第23話

 一道が中学を卒業して就職のため倉庫を出てからは、秀一はあまりラジオの製作などはしなくなり、学校のクラブと勉強に力を入れるようになった。それで、倉庫の部屋の中には製作したラジオなどは片付けたりもせずそのままの状態になっていた。あの最初に作った一球式の電池管ラジオもあった。その後作ったたくさんのラジオなどもほとんど全部残っていた。

 今、一道がそれらを見ると、当時の自分にタイムスリップしたような気持ちになり、同時にその頃の幸福感が体の中から蘇ってくるように感じられた。

 一道はたくさん作ったラジオに順に電源を入れてみた。あの頃と同じくゆっくりと真空管のフィラメントが赤くなった。彼は自分は二十数歳も年を取って変わったにもかかわらず、真空管は全く変わっていないのを見ると時の不思議な流れを感じた。

 ラジオはどれもしっかりと電波を受信した。その変わらない懐かしい音にまた時の経過を忘れさせられた。

 彼は九ボルトの006Pの電池を五個買ってきて、一球式の電池管ラジオに接続してみた。レシーバーを耳に入れてバリコンのダイヤルをゆっくりと回すと放送が耳に入ってきた。当時と同じような温かみのある音質だった。それを聞いているうちに、貧しかったが充実して幸福感に満たされていたあのころの自分に遡っていくような気がした。

 一道は雨が降らなければ少年のころと同じように朝から電池管ラジオを持って自転車で出かけた。そしてあちらこちらと思い出の場所を訪れた。

民代は、一道が「いらない」と言っているのに、出かける時はいつも弁当を作って息子に持たせた。その弁当がまた、中学時代の記憶にあるものと同じように魚ばかりのおかずだった。民代は一道の弁当を作ったり、世話をしたりしていると母親らしく顔が生き生きとしていた。逆に、何もすることがなくなるとうなだれてじっと座っていることが多くなった。

 一道が中学のころ自転車で最も遠く行った所は、太平洋に突き出した高茂岬の突端だった。海抜のかなりある先端の頂きまでは長い急な坂道になっていた。元気盛りの中学生と違って、いまはかなりきついかと思ったが、懐かしさのあまり行ってみた。

 突端に近付くにつれて亜熱帯性植物が多く繁ってくる。半島に打ち寄せる黒潮の暖海流のために一年中、気温が高いからだ。それは高茂岬に限らず、南宇和の海岸一帯は冬季でも温暖な地域だ。一道が小学生の間に雪が降ったのは数回しかない。その時には珍しくて授業をやめ、グランドに出て大はしゃぐぎしたものだった。

 昼前になって師走にもかかわらず、汗ばみながら到着した。地元の人もめったに行かない所なので人影はどこにもない。

「俺はまだ体力は落ちていないぞ」

 息を切らせながら彼は空に向かって言った。

「ああ、あの時と同じだ」

 前方の視界を妨げるような高い立木はない。背後の山肌には冬にもかかわらず木々が青々と茂っている。陸地は半島の先端から急な断崖となって、はるか下方の海面へと落ちている。視線を上げると無辺際の太平洋が視界いっぱいに広がってくる。彼ははるか水平線が弧を描いているのを懐かしそうに目を細めて見た。

 視線を手前に戻してくると右手に周辺では最も大きな島が見える。鹿島だ。その昔、伊達家十万石の宇和島藩の藩主が鹿狩りが楽しめるようにと島に鹿を放ち増殖させた。その鹿が生き残っていて、今では観光資源にしようと餌付けをしている。

その鹿島の周囲や〝沖の磯〟といわれる岩礁の周囲には白い波が立っている。天気は良いが海は荒れ模様だ。はるか沖を通る、かなり大きいと思える船がミニチュアのように見え、しばしば波に飲まれ海中に消えてしまう。海の雄大な存在に対すると船は芥子粒のようだ。それがあまりにも不均衡なのに、さらにあの中に人間がいるのかと思うと一道には虚無感のようなものさえ感じられる。時々、からだが揺れるような強い風が吹きつけてくる。

一道はしばらく岬にただ立っていた。そうすると、この場所に懐かしさから来たが、この自然は思い出のものではないと思え始めた。現在の自分に対峙している偉大な自然なのだと思える。考えれば二十年や三十年、否、百年や二百年の歳月など大自然にとっては変化の節目にもならないだろう。思い出の自然も今の自然も不変なもので、変化すると思っているのは自分の錯覚に過ぎないのではないのか。人間である自分は年を取って変化しているように思っているかもしれないが、実は偉大な自然の時の流れから見れば何も変化していないのではないか。自然も自分も変化しているように見えるのはほんの上辺だけで、根底のところでは不変的なものと結びついているのではないのかと思える。そう思うと懐かしさを超えて今度は、一道自身が自然と一体になってゆくのを感じた。

大阪での日常生活が別世界のことのように思えた。さらに母親や亡くなった父親のことさえもそう思えた。このまま自然の中で死んでいったとしても何の違和感もないように思えた。死んだ後も自分は自然と共に存在するのではないかという気がした。

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