第24話

 一道はいつまでも立ちつくしていた。

背後の、風の音とは違ったザワザワという物音にハッとする。振り向くと木々の間を数匹の野ザルが移動している。そのうちの一匹と彼の目が合う。サルはすぐに目をそらせて、特に彼を意識するでもなく山中へ消えていった。

「さあ、ラジオを聞いてみよう」

 彼は電池管ラジオを取り出してアンテナを高く伸ばす。時間は正午前だ。バリコンをゆっくりと回すとNHK中継所の第一放送と第二放送は音量、音質とも満足なレベルで聞こえてくる。さらにバリコンを回すと音が波打つように聞こえるが、内容は十分に分かる放送が入ってくる。正午前のお知らせの内容を聞くと、九州地方の民放であるのが分かる。やがて正午の時報が鳴った。一瞬の空白があって、次の番組みのテーマ曲が流れてくる。その曲を聴いて一道の心が弾んだ。『なつかしの歌声』の前奏だ。両親が特に好きな歌で、これがラジオから流れ始めると二人は晴れ晴れとした顔になって大きな声で歌っていた。一道もそれを何度も聞いているうちに、優しい哀愁を感じさせるこの歌が大変好きになっていた。曲の途中でアナウンサーが「なつかしのメロディー」と番組名を言って、またしばらく曲が流れる。藤山一郎と奥山彩子が歌い始める直前に音量が絞られる。それから曲名が紹介されて、懐かしい歌が次々と流れる。わずか十五分の番組だったが、一道は時間が逆流して、自分が中学生の時と同じ心になってくるように感じた。

 翌日から一道は雨が降らなければ毎日、母親が作ってくれた弁当を持ってあちらこちらと出かけて行った。そして、ラジオを聞きながら、あの貧しかったけれども幸せだった子供のころの自分に浸っていた。

 やがて、釣竿も持っていくようになった。帰りがけに海岸で魚を釣って帰った。餌は岩にくっついているカキや貝を割って身を取り出して針につければよい。黒潮が打ち寄せ海水温が年中高いので、魚はいくらでも釣れる。海底の岩場の穴の中に落とし込めば、すぐにガシラが食い付く。海草の中に入れるとメバルやグレが食う。回遊魚が入ってくるとアジやサバが入れ食いになる。時にはイシダイの子のサンバソウまで釣れる。これは刺し身にすると絶品で、母子で舌鼓を打って楽しく食べた。

 民代は魚の種類によって様々な方法で料理をするので、子供の頃もそうだったが、毎日魚を食べても飽きることはない。また、釣れすぎたアジなどは二枚に開いて天干しにして保存できるようにする。こうしておくと海が荒れて釣りに行けなかった日でもおかずを買わなくてすんだ。これらはちょうど、山里の桜井マサ子が山菜料理をするのとよく似ていた。

 毎日の生活はわずかな費用で済ますことができた。亀三が死んだので、軍事恩給の代わりに民代が支給を受けることになる扶助料でもどうにか生活していけると思えた。それに、一道に、大阪へ帰らないのであれば、定置網の手伝いに来いと言ってくれる漁協の者もいた。

 一道は故郷での毎日の生活に時として大阪の生活を忘れてしまうことがあった。桜井からは、工場はうまくいっているからゆっくりすればよい、と言われてからその後、何も連絡がなかった。また、一道からも連絡をしなかった。徐々に頭の中から、工場での生活はもとより中学卒業して集団就職で大阪に行ってからのすべての生活の実感が薄れてきていた。今の生活が本来の自分の生活で、大阪での生活は横道に逸れた自分に相応しくない生活のように思えてきた。

「俺はこのまま、鯆越で生きてもいいなぁ。仕事は適当に道路工事か漁の手伝いをすれば食っていける。働けなくなればこの世を終りにすればいい。その方がお袋も喜んでくれている」

 一道は生涯、故郷での心の満たされる生活を続けることに愛着を感じ始めていた。それで、その後も工場から連絡がないのをよいことに、一道からも全く連絡をしなかった。工場の一道の部屋に置いたままになっている物は大切なものは何もなく、全部捨てられてもよかったので、このままカミツ工業を辞める気になっていた。

 一年程が過ぎた。

 南国には珍しく冷え込む夜が続いていた時だった。突然、桜井から電話がかかってきた。

「三津田さん、ほんとうにご無沙汰しています。まったく連絡せずにすみませんでした。お元気でかす?」

 懐かしい桜井の声を聴くと一道はなにはともあれ嬉しくなった。

「ああ、元気だぞ。久しぶりだなあ、懐かしいなあ。桜井君も元気かい?」

「ええ、体は元気なんですが、ラジオの製造がうまくいっていないのですよ。そろそろ大阪に帰ってきてもらえませんか」

 受話器から桜井の困ったような声がした。

「どうして?社長や米沢がまた何かやらかしたか?」

「そうです。三津田さんがいないのをよいことに、好き放題で勝手にやっています。その結果、返品の山ですよ。これまでは僕が三津田さんに連絡をしようとすると、二人とも、田舎でゆっくりしているのに連絡をするな、と止めていたくせに、製造がうまくいかなくなると、急にこうして僕に電話をさせるのですよ。悪いのは全部、僕の設計の誤りだと責任を押し付けられているのです。とにかく帰って来て助けてください。お願いします。くわしいことはその時話をします」

 桜井の話の様子では不良品の製品が次々と出荷される状態になっているようだった。

「・・・それと、半年ほど前に、杉山さんが亡くなりました。すぐに三津田さんに連絡しようとしたら、社長さんが止めるものですから結局、お知らせできなかったのです。残った人では良い真空管が作れなくて、しかたなく、杉山真空管の製造は中止しました」

 桜井の声が沈んだ。

「そうか、そんな事もあったのか。大事な人を亡くしたなあ」

 一道は少し間を置いてから続けた。

「俺はもう、ずうっとこの田舎で生活してもいいかなあと思いかけていたのだが・・・桜井君がそんなに困っているのであれば、すぐ帰るよ」

 こう言いながら一道は、少年時代の幸福な生活が再度、終わったように感じた。

 一道が帰り支度を始めると、母親が急に老け込んだ。寂しそうに俯き、ものを言わなくなった。

「ひとり暮らしがいやになったら、いつでも大阪に来たらええよ」

 こう言って母親を元気づけたが、民代の顔は晴れなかった。それでも、大阪で世話になっている人へのお土産ということで、親戚を回ってもらってきた米や野菜や魚の干物をダンボール四箱にも詰めて、一道に持って帰るように言った。一道は列車で帰るつもりでいたが、母親からの土産がかさばったのでまたレンタカーを借りた。

 翌早朝、帰りがけに彼は一球式の電池管ラジオをカバンの中で入れた。それから後ろ髪を引かれるような気持ちで家を出た。

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