第32話
松次郎の家に行くため、6ZP1パラシングルアンプを車に乗せて、一道と桜井は工場の始業時間の前に早めに出発した。6ZP1アンプやチューナーなどのケースの大きさを打ち合わせるためだった。松次郎は簡単な手書きの図面をファクスするだけで完璧な品物を作れたが、一道と桜井は時々は松次郎夫婦に会いに行くのが楽しみだった。
中国道に入るまでは車が少しを込み合ったが、高速に入ると順調に進んだ。一時間ほど走って中国道を出た。そこから松次郎の家まで車を山あいに沿って走らせる。この場所に来るといつも季節をみずみずしく感じる。古川橋では季節の変化を悦びを伴って感じられることはない。
「やはり自然の中がいいな。本来、人間は自然の中で生きてきた動物なんだから」
「そうですけどね、田舎に住むと不便ですよ。僕なんかは今住んでいるところが便利で気に入っています」
「年を取ると田舎に帰りたくなるよ」
今は初夏の季節で、山肌には常緑樹の濃い緑の中に、新しく出た薄緑の葉が山肌に雲ような模様を描いている。その模様の輪郭はぼんやりして夢見心地のようなのんびりとした情景に心が和む。
県道からそれて杉林を通る細い道を松次郎の家の方へ上って行くと、新しい大きな工場らしい建物が目に入った。すべて立派な木材で作られている。今までの工場の横に隣接するように建てられている。その前を通り越すとすぐに松次郎の家だった。
「ジジイ、ババア、居るか?」
桜井はいつもの調子で玄関に入っていった。
「オー、マコトちゃん、無事に来たかい。待っていたぞ」
松次郎夫婦は元気そうな顔ほころばせた。
「さあ、上がれあがれ」
この日は松次郎の家へ行くことを事前に連絡していたので、ちゃぶ台の上には食べるものがいろいろと並べられている。いつものように全部地元で取れるものを材料にしたもので、新鮮な良い香りがする。一道は車から持ってきたアンプを縁側においてちゃぶ台の前に座った。
「この季節なら、まだ暖かいほうがいいだろう。田舎のことで口に合わないかもしれないがどれでも食べてくださいよ」
マサ子がすぐに温かいお茶を持ってきてくれた。二人ともよく食べた。サツマイモを細く切って油で揚げたものに芋飴をつけたものなどは、砂糖の甘さとは違った絶品の味だった。また特産の黒豆の甘煮も食べ出すといつまでも止められない。そして米を高温高圧で圧縮し、急に減圧して作ったポンポン菓子に水飴を混ぜて小さいお
にぎりほどの大きさに固めたものなどはいくら食べても腹に残らないような気がする。
「隣の工場は新しく建てたのですか?」
一道がおやつを食べながら尋ねた。
「そうだ。だんだんと製造量が増えていって、前の工場だけではとても間に合わなくなって、大きい工場を建てたのじゃ。材料はすべてこの辺の不要な間伐材などで作っているから、ほとんど作業代だけでできあがっているのじゃ」
松次郎はいつもの変わらぬ笑顔でのどかに話す。目にかぶさってくるように見える長い眉毛に少し白髪が増えたように一道には思える。
「仕事が増えたものだから、昔の仲間も呼び集めて、大勢でやっているよ。この辺ではちょっとした地場産業のようになってきている。それはありがたいことじゃが、やはり金もうけだから、速く作れ、安く作れと米沢さんが言ってくるんじゃ」
松次郎は少し困ったように言った。
「そんなに、米沢の言う事を聞くことはないです。松次郎さんの納得のいく仕事をしてください」
一道は気の毒に思えると同時に自分も関わっているので申し訳ない気もした。
「マコトちゃんは、もうそろそろ大学を卒業かね?」
マサ子が急に思いついたように尋ねた。
「修士課程が来年の三月で終わるよ。博士課程は僕の好きなコースがないのでもう卒業するつもりだ。だから、そろそろ就職活動を始めなければならない時期なんだ」
「マコトちゃんは小さい頃から頭がよかったからねぇ」
マサ子は頼もしそうに孫を見ている。一道には大学のことはよくわからなかったが、桜井が卒業すると当然、工場を出るだろうから寂しくなると思った。
「今は世の中の景気がいいから、就職先はたくさんあるだろう」
松次郎も孫に目を細めている。
「特に理系の就職先はたくさんあるけど・・・今のままカミツ工業で仕事をするのが一番楽しいかなあ、とも思っているよ」
「それはダメだ。社長は桜井君を喉から手が出るほど欲しがっているだろうけど、桜井君みたいな大学に六年も行って勉強した人間が、カミツ工業のようなちっぽけな会社で勤めたのでは将来がない。大きな会社に入る方がいいよ」
一道が武骨な手を顔の前で左右に振りながら言った。
「でも、真空管を扱うことは、本当に楽しいです。それに、三津田さんと一緒に仕事ができるのが一番いいですねぇ」
「だめだめ、俺と一緒に仕事したって何のいいこともない。会社が嫌なら親御さんみたいに学校の先生にもいくらでもなれるじゃないか。それの方が、はるかに生活が安定している」
一道はむきにさえなっている。
「でも、仕事は楽しい方がいいですね。やはり今の工場で仕事しますよ」
桜井は当たり前のように言った。この時に進路を決めたというよりも以前から腹は決まっていた様子だった。一道は桜井のような優秀な学生は、小さなカミツ工業に就職するものではないと思っていたので、内心は非常にうれしかった。一方で桜井の将来のことを考えると残念でしかたがない気持ちもした。
一休みしてから、6ZP1パラシングルアンプのキャビネットの大きさや形状などを決めた。アンプはこれまでの《望郷》と同じように前面を耐熱ガラスの窓にして真空管が見えるようにし、放熱のための隙間も作ることにする。スピーカーボックスは先日、図面をファックスしていたものが完成していた。見事な一枚板を使った白木の木目も新鮮な密閉型だった。林の中のような木の香りが漂っている。
「こんな品物ばかりを作らせてくれたら嬉しいのだが、金儲けにはならんらしい」
松次郎が苦笑しながら言った。
ボックスは十六センチのフルレンジを駆動させる空間としては充分過ぎるほどの容量がある。ユニットの能力を伸び伸びと発揮できると思える。アンプと並べると神津が要求していた四つのオプションのキャビネットを縦と横に二個ずつ上に載せて同じ高さにするのにちょうどよい大きさになっている。この頃のチューナーやCDデッキなどのユニットは非常に小型化されていて、アンプの上に載せられる四個のケースであれば大き過ぎるくらいだった。
昼近くなって二人は昼食をごちそうになった。大阪の食べ物とどこが違うのかは分からないが、マサ子が料理をする食物はどれも食べれば食べるほど食欲を増させるおいしさがあった。
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