第13話
杉山の製造した真空管が工場に持ち込まれたのは半年ほども経ってからだった。結局、コンテナの高一用の真空管がほとんど無くなってからだった。米沢はやはりギリギリまで真空管製造のための設備に金を出さなかったのだ。
出来上がった真空管の外形は12Fと同じになっている。種類は両波整流のできる二極管と三極管の二種類だった。ガラスの均一な滑らかさ、不純物の無い透明さ、ベースソケットの堅牢さ、内装物の正確さ、どれをとっても妥協しない職人の意気込みがうかがえる。
「きれいだなあ」
手で感触を楽しみながら一道は感動している。
「ずいぶん特性の良い真空管に仕上がっています」
桜井も真空管試験機を持ってきて種々の測定をしながら感心している。桜井の、真空管やそれを使用している機器に対する知識はほぼ全てのものに通じるようになってきていた。さらに知識だけではなく種々の測定器を購入して、実際に真空管を使った回路の検証もできるようになっていた。
「これなら、低周波にも高周波にも使えます。しかもかなりの高電圧、高電流にも耐えられます。でも、すごいですねぇ、おそらく測定もせずに経験でこれだけのものを作ることができるのですから。もともと理論があって物ができたのではなくて、先に物が存在していてそれを研究して理論が出てきたのですねぇ。杉山さんの真空管を調べるとそれがよく分かります」
さかんに桜井はうなずいている。
一道と桜井は新しい真空管を《望郷》に使うために電源部分を中心に改良を考えた。長期間、ハム音も出ず安定した受信ができ、ある程度の音量も出るようにするためにB電源を三百五十ボルトまで上げ、さらに両波整流ができるように巻き線を二倍にする。その上、チョークコイルも使用する。また、充分な音量が得られるようにする為、検波の後に電圧増幅管を追加する。杉山真空管は、6D6のように増幅率を可変させる機能を持たせるには不向きな特性なので、受信電波の強弱がそのまま音量に影響して急に大きな音になったりするのを避けるために、検波の後に抵抗をつけた十接点のロータリースイッチを取り付けてアッテネーターとする。その代わり、高周波増幅量調整のボリュームは無くするので、ツマミは三個のままで変わらない。そしてスピーカーはこれまでより一回り大きい十六センチフルレンジのものを使う。
一道はこれらの変更を神津に言った。
「そんなことまでしなくていいだろう。見栄えは何も変わらないのに、手間も費用も二倍以上になる。損にはなっても得にはならない」
案の定、神津は不機嫌極まりない顔つきになった。損になるなどと言うが、《望郷》を製作し始めてカミツ工業も短期間に大幅に業績を伸ばしていた。それは会社の建物を見ても分かる。以前の、民家を何軒かつなげたものから、周辺の土地建物をさらに買い進めて今では工場兼事務所の立派な建物になっている。それだけではなく、神津は小さなビルやマンションも買収して不動産業も営み始めていた。すべては《望郷》の常識を超えた利益率と常識はずれの販売増であった。
「今までタダの真空管を好きなだけ使ってボロ儲けしたくせに、この程度の改良ができないようでは話にならない。それだったら俺は手を引く」
一道は近くにあったごみ箱を蹴飛ばした。
「分かった、わかった。言う通りにする。その代わり、もっと製造量を上げてよ。売れる時にどんどん作らなければ同じような商品を作る競争相手が必ず出てきて、儲けが減ってしまうからねえ」
いつものパターンだったが、しぶしぶと神津は《望郷》の改良を認めた。
一道と桜井は杉山真空管仕様の高一の製作に没頭した。二人にとっては最も楽しい時間だった。今回の製作は神津も承知していることなので、工場の工作機械を自由に使える。むしろ優先して作業を進めさせてくれる。シャーシーが出来上がった段階で、シャーシーやスピーカーの取り付け穴の位置などを描いた図面を松次郎にFAXしてキャビネットの製作を頼む。また、ガラス加工の業者にも新しいシャーシーに合うパネルを注文する。大きさは今の物より一回り大きくなる。トランス類はすべて余裕をもたせるため鉄心を大型にして新しく製作する。それ以外の部品は共用できる物が多かったのであまり時間は掛からなかった。
四日ほどしてほぼ完成に近づいた。
「うまく受信するかどうかは、実際に組み立てて鳴らしてみなければ分らないものだ。そこが面白いところでもあるけどなあ」
一道は確実な手さばきで半田付けをしながら言った。彼にとっては一回いっかいの半田付けが楽しい。何回行おうが、まったく同じ半田付けになることはありえない。毎回、微妙に変化する融けた半田が、接続する導線や端子の間に充分に染み込んで、しかも均衡よく少し盛り上がったところでコテを離す。すると、すぐに冷えて、しっかりと固定する。それはまるで、千変万化する人の心をしっかりと捕まえてこちらに結び付けたような満足感に似ていた。一道にとっては半田付けは芸術家が作品を創造するのと同じだった。
「確かにそうですねえ。理論では分らないことが沢山あります。たとえば今回のラジオでは、アンテナコイルと検波コイル、高周波増幅管と検波管などが相互干渉するのは理屈で分りますが、それでは実際の製造において、どれだけ離し、どの程度のシールドをすればよいのかは経験に頼るしかありません。このラジオでは一応、増幅管と検波管の間をできるだけ離した上にアルミ板で遮断していますが、これでいいかどうかは、実際に聴いてみるしかありません。理論なんてこんなものなんですね」
二人は会話を弾ませながらも手際よく作業をすすめていった。
やがて、シャーシー部分は完成する。バリコンを中心に左に整流管、電力増幅管を並べ、右に電圧増幅管、検波管を並べる。外形が全部同じなので幾何学的な美しさが出ている。高周波増幅管は電波干渉を防止するため、後ろに置いたので前からはよく見えない。
配線の間違いを再度確認した後、整流管をはずして左の電源スイッチを回す。聞こえるか聞こえないかくらいの電源トランスのうなりが感じられて、豆球が灯る。そしてゆるやかに真空管のヒーターが輝く。二極管も三極管も既製のST管よりよりはるかにフィラメントの光がよく見える。明るさにばらつきが無いことでも作りの良さが分かる。次に整流管だけを付けて電源を入れ、B電圧を測る。予想通りの値だ。
続いて真空管を全部挿してアンテナとアースをつなぎ、スピーカーにはこれまでの高一の物を代用させて、電源を入れる。何度このような瞬間に出会っても胸が締め付けられるような緊張を感じる。特に今回は杉山真空管の初めてのラジオだけに、体が震えるような期待感とひょっとして駄目かもしれないという不安でいっぱいになる。
ヒーターが赤くなりきる直前から、スピーカーからどこかの電波を受信している音が出てくる。ソロリと同調ダイヤルを回すと、大きな音で放送が飛び込んでくる。
「オーッ、聴こえた!」
「大成功だ!」
二人とも大声で叫んだ。しばらくの間、興奮のあまり、何もせずにほとんど呆然と音を聞いていた。アッテネーターは音量が最大の位置になっていたが、音が割れるほどではなく奥行きのある力強い音を出している。真空管のシールドケースもないのに発信音や雑音も入らない。
一道はずいぶん時間がたってからハッと気がついたようにアッテネーターを真ん中の位置までに絞った。普通のボリュームは音量を下げればさげるほどその抵抗体の弊害が大きくなり、音質が落ちて音がやせてしまう。それに比べて《望郷》のアッテネーターは固定抵抗しか信号が通過しないから全くと言っていいほど音質が変化しなかった。小音量でも豊かな響きがあった。
「やはり、普通のボリュームにしなくてよかった。ボリュームほど音質を悪くするものはない。それにすぐにガリオームになる。中学のころからガリガリ、バリバリと大きな雑音の出るボリュームには悩まされた」
一道はアッテネーターをカチカチいわせながら自慢そうだった。
数日して松次郎からキャビネットが届いた。これまでのもの以上
に磨きがかかった完成度の高いものだった。
「すばらしいなあ。いい香りだ。どうして松次郎さんはあの年で、こんな芸術作品のようなものが造れるんだろう?このまま、部屋に飾って置いてもいいくらいだ」
「爺ちゃんは、年は取っていますが、その時々の時代に対するセンスは驚くほど鋭いものを持っています。そのセンスは、他のことにはまったく働かないのですが、木工製作には見事に生かされるのです。このキャビネットなんかは、現代風のセンスをもって伝統的な家具の深さのようなものを出しています。おそらく、飽きのこないラジオになると思います」
「桜井君は、いつもいい事を言うなあ。難しいことは分らんが・・・早速、シャーシーとスピーカーを取り付けてみよう」
二人はウキウキしながら作業を進めた。最初にすでに納品されていたガラスパネルをシャーシーの前面に固定する。それからキャビネットの中へゆっくりと入れる。取り付け位置は寸分たがわず加工されていたので、すぐに完了する。発注していた十六センチのスピカーも来ていたので取り付ける。
「さあ、電源を入れるぞ!」
一道が挌技の試合でもするような様子でスイッチを入れる。パイロットランプが灯りヒーターが明るくなるにつれて、ゆっくりと豊かなアナウンサーの声が響いてくる。
「ああ、いい音だ。十六センチのスピーカーがキャビネットとよく合っている」
アナウンサーが声を発するのに、いかに聴衆に快く響くように努力しているかが判るような息遣いまでも伝わってくる。
「ほんとうに、聴きやすい、いい音がしますねぇ。まるでキャビネットが楽器のように響きます」
整流以外、オール三極管の《望郷》から出てくる音はスタジオの空気を電波を介してそのままスピーカーから注ぎ込んでいるようだった。
「こうして聴くと、AM放送というのはFM放送より、聴きやすいですねえ。もちろん周波数や歪などの特性ははるかに劣りますが、FMの変調方式の優位さが、実際には実用的なFM受信機の製造に伴う複雑さが音質劣化につながり、結果的に帳消しにされて高一の方が単純なだけ、音源を身近に感じることができるのだと思います。なにより、FM電波は周波数が高く直線性が強いですから近くの放送局しか聞こえません。AM電波は夜間など電離層伝播によって驚くほど遠方の放送局も入ることがあります。AMの方が夢があって楽しい電波です」
桜井は杉山真空管のラジオの音が非常に気に入った様子で饒舌になる。
「うーん、確かにそうだ。論より証拠だ。この音とFM放送なり、音質がよいといわれるシステムコンポとを聴き比べれば直ぐ判る。この杉山真空管の音は何時までも聴き続けていたい。聴けば聴くほど気が晴れてくる。ところがFMやこのごろのコンポの音は初めだけいい音に聞えてもすぐにうるさくなる。苦痛になる。どちらがよい音かはっきりしている」
一道も舌がよく回りだす。
「僕も三津田さんと付き合いをさせてもらうようになって、真空管の音を聴いているうちに音質に対する考え方が少しずつ明確になってきました。これは僕の研究テーマに直接つながってくるものです」
「ホォー、どういう事だい?」
「どうやら、音質が優れているとか劣っているとかいうのは、メーカーの宣伝文句や測定数値、また、マスコミの表現や雰囲気によって洗脳された判断によって出てきているのではないかということです。たとえば、この高一の検波管の出力を高額高級と思われているオーディオシステムのAUXに入力して音を出したならば、どのように音質調整しようが、とても聞くに堪えられない音がするものです。このことについて、どのような理屈をつけて弁解しようが結論は、そのオーディオシステムはこの高一よりはるかに再生能力が低く、音質が悪いのです。なにより、この高一の音は三十年以上も前の音でしょう。この三十年間に販売されたオーディオ機器製品の宣伝文句を読めば、新製品はすべて、過去の製品の音質を越えた優れたものになっているはずですから、驚異的な高音質になっていなければならないのに、現実は杉山真空管の高一を越えられないどころか、足元にも及ばない低いレベルの音質なのです。これがほとんどの人が宣伝文句と雰囲気にごまかされている証拠です。実におもしろいですねえ。真実の客観的な音質評価の理論も基準もまったく構築されていないということです」
「桜井君の話を聞いていたら嬉しくなったよ。ほんとに、その通りだ」
一道と桜井は高一を前にいつまでもその音に聞き惚れていた。
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