第3話
三津田一道は故郷の愛媛県の中学を卒業して集団就職で大阪の今の工場にやって来た。場所は京阪電車京都線の大阪から京都方向へ三分の一ほど行った古川橋駅から線路沿いに十五分ほど歩いた所だった。駅名の通り、近くに古川というどぶ川が流れていた。夏になるとメタンのあぶくが発生して、どぶ臭いにおいが当たり一面に漂った。
その頃は駅近辺の家並みが終わるとその後はレンコン栽培の池が遠くまで広がっていた。
会社の名前は『カミツ工業』といって、社長の神津の名前をつけた零細家内工業だった。同じ中学からいっしょに三名が就職したが、彼以外の者は給料など条件の悪さに辞めてしまった。職場環境は今でも劣悪だが、就職した頃はさらにひどいものだった。
工場は線路際に建てられた民家の一階を改造して工作機械を三台据え付けていた。機械に向かって座ると作業する者同士の背中が触れ合うくらい余裕が無い。家の周囲は隣家が迫っていて、小さな窓はあるが、日はまったく入ってこない。昼間でも電燈を点けなければ作業ができなかった。工場全体がすすけたような状態のうえに、すえくさい臭いがいつもしていた。
工場は社長一家の自宅兼用で二階を生活の場にしていた。子供が長女と長男の二人がいて家族だけでも手狭なのに、そのなかの、六畳一間が従業員の寝泊りする部屋に当てられていた。一道たち三人が来た時、従業員は誰も居ず、社長と妻の里江の二人で仕事をやっていた。一道は仕事をし始めて従業員が誰も居ない理由が分かった。居ないのではなく皆、辞めていったのだった。
同窓の三人は狭い部屋で寝泊りしなければならなかった。食事は三食、出してくれるが、粗食としか言いようのないものだった。それなのに食事代、部屋代を給料から差し引かれた。なにより、給料が相場より安かった。そのうえ、神津社長夫婦は二人とも痩せぎすで、いつも従業員がサボらないように監視していた。また、就業時間中もそれ以外の時もしばしば、わずかなことにでも口うるさく指図をしてきた。四六時中いっしょにいると日を追うごとに息が詰まりそうになってきた。
これでは、都会の若者が就職する訳がない。現実をよく知らない田舎の中学校に求人票を送る意味も分かる。それで、しばらく勤めていると、いかに条件が悪いかが分かり、辞めてしまう。いっしょに来た二人も都会の生活に慣れると同時に辞めた。
一道が辞めなかった理由は何か。心臓の悪い父親が、彼が集団就職で出発する時に言った言葉だった。
「どんな職場でもよい。十年間、辛抱しろ。そうすれば仕事が分かる。分かったうえで変わるなら変われ。そうしないと結局、何も手につかずに終わってしまう」
一道は父の言葉を守り通した。それどころか二倍の年月を超えるまでになった。今でも労働条件は悪いが、アパートを借りて自炊できるくらいの給料にはなったので、逆に転職するのが面倒くさくなっていた。
仕事はトランスメーカーの下請けのさらに下請けの仕事であった。あまり大きくないトランスの特注品を作るのが主だった。規格品を大量に製造するのは当然、大手がやる。カミツ工業で製造するのは一個々々手作りでやらなければならないものばかりだった。コアの材質、形、大きさもバラバラだ。銅線の太さ、捲線回数も千差万別だった。コアは注文に合わせた形のものが別の下請け会社で製造されて持ち込まれるから、彼の工場ではコアを差し込むための巻芯になる合成樹脂の筒を作り、それに銅線を巻き付けてトランスを完成させる作業だった。手間がかかる割にはあまり儲けはなかった。
一道が就職した頃は、単価が安く、近隣から騒音の苦情がくる程、遅くまで仕事をしても利益はわずかだった。ひたすら埃まみれ油まみれになりながら数をこなすしかなかった。しかし、十年ほど前から様子が変わった。単価がどんどんと上がり始めた。それまでは頭を下げて薄利な仕事をもらっていたのが、今度は利益率の良い仕事を選んでやれるようになった。世の中全体の景気が良くなり、人々の生活も贅沢になって、個性的な商品がよく売れるようになった影響だった。やがて、特殊で高価なトランスの仕事がいくらでも入ってくるようになった。人手を確保して、製品を作れば作るほどおもしろいように儲けることができた。
カミツ工業も時代の流れに乗って発展した。社長の神津は自宅兼工場の建物に隣接している民家を次々と買い増し、ほぼ五倍位の広さにした。敷地は広くなったが、民家の建物はそのままで、それぞれの家の一階の壁をぶち抜いて床を繋げ、工作機械を据え付けた。日は入らず、風通しも悪く、湿っぽく、すえ臭いことに変わりはなかった。社名も家内工業から『株式会社カミツ工業』になった。そして、社長の自宅は線路からずいぶん離れて静かな場所に立派な三階建の鉄筋コンクリートの家を新築した。四人家族にはふさわしくないほど大きかった。
従業員も順次増やしてゆき、現在は常時二十名弱はいる。しかし劣悪な職場環境に辞めていく者が多く、入れ替わりが激しいのは二十年来、変わらなかった。そのなかで最も古参の社員は一道であった。
社長はなんとか社員を確保するために新入社員の給料を上げた。ある時などは新入社員の方が二十年近く働いている一道より給料が高いことがあった。しかも新入社員には、金額を一道には知られないようにと口止めしていた。何かの機会に一道がこのことを知った時は幅の広い顔に怒りを露にして社長に詰め寄った。次の給料から申し訳程度に新入社員よりも多くなった。
最近もいくらでも仕事が入ってきていた。残業さえすれば会社も社員も収入は上がったが、地域が住宅地のため遅くまで機械を動かせなかった。たいした音も振動もしないのだが、町内会の意識が高まり、会社の自由には残業ができなくなっていた。
断線した高一の出力トランスを持ち込んだ一道はわざとゆっくりと仕事をして、残業時間を延ばした。
「それじゃあ、戸締り、電源スイッチなど、あとをよろしく」
社長の神津が一道に鍵を渡してから帰って行った。いつも、いちばん遅くなる者が工場の施錠など後始末をして出る。そして鍵は帰りがけに社長の自宅のポストに入れる事になっていた。
彼は一人になるとポケットから高一の出力トランスを取り出した。小さな割にはしっかりと重みがある。鉄心を枠締めしている金具をゆっくりと広げて外す。鉄心には膨らむ程ではないが、少々錆びが出ている。鉄心を二、三枚抜くと残りは簡単に捲き芯から外れる。単純なE型コアだ。彼はゆっくりと楽しむように巻き芯を巻き線機に取り付けた。電動ではなく手動にし、逆回転可能にして捲き線をゆっくりと引いて別のボビンに捲き取る。始めは二次用の捲き線になっていて、最後まで断線もなく捲き取れる。OPTトランスの二次捲き線は一次より太く、断線することはまずない。巻き線数を見ると八十回ほどだった。
次に一次巻き線を外す。かなり細い銅線になっている。あまり勢いよく巻き取ると切れてしまいそうなのでゆっくりと引きながらほどいていく。中ほどまで進んだ時、プッツリと途切れた。断線箇所だ。一次巻き線も細いとはいえ、断線するのはめずらしい。6ZP1程度の出力管の電流で焼け切れることはまずない。また、絶縁処理された銅線なので劣化もそれほどない。おそらく製造段階でキズが入っていたのだろう。残りの銅線もすべて巻き取った。巻き数は三千回ほどだった。巻き芯を見ると、紙製で再利用できそうになかった。
続いて復元しようとしたが、再利用するのは鉄心だけにした。彼は鉄心を一枚一枚、ていねいに磨いて錆びを落とした。それから鉄心の大きさに合わせて合成樹脂の捲き芯を作った。銅線は、コイル部と鉄心との間にかなり隙間があったことを考えて、一、二次巻き線共に少し太いものを巻くことにした。
彼は時の経つのも忘れて熱中した。完成したのは深夜だった。
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