどの虫が傍を飛ぶとパッと飛び立って捕食する。すぐにまた同じ位置に戻って羽を休める。

「こんな静かさを感じさせる音がいい音なんだろう」

「確かに小鳥の声が快いですねえ。僕の研究テーマそのものです。あのさえずりは、出力はほんの僅かなワット数です。周波数帯は非常に狭いものです。波形を調べれば鳴く度に微妙に変化して正確な規則性がありません。ステレオでも五・一チャンネルでもありません。モノラルです。それなのに良い音なのです。何百万円もかけた音響システムは出力、周波数特性、歪率、SN比など測定される数値は非常に優秀ですが、この小鳥の声には逆立ちしてもかないません」

 桜井は遠く青空を見つめている。

「そうだ。そもそも、大金を出していい音を自慢している奴は心が貧しい。それに本当はいい音ではないという事に気がついていないのだから滑稽としか言いようがない」

 一道が少々腹立たしそうな声を出す。

「そうなんです。学校でもいつも僕は言っていますが、これほどオーディオ機器が発展したにもかかわらず、その根本である音質評価理論が構築されていないのです。だから、今、音質レベルの評価は金額、外形、測定数値、宣伝文句などによってしか判断できないのです。でも、これらの評価基準は実は、音質の良否を判断する基準だと思い込まされているだけで、本当はまったく無関係なことさえ多いのです。例えば少しでもオーディオに興味のある人なら誰でも知っていることですが、三十五ヘルツ~三十キロヘルツの周波数特性のスピーカーと六十ヘルツ~十五キロヘルツのスピーカーとどちがよい音がするかといえば、数値上は言うまでも無く前者ですが、実際に聴き比べてみると後者の方がよい音がする事がいくらでもあります。このことは他の数値などにも当てはまることです。ましてや金額や宣伝文句などは押して知るべしです」

 徐々に桜井の声に熱がこもってくる。

「〝オシテシルベシ〟か。桜井君は理科が得意なのかと思ったら、いろんな言葉も知っているなあ」

 一道には言葉の意味がよく分からない。

「ええ、父が国語の教師なので小さい頃から年齢に相応しくない言葉も家庭の中で自然に覚えていました。それが学校でもよく口から出てきて皆にからかわれたものです」

 桜井は一息つく。

「音については確かにみんな騙されているかもしれないな」

 一道は口をへの字に曲げる。

「そうなんです。音質評価理論に基づく評価基準を持っていないから的確性を欠いた評価軸と分かっていてもそれにすがりつかざるを得ないのです。この迷妄の根本には音質の評価を芸術や文学の評価と同じに捉えているところにあります。ピカソの絵は理解できる人が見れば感動し、優れた価値がありますが、興味の無い人にとってはつまらないポスターと同じです。源氏物語も古文を解釈できて王朝文学に魅力を感じる人にとっては最高傑作ですが、文学など面倒臭いと思っている人にとっては何の価値もありません。ということは芸術作品の価値判断はその専門的知識の優れている人が決定することを意味します。音質についてもこれと同じように考えて、音響に造詣の深い者にしか評価できないと錯誤しているのです。要するに音質と芸術の違いが全く理解できていないのです。例えば音質の評価の記述に『何々という曲を聴くと何々の音が見事な存在感を示す』などと主観的な言葉で書いているのはその最たるものです」

「うーん、なにか、よく分からないなあ」

 一道は腕組みをして目をしばたたかせ始める。

「本来、音は音そのものに価値があるのです。だって今、この墓所で聞いている小鳥のさえずり、また、小川のせせらぎや木々を渡る風の音など、自然の音は芸術として創作されたものではありません。ところが、その音に対して理解があろうが無かろうが人々はほとんど例外なくその音を聞いて心が和まされるのです。赤ちゃんは母親の心音を聞いて安心して眠るのです。音質は芸術とは異質なものなのです。ということは、ここがいちばん僕にとって大切なところですが、すべての音響機器に対して客観的な数値的評価ができるということです。その評価理論が確立できれば、これまでのように金額や宣伝文句や測定値に惑わされることがなく、機器の正しい評価が出来ることになるのです。単純な話が、AとBの機器のどちらが良い音がするかは、例えば1万人の人にその音を聞いてもらい選択してもらえば自ずと明らかになるのです。その結果は現在の音質評価の基準とはおそらく無関係になるでしょう」

「結局、6ZP1シングルアンプと二百万円くらいする新製品の半導体アンプとを一万人の人に聴き比べてもらえば、6ZP1の方が音が良いというのが証明されるという事だな・・・」

 一道の目はまぶたが半分下りている。声も眠そうだ。

「そうです。一般的なユーザーの利用環境を前提に、ほんとうにこの実験を実施すれば事実となるでしょう。だから僕は、どうして多数の人が音質がよいと感じるのか、その根拠を学問的に研究したいのです。そして、現在の音質評価の混乱に答えを出し、製品購入者に不利益にならないようにするのが夢なのです。この研究テーマを大学の何人かの教授に訴えましたが誰も評価してくれませんでした。だからドクターコースに進むのは諦めました」

 桜井の話が途切れた。いつの間にか墓石のトンボもいなくなっていた。

「さあ、それじゃあ、ボチボチ帰ろうか」

 二人は一緒に立ち上がった。

 松次郎の家に着き、帰りの挨拶をすると、

「あんた、あれを三津田さんに見せてあげなければ・・・」とマサ子が隣の部屋の奥の方を指さした。

「そうだ。コロッと忘れておった。三津田さんにどうしても見せたいものがあって隣の部屋に置いているんだ」

 隣の部屋に行って指さす方を見ると、そこには冷蔵庫ほどもあろうかと思える立派な電蓄が置いていた。

「ホーッ!」

 一道は思わずうなり声を上げる。

「村の代々、庄屋をやっていたおやじさんが、うちの工場が真空管のラジオを作っているというのを知って、それなら家にある真空管の電蓄が何かの役に立つかもしれないからあげるよ、と言って持って来てくれたんじゃ」

 電蓄はいかにも堂々として風格がある。製造からずいぶん歳月は立っていると思えるが、キャビネットの作りもしっかりしていてどこにもガタがきているところがない。

「ラジオは今でもよく聞こえるが、レコードはモーターが回らないからだめだ。何かの役に立つだろうか」

 松次郎は電蓄をポンポンと叩きながら言う。一道は電蓄を裏向きにして見る。

「やはり、2A3シングルアンプだ。しかもマツダの真空管がさしてある」

一道は目を輝かせた。彼が少年のころはこのような電蓄は、高級なものでとても手で触ることができるものではなかった。

「2A3という真空管は、高級電蓄にだけ使っていた高価なものだった。良い音がするに違いない」

 電源を入れてラジオを聞いてみる。大型のパーマネントスピーカーから出でくる音は余裕のある、時間の経過を感じさせない音だった。

「本当に温かい音ですねぇ。後面解放型のスピーカーボックスになりますけれど、大型なのでこれだけゆったりした音になるのだと思います」

 一道も桜井も2A3電蓄の音に非常に引きつけられるもの感じる。

「役に立つのだったら持って帰りなよ」

「エッ、もらっていいんですか」

「どうぞ、持って帰ってください。そのためにお父さんがもらったものなんですから」

 松次郎もマサ子も孫や一道が喜んでいるのを見て満足そうだった。

一道と桜井は電蓄を大事に車の後部座席に運んで、できるだけ振動が伝わらないように置いた。いつものことだが、たくさんの地元でできた野菜などももらって車に積んで出発した。

        

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