第18話
間もなく師走になろうかという日の深夜、いつものように一道と桜井が高一中二の全国の受信局の確認に熱中している時、電話が鳴った。一道が出てみると故郷に居る母親の民代からだった。
「父さんが急に倒れて危篤になっているので、できたら今すぐに帰ってきておくれ。もし無理なら、明日の朝、一番の乗り物で帰ってきてくれ。一道がいないと不安でどうしていいか分らん。とにかく早く帰ってきてくれ」
母親の切迫した声が電話口から聴こえた。一道の故郷は愛媛県でも南端の、高知県に隣接する南宇和郡(旧)である。今からでは列車も飛行機も当然ない。どうしたものかと思案したが、母親の言葉から感じられる雰囲気からすると、今にも危ないような状態を感じさせた。一道はとても一晩、心配しながら眠らずに大阪で過ごす気にもなれない。それですぐに車で帰ることにした。会社の車を使うと後で神津から小言を言われると思うと嫌になって、駅前のレンタカーを借りることにした。二十四時間営業で、全国どこの営業所に返却してもよかったので、都合がよかった。
一道が急いで準備をして出発したのは午前二時前だった。
彼は大阪に就職して以来、あまり帰郷していない。特に、盆と正月は混雑した人込みの中に出かけて行く気がせずにほとんど帰っていない。数年に一回、平日の仕事の暇なときに帰ったくらいだ。彼があまり帰省しないのを両親は、家族の為に犠牲させたことを恨んでいるからだと思っていたが、実際には彼は人込みが苦手なだけだった。いまだに大阪城にさえ行ったことがないことでもそれが分かる。これから帰るのに、前に帰ったのは何時だったかと考えても思い出せないほど帰郷していなかった。
中国道はよく空いていた。松次郎の家に行く時に降りるインターチェンジも、今までで最も短時間で通過することができた。そして広島県の三次インターチェンジまで三時間少々で着いた。そこから高速道路を出て、山を縫うようにして走っている国道三百七十五号線に入り、呉市へと向う。今までに車で故郷へ帰ったことはなかったが、四国へ渡るフェリーで最も所要時間が短いのは呉~松山間であるのを地図で調べていた。
一道は車の運転が全く苦にならない。夜であってもヘッドライトに照らされて次から次へと変化して映し出される風景はいつまで見ていても飽きることはない。運転していると苦痛どころかいつまでも続けていたい気持ちになる。父親のことが心配ではあったが、楽しみながら運転を続けた。
フェリー乗り場につくと、ここもよく空いていて、長距離トラックが数台待っているのみだった。フェリーは徹夜で運行しており、次の便に直ぐに乗ることが出来た。フェリーが出航する頃には空が白みかけていた。乗客は皆、この船に慣れている様子で、思い思いに座席に横になって仮眠を取っている。狭い売店に行くとうどんが作られていた。数人のドライバーらしき者が無言で食べている。一道が何も言わずに売店の前に立つと大柄な漁師風の男が小さな家庭用の手なべを使ってうどんを作り、カウンターの上に置いた。一道は値札に書いている金額をちょうど払ってどんぶりを持ってデッキへ出た。この間、一言もお互いに言葉を交わさなかった。
師走前の冷たい海風に吹きさらしになりながら熱いうどんを食べた。実に美味いと思った。こんな美味しいうどんを今までに食べたことがあっただろうかとさえ思った。
「やっぱり、四国のうどんは美味いなあ」
実際にそれが四国のうどんかどうかは分からなかったが、一道には早朝の海上で食べるうどんに故郷が重なっていた。
松山に着くと、空ははっきりと明けた。平日だったので通勤渋滞に重ならないかと心配したが、混雑する前に市街地を抜けることが出来た。後は国道五十六号線をひたすら走ればよい。松山から予讃線の終点の宇和島までの国道は、海岸沿いよりも市街地や内陸部を通っている。それに対して宇和島からは見事なリアス式海岸に沿って走っていて、いたる所で眼下に海面の開ける見晴らしのよい展望台のような場所があった。
やがて国道は四国霊場四十八箇所の四十番札所、観自在寺のそばを通る。この辺りを御荘町(旧)、城辺町(旧)というが、南宇和郡ではもっとも賑やかな町だ。
城辺町から国道を逸れて、車一台がやっと通れるくらいの道に沿って急な峰を越えると、鯆越(イルカゴエ)と言う小さな漁村に出る。一道の実家はその狭い港を見下ろす所にあった。鯆越という地名の由来は大時化の日にイルカが海と陸の方角を間違えて峠を飛び越えて城辺町までやってきたという故事からきていた。
彼の家は小さな平屋の借家だった。家の裏には少々の畑と一棟の倉庫があった。この畑と倉庫は借りているわけではなかったが、持ち主が高齢で使うこともなかったので、暗黙の了解で一道の家で使っていた。
一道はこの家で生まれ育った。彼が物心ついた頃には歩いて鯆越の峠を越えて城辺町へ出ることができたが、それ以前は陸地から鯆越に通じる道はまったくなかった。村から出ようと思えばすべて船を使っての生活だった。
一道の先祖は平家の落人であったらしい。壇ノ浦の合戦で敗れ、船で遁走した平家の者達は佐田岬半島を越え、激流の豊後水道を南下して南宇和郡にまで逃げ延びた。そして、陸地から敵に攻められないように海岸の背後が切り立った峰になっている所を捜した。それに適した海岸として鯆越が選ばれ上陸をした。そして逃亡生活を始めたのが村の起こりであるらしい。その後、村の若者同士が結婚し、少しずつ人口が増えていった。そのせいか、村には同じ姓が多くあった。一道の両親も同じ村で育った者同士だった。
父親の亀三は旧満州で終戦を迎えて昭和二十一年に復員してきた。そして、故郷の鯆越で妻の民代と共に暮らした。やがて一道が生まれ、さらに妹、弟と誕生した。
亀三は軍隊で心臓を悪くしながら、さらに無理をして兵役を続けていたので、鯆越に帰って来た時には力仕事などは出来るような状態ではなかった。それでも、家族を養っていかなければならなかったので、手伝いとして漁船に乗っていた。無理がきかないので、給金は普通の船員の半分だった。ただ、網に掛かった魚の中から雑魚などは持って帰れたので、毎日、おかずはほとんど魚になったが、副食に困ることはなかった。そのカルシュームのおかげと言ったらよいのか、一道は背丈は中背だったが、肩幅や頭など骨組みが太かった。頬骨など見るといかにも密度の高い骨でできている様子だった。
母親の民代は城辺町のパン工場で働き、商品として出荷できないくずれたパン切れや食パンをサンドイッチ用に切り取った残りの耳などを大量にもらってきて、ほとんど主食にした。さらに、裏の畑で季節ごとの野菜を作っていたので、子供三人と夫婦の五人家族がどうにか食べることが出来た。
長男の一道は妹や弟の為に高校には行かずに中学を卒業して働いたが、弟妹は彼が経済的に援助したので高校を出ることができた。今では二人とも一道よりも早く結婚して、子供にも恵まれていた。
現在は民代も体調を崩して仕事をやめ、亀三の軍事恩給で二人で細々と生活していた。
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