第28話
一道は結婚しても住む所は相変わらず工場の中二階の部屋だった。妻になった和美もアパートから最低限の家具を持ってこの部屋に引っ越してきた。二人とも寝る所に金をかけるなどということはこの上ない無駄遣いのように思えたので、家賃のいらない中二階はうってつけの住居だった。それに隣には桜井もいるので何かと便利だった。
ただ、狭いのは致し方なかった。生活用品と真空管の製作物や材料が所狭しと置かれていた。食卓は片付けるとそのまま、作業台になった。それでも二人は、
「アパートより広い」と満足気であった。
桜井の朝と夜の食事は、和美が自分たちのものと一緒に作る。桜井の大学が休みの時は昼食も作る。夕食はいつも三人で一緒に食べてその後、夜遅くまでさまざまな話をする。これが三人の何よりの楽しみだった。一道も和美もペラペラとしゃべる方ではなかったが、不思議と桜井とだけは話が弾んだ。
神津や米沢はうるさく注文をつける一道を、やはり、できるだけ生産にかかわり合わせないようにしていた。日ごろはまるで邪魔者扱いにする。そのくせ、製造に不具合が生じるとすぐに一道のところに来て、見え透いたお世辞を言っては解決させる。神津も米沢も自分達の都合によって相手に対する態度がコロコロと変わる人間だった。
製造ラインが順調に動いている時は、一道や桜井は特に何もすることがなかった。神津からは、
「工場の技術主任だから不具合が生じた時にすぐに対応するためには工場から離れないようにしなければいけない。だが、空いた時間はテレビを見たりさえしなければ好きなようにしてくれたらいい」と言われていた。仕事中にのんびりと誰かがテレビを見たりしていると社員全体の士気にかかわるのでそれだけは止めてくれということだった。
一道は暇なときはいつも部屋に閉じこもって、自分の好きな真空管を使った制作物に没頭していた。桜井が登校しなくてもよい時はいつも一緒に楽しい作業と会話に時の経つのも忘れた。その時はよく和美が持っていたCDラジカセで懐メロを聞いていた。
一道は、ずいぶん前に長く使っていたアナログプレーヤーが潰れたが、それでも何時かは新しいプレーヤーを買って聴こうと思って、懐メロのレコードを小遣いに余裕のある月には買っていた。ところがいつの間にか、世の中はCDの時代に入っていた。近くのどこを探してもアナログレコードなど売っている店はなくなった。それでまったくレコードを聴かない生活が続いていたが、結婚して和美がCDラジカセを持ってきたので今度は時々、懐メロのCDを買って聴くようになった。
「CDラジカセほど懐メロにふさわしくない音を出すものはこの世の中に無いなぁ」
聴きながら彼は何度も愚痴をこぼした。不思議と、アナログレコードやアナログのマスターテープからCDに録音されたものは、まだ聞くに耐えられた。しかし、初めからデジタル録音されたCDは、音楽を奏でるための音とは思えなかった。
「これは人間が演奏する楽器や声帯から出てくる音ではない。コンデンサーとコイルによって発信させられる電子音のようなものだ。もう少し、人間の音楽らしい音にできないのだろうか」
「そうですか。僕はもともとレコードといえばCDの音しか聴いていませんから、これが当たり前になっていますけれど、デジタル化は本来、連続している音楽信号をズタズタに切り裂いて録音していることは事実です」
桜井が、不満そうな一道の顔を面白そうに見ながら言う。
「せめてCDの音でも真空管アンプで鳴らそうか」
「やってみましょうか。ちょうど、このCDラジカセにはピンジャックのLIN0UTがついていますから簡単です。どのアンプにつなぎますか?」
「やはり高一中二の低周波増幅段につなごう」
一道はクレームで返品されてきて修理して保管している高一中二とそのスピーカーを持ってきた。それからシャーシーを取り出して、アッテネーターに入力用のシールド線を接続してラジカセのLIN0UTにつなごうとした。
「そうか、出力はステレオだったなあ。それじゃあ、二つの出力を直結してモノラルにしてつなごうか。そうしても音はおかしくならないだろうか、桜井君?確か以前、音がこもったようになった気がしたが・・・」
一道は思案顔になる。
「その通りです。実はこれが僕の研究テーマの一つなのです」
桜井の声に力が入る。
「結論的には、ステレオ録音したものを純粋にモノラルの音に変換させることは不可能です。とりあえず、実際に聴いてみましょう」
二人はCDの左右の出力を片方ずつ聴いたり、左右を直結して聴いたりした。
「はっきりと違いが分かるな。直結してモノラルにすると間違いなく音がおかしくなる」
一道はうなずいている。
「そうです。音源を左右に分けて録音し、しかも広がり感を出すために位相をずらせたりしますから、その電気信号を一緒にしますと、お互いの信号に悪影響を及ぼして本来の録音した信号とは異質なものになってしまうのです」
「ホウ、難儀なことだなあ」
一道は少し眉根に皺を寄せる。
「簡単に言えば、ステレオ録音した時点で、原音から離れてしまったということです。だって、例えば、一人のトランペット奏者が一つのトランペットを吹いているのに左右のスピーカーから二つに分れて音が出てくるのは異様でしょう。音源は一つなのに再生される時は二つになる。実際にはあり得ない事です。ステレオという方式が採用され始めた時、再生音は原音から離れて、バーチャル化が始まったのです。だから、この頃の五・一チャンネルだとか言って喧伝しているのは、贋物の宝石を磨いて『よく光ります』と言って売っているのとまったく同じです。一つのトランペットの音が五、六ケ所から出てきたらそれはもう、お化けです。模造品はいくら磨いても贋物です。模造品が本物にかなう訳がありません。いつかは飽きられます。音響製品の歴史も調べましたが、僕が生まれる前に一時期、四チャンネルステレオといって前方左右+側方又は後方左右にスピーカーを設置する方式のものが主流になった時がありました。ところがいつの間にか廃れていって二チャンネルに戻ってしまいました。この頃の多チャンネル化も同じ歴史を繰り返すのではないでしょうか」
「なるほど、確かにそうだ」
一道は今度は納得顔になる。
「映像に『実像と虚像』という概念がありますが、音にも『実音と虚音』があります。言葉として『実像と虚像』という言葉は一般的によく聞きますが『実音と虚音』という言葉はあまり耳にしないと思います。虚音の概念規定も虚像に比べればはるかにあいまいです。実音をマイクで拾って電気信号に変換した時点で虚音化したと考える人からバーチャル化した音が作り出す実際には存在しない音源のことを指したりと様々で、どの概念もまだ市民権を得ているとは言えません。要するに音に関しての研究は映像よりも遅れていると言うことです。というよりも、ほとんどの研究者が壁にぶち当たり、それを突破することができずにだらしなく、諦めているというのが現状です。その典型は、オーディオ機器は原音に近づけるのではなくどれだけ原音らしく再生できるかにある、などという類です。これなんかは苦し紛れに評価軸さえ見失っています。だから僕は理論構築をしたいのです」
桜井の舌は滑らかに回りだしたが、一道の目はまぶたが重くなり焦点が定まらなくなった。
「そんなものかなあ」
「そうなんです。何が虚音なのかも分かっていないのです。ですから、よく音質の批評文の中で『解像度・定位感・分離感』などという言葉を使って音の評価を書く人がいますが、もともと虚音なのですから、それに対してこれらの言葉を使ってもまったく意味がありません。意味がないということさえ理解できていないのです。また、実際の演奏に行って、その後すぐに同じ演奏のCDを目をつむって聴くと実演と区別がつかなかった、などと表現して機器の優秀さを宣伝する人もいますが、これなどは、実音と虚音の区別さえ聞き分けられない低レベルの耳の持ち主なので・・・」
桜井の話はどこまで行くか分からないくらい続きそうだ。
「桜井君は日ごろはおとなしくて優しい性格なのに、音質に関してはきつい事を言うなあ」
一道はブレーキをかけるように言う。
「ええ、僕は様々な音質についての宣伝文や評論文などを読んで、憤慨しているのです。確立された客観的な理論に裏づけされて書いているものは皆無なのです。信念なき『感想文』は煙のようなものです。それを参考にして製品を買わされる消費者はたまったものではありません。音響関係に携わる専門家や研究者にはほんとうに、どの製品の音はどの程度良いのか、明確な説得力のある評価基準を提示する責任と使命があるのではないでしょうか」
「それはその通りだが、やはりステレオで録音しているものはステレオで再生しないとダメということか」
現実の話に戻すように一道が言う。
「そうですねえ。ステレオ録音の歴史と背景を調べましたが、音質重視の結果ではなくして、商業ペースに乗せられた結果といえます。消費者に、モノラルは古く音質も劣る、ステレオは新しく音質も良い、と宣伝により先入観ができ上がった時、どちらを買うかといえばステレオのものを買うに決まっています。ところが実際には、よりバーチャル化されたものに購買意欲を増させていることになります。本来、音の定位というものは脳が判断するものであって、始めから左右の音に分けて定位感を作るものではありません。一つの音源が左右の耳から入ってきて聴神経を通り、脳幹の上オリーブ核まで達して、そこで情報処理されて音源の位置が判断できるのです。こうして認識されるのが原音なのです。ですから、一つのトランペットの音を一つのスピーカーから鳴らせば脳はその音の位置を的確に判断して、より原音に近い形で聴くことができるわけです。音源が複数になっても原音はモノラルの集合体なのです。結局、ステレオ方式は根本的にHigh Fidelityとは異質な方向であったということです」
今度は一道の目がうつろになってくる。桜井がそれに気がついた。
「・・・すみません、つい研究テーマが出たものですから夢中になってしゃべってしまいました。やはりステレオアンプにしなければならないということです」
「それじゃあ、新しくステレオアンプを作ろう。高一中二を二台も並べるとかさばるからなあ」
「そうしましょう」
二人の目が現実に戻った。
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