第5話
日曜の早朝、二人は連れ立って出かけた。桜井の祖父母の住んでいる所は電車を乗り継いで二時間弱かかった。山が迫っている駅で、『古市駅』と書いている。無人の駅で、周辺には人家もまばらにしかない。
「僕の実家はこの駅では降りずに、さらに二時間半くらい乗って行った、城崎です。志賀直哉と温泉で有名な所です。そこで両親ともに教員をしています。自宅から大学へはとても通学できないので、アパートを借りているのです」
「やはり、そうか。桜井君を見ているといかにも頭が良さそうだから、おそらく親が賢いのだろうと思っていたよ」
一道は少し嬉しそうに桜井の顔を見上げた。
「爺ちゃん婆ちゃんの家はこの駅から北西の方角へ歩いて行きます。距離はかなりあります」
桜井は飄々と歩き始めた。一道はいっしょに歩きながら快い気分に満たされた。都会の路地裏で生活していると寒さ、暑さ以外には季節感が無くなる。特に自然の風景の変化とは縁遠くなってしまう。それは豊かな自然の中で生まれ育った一道にとっては魂が抜けるような思いのするものだった。しかし、そんな生活が長く続いているうちにいつの間にか、魂がないのに慣れてしまっていた。
「ああ、いい気分だ!人間の魂が体に帰って来たみたいだ」
一道は大きく手を広げ、空を見上げた。澄んだ青色を背景に白い雲の塊が所々に浮かんでいる。桜の季節にはまだ早いが、山肌は寂しい冬枯れの茶色から無数の芽吹きの兆しを予感させるぼんやりと薄緑に霞んだような色合いを見せている。日差しは暖かい。歩いていると体が汗ばむほどだ。一道は、ずいぶん昔に忘れ去っていた幸せな気分が蘇ってくるような気持ちがした。
少々きつい上り坂を鬱蒼とした杉林の中を通って山あいの方へ行くと二十軒ほどの農家が背の高い木々に覆いかぶされるようにして建っているのが見えてきた。
「あの家並みのいちばん奥が爺ちゃんの家です」
点々と建っている家並みを通り過ぎ、さらに上って行って、村のはずれの家の前まで来た。古い大きな二階建ての家だ。桜井はさっさと玄関に近づき、戸を開けて中に入った。
「ジジイ、ババア、居るか?誠だけど」
一道は言葉遣いに驚いて桜井の顔を見たが、彼は平気な顔をしている。
土間の奥の方から老婦人が出てきた。
「アレッ!マーちゃんじゃないか。よく来たねぇ。お爺ちゃん、マーちゃんがお友達と一緒に来てくれたよ」
奥から今度は頑丈な体つきをした老人が出てきた。
「オーッ、マーちゃん、よく来たな。いつも急に来るから食べるものも何も準備できないじゃないか。とにかく、友達も一緒に上にあがりよ」
老人は長い白い眉毛を嬉しそうに動かしている。
「シジイ、今日は同じアパートで付き合ってもらっている三津田さんが真空管を見たいというので一緒に来たんだよ」
「そうかそうか。ワシは松次郎といいます。これが家内のマサ子です。孫が世話になって有難うございます。真空管ならいくらでも捨ててあるので持って帰りなさい」
「三津田です。よろしくお願いします」
初対面の人と会うと必ず脇の下に冷や汗をかくのが一道の体質だったが、桜井の祖父母に対してはそんな緊張感が感じられないのは不思議だった。
「とにかく三津田さんを真空管のある所に案内して来る。帰りにまた寄る」
桜井は三津田を促して玄関を出るとさらに山の方へ歩き出した。
「桜井君、お爺さん、お婆さんのことをジジイ、ババアと呼ぶのは悪いのじゃないのか」
「そうなんですけど、言葉を覚え始めた時、ジジイ、ババアと記憶してしまい、それが今も続いていて、お互いになんの違和感もないんです。ただ、他人に対しては爺ちゃん、婆ちゃんと言いますが」
「ホー・・・」
一道は何と返事をしたらよいか分からなくなり、適当にうなづいた。
しばらく行くと高く伸びた木々に囲まれた池に出た。日光は周囲の枝葉に遮られて、池の中央あたりにしか射していない。
「何か釣れるんだろうか」
一道が覗き込むと澄み切った水中には動く物は見えなかった。
「ええ、フナやマスがよく釣れます。今はまだ水温が低いので出て来ていませんが・・・この池も山も先祖代々受け継いでいる爺ちゃんの土地なんです」
池に沿った道を奥まで行くと、水源と思える水の流れが注いでいる所に出た。その流れは池から百メートルほど離れた大きな洞穴の中から流れ出していた。洞穴の前まで行って見ると、トラックの荷台に積むようなコンテナが三つ、洞穴に押し込まれるようにして放置されていた。見るからに年数を感じさせ、廃棄物というよりもすでに周囲の自然と融合している感があった。
「三津田さん、これです。真空管です」
少し汗ばんだ額に手を当てながら桜井がうわずった声を出した。
「これッ?コンテナの中・・・」
一道も興奮気味になって、手前のコンテナに近づいた。そして、ドアのさび付いた金具を急いで外して開けた。
「ウォーッ!」
彼は小鳥のさえずりしか聞こえない周囲に響き渡るような声を上げた。コンテナの中には元箱入りの真空管が床から天井まで隙間もなくぎっしりと詰まっている。一道はしばらくの間、その前で呆然と立ち尽くした。
「ほんとうに真空管だったでしょう」
桜井の声に一道は我に返った。
「まさしく真空管だ。まるで夢の中の出来事みたいだ」
「そんなに喜んでもらえるとここまで案内して来た甲斐があります。あとの二つも見てください」
奥の方の二つのコンテナを開けて見ると、同じように隙間も無いほど元箱入りの真空管が詰め込まれている。一道はその中から適当に二十本ほど抜き出して調べた。古いラジオやアンプのST管が多い。どのコンテナも整理されずに無造作に真空管が詰め込まれている。一番奥のコンテナの側面にはペンキがほとんど消えて読みずらかったが、よく見ると「○○の真空管」と家電メーカーの宣伝が書かれていた。
「全部、未使用の新品だ。デッド・ストックだ。桜井君、これはすごいことだぜ」
「そんなに素晴らしいものですか。でも、ここに捨てられて、二十年以上は経っていますよ。僕が物心ついて、爺ちゃん、婆ちゃんの家に遊びに来た時にはすでにありましたから」
桜井は楽しそうに言った。まだ、肌寒いくらいの季節だったが、一道は体の芯から熱くなってくるのが感じられた。
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