第11話
《望郷》の製造が順調に進むようになってからも、米沢は次々に増産の目標を上げてくるので、寝る暇もないほど忙しい日々が続いていた。一応、日曜日は工場は休業だが、一道は翌日からの仕事の段取りをするのに一日中、動かなければならなかった。それで、松次郎の所へも行く時間がなくなっていた。
十月も終り近くになった日曜に、どうにか仕事の段取りをつけて、朝から桜井と古市に行くことができた。
「すっかり、稲刈りも終わっているな。空気がぜんぜん違う。風が心地よい。緑のない濁った空気の工場辺りと比べれば天国と地獄だ」
古市駅近くから、松次郎の家の方へ緩やかな勾配の田舎道を車を走らせながら一道が深呼吸を何度もしている。窓は開けて入ってくる空気を吸い込む仕草をしている。途中、背の高い杉林があるが、そこを抜けると山すその田園風景が広がる。桜井は風景などには関心が無さそうだか、それでも一道につられて大きな呼吸を一回した。
松次郎の家の近くで車を降りた。そばに新しく大きな工場が建っていた。仕事は休みで人は居ず静かだ。
「この工場でキャビネットを作っています。これだけ広くても製造が間に合わないくらいになっています」
桜井はその後も何度か、祖父の家に遊びに来ているので状況はよく分かっていた。
「ジジイ、ババア、居るか?遊びに来たぜ」
桜井が何時もの調子で大きな声を出すと、松次郎とマサ子が奥から出てきた。
「三津田さん、久しぶりによく来てくれたね。早く中に入ってお茶でも飲んでください」
家の中に入ると、開け放たれた縁側から凛とした風が入り心地よい。
「お金は少しは多くもらえるようになったが、忙しくてしかたがないよ」
苦笑いをしながら松次郎が、一道と前回会ってから以降のことを話した。一道と同じく生活が大きく変わっていた。仕掛け人はまたも米沢だった。
「金儲けができるのだから文句はないだろう」
こう言って米沢は松次郎の気持ちなどは無視して、次々と話を進めていった。村長にも話をつけて、村の発展の為だからと村の土地を安く借り上げ工場を建てた。そして松次郎を工場長に立てて職人を集めさせた。松次郎の知り合いの木工の熟練工だけでは人数が足らなかった。米沢は新聞折込に募集チラシを入れて人を集めた。ところが応募してきた人はほとんどが素人で、松次郎を悩ませていた。必要数は出荷するが納得のいく仕事にはなっていなかった。
「俺の方もおじさんのところと全く同じですよ。ぜんぶ米沢に仕切られて好きなように働かされている。元はと言えば俺が米沢に関わったからいけなかった。すみません」
「いやいや、三津田さんが謝ることはないよ。村の人は現金収入が増えたと言って喜んでくれているし・・・まあまあ、今日は仕事のことも忘れてゆっくりしていけよ。そうだ、気晴らしに鱒釣りでもやろうか。昼食は鱒の塩焼きにしよう」
「それだったら、後でおにぎりを握って持っていきますから先に池に行って釣ってください。これも忘れないように」
マサ子が十本ほどの鉄串を持ってきた。松次郎はそれを受け取って外に出ると、裏の方から釣竿を三本持って来た。釣竿といっても竹を根の部分から切り出して乾燥させ、先に釣り糸を付けただけの物だ。
「それじゃ、行こうか」
三人は真空管のコンテナが捨ててある洞穴の方へ上って行った。一道が以前に通った時には獣道のようなものだったが、今は軽トラックが走れるくらいになっている。おそらく何度となく真空管を運び出しているうちに自然と広がったのだろう。
洞穴の手前の池に着いた。水温が低い季節は魚影は見えなかったが、今は湖面をのぞくと多数のハヤが勢いよく逃げてゆく。
「うまくハヤをかわせば釣れる」
松次郎が釣竿を渡しながら言った。一道は嬉しくなった。釣りをするなどというのは何年ぶりか、いや何十年ぶりか思い出せない。故郷で中学を卒業するまではよく近くの海に釣りに出かけた。父親が心臓を悪くするまでは幼い頃もしばしば釣りに連れて行ってもらった。遊びといえば釣りだった。就職で大阪に出てきてからは釣りをした記憶がない。
竿を握ると釣りの懐かしい感覚が蘇る。餌は持ってきていなかったのでどうするのかと思っていると、松次郎は近くの倒木の腐った部分を石で叩いて砕いた。
「適当にこの虫を取って針につけなよ」
スポンジのようになった木片を見ると、一センチほどの白い幼虫がたくさん動いていた。一道はそれをつまんで針に刺し、浮きもなく小さな鉛玉しかついていない糸を池の中へゆっくりと落とした。すると人影に花火が散るように逃げたハヤが瞬時に多数寄ってきてアッという間に餌を食う。竿にブルブルと振動が伝わる。引き上げるとよく肥えたハヤが元気よく跳ねながら釣れた。
「ハヤをよけながら餌を底まで落とすんです。そして鱒が回遊してきた時にゆっくりと引き上げます」
桜井が実演しながら説明する。確かにハヤは、餌が水面に落ちた瞬間にいや、よく見ると水面に着く前の影の動きにさえ反応して飛びついて来るが、ある深さに沈むと興味をなくしたように追いかけなくなる。
「アッ、鱒が回って来ました。見ていてください。こちらに近づいた時に餌をスッと引き上げます・・・」
数匹の鱒が釣り糸に近づいた時、桜井は竿を軽く上下させた。すると先頭の鱒が目の前に来た子虫を何の疑いもなく飲み込んだ。すかさず、竿を引くと元気の良い二十センチほどの鱒が跳ねながら上がってきた。一道も同じ要領でやると面白いように釣れる。少しの間に三人でかなりの数を釣り上げた。
マサ子がおにぎりと温かい味噌汁を持って来てくれた。火をたき、鉄串に鱒を刺し塩を振りかけて焼いた。こんなに美味しい食事があるものかと、一道は感嘆の声をあげた。
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