第30話
「新婚がこんなところに住んでいたのでは夢も希望もないだろう。私がこの近くで良いマンションを探してやったので、購入しなさい」
こう言って神津が真新しいマンションのパンフレットを一道と和美の前で開いて見せた。二人はそのパンフレットを見ると、まるで夢のような生活空間に思えた。そして、値段を見て驚いた。一道夫婦で稼いで買おうと思えば四、五十年かかるように思える。
「どうだ、すばらしいだろう。買う方がいいぞ」
「いいのは分かっている。だが、結婚式に金を使ってしまって一銭もない。こんな高いものを買えるわけがないだろう」
一道が不満そうに口を曲げる。
「いや、大丈夫だ。今は半年ごとに不動産の値段は上がっている。だから到底、払えないような金額だったとしても今無理をしてでも購入しておくと二、三年すれば、驚くほど値上げをして、それを売れば次の物件が買えるようになるんだ。だから今は銀行が金を貸してさえくれれば不動産を買っておけば、いくらでも金持ちになれるぞ」
神津はいかに良い話だというような顔つきをしている。
「頭金も無い」
一道が、つっけんどんに言う。
「心配するな。頭金ぐらい私が出してあげる。と言っても二人の月々の給料から分割で返してもらうがね。残りの代金は私の知り合いの銀行マンに頼めば、すぐにローンを組んでくれるよ。今、不動産が買える状態にあるのに買わない者は愚かだ。みすみす目の前にある、取ってくださいと置いてある宝物に手をつけないのと同じだ。二、三日考えてみなさい。だけど、今、勇気を出して買っておかないと、一生涯、持ち家などできないよ。これから不動産は手がつけられないほど値上がりしていく。私は目いっぱい融資を受けて不動産をかなり買い込んでいる。その値上がりの金額は、この工場で汗水垂らして稼ぐ金額を超えているんだから驚きだ」
神津の話は丸呑みにするといつもよいことはなかった。一道は今度のマンションの話もその類だろうとは思ったが、夢にも思っていなかったことが現実にできるのは捨てがたい魅力だった。和美は先を見通した金の計算などにはうとかったが、パンフレットを見て夢見心地になっている。一道は結婚する前は無表情に見えた和美の顔も、一緒に暮らすようになってからは、無表情な中にも感情の動きをよく読めるようになってきている。彼は、パンフレットを一見、呆然として見ている和美の姿のなかに、マンション生活へのあこがれを感じ取った。なによりも、和美が妊娠していることが先日分かったので、乳児を育てるためには、工場では環境が良くないと思っていところだった。それで、思い切って買うことを決めた。
下見などもして数日後に神津に買うことを伝えた。
神津は驚くほどすばやく段取りをした。それで、一ヵ月ほどして不動産屋が一道にマンションのキーを手渡しに来た。その時、社員が、
「この度は大変にありがとうございました。ぜひともどなたかお友達でマンションを購入希望の方を紹介してください。成約になりましたら、十分にお礼をさせていただきますから、よろしくお願いします」と頭を下げた。この言葉を聞いてい一道はハッと気がついた。神津がマンションを購入することを勧めたのは礼金が欲しかったからに違いないと思った。
「やっぱりなぁ。金持ちは金に汚い。腐るほど金を儲けておきながらまだ銭が欲しいのか」
一道は舌打ちをした。
マンション生活は快適だった。十階建の九階で、見晴らしもよい。二人の、生まれてからこれまでの住環境からすればほとんど夢のようなものだった。この辺りは古い文化住宅やアパートが次々に取り壊されて、ビルやマンションの建設ラッシュのようになっている。一年ほど離れて戻ってみると建物がすっかり変わってしまって道に迷うというのは大げさな表現ではない。ただ、線路沿いの建物だけは騒音と振動のため売買があまり無かった。最近ではカミツ工業の本社と工場が新しく建てられたくらいだった。
一道の住居は一度にレベルアップしたが、ローンの返済額も夫婦で稼いでなんとか支払いができるくらいの高額になった。それは生活費をこれ以上削れないというくらい削らなければならないものだった。しかし確かに神津が言うように、不動産の値上がりは激しい状態で四、五年我慢しておれば、今のマンションを売ると小さなマンションであれば、ほとんど借金なしに買うことができる可能性は十分にあった。
一道のマンションは工場から歩いて十分ほどだったので、桜井は工場の部屋にそのまま居たが、夕食は今までのように一道のマンションまでやって来て和美の料理をおいしそうに食べた。また、登校しなくてよい時は昼食の弁当も一道の分と一緒に和美が作った。
和美のお腹の胎児は快適な生活に合わすように順調に育っていった。
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