第2話
高一を手に入れてから、一道の生活と精神状態が大きく変わった。今まで彼には趣味といえるようなものはなかった。仕事以外に時間を楽しくつぶすものを持ち合わせていなかった。だから休みの日や仕事から帰ってからはただ、ボーッとテレビでも見ながら過ごすだだった。ところが高一を家に持ち込んでからは百八十度変わった。時間があれば高一を触っている。また、休みの日には電気街に行き、真空管に関連したこまごました物を買って来ては様々な物を組み立てた。
精神的には常時、被害妄想的緊張感と離人症的空虚感に苦しめ続けられていたのが、高一の音を聴いたり、触っている間は心が満たされ、苦しみを忘れさせられた。高一によって生甲斐ができ、少年時代の生き生きとした心になった。
彼は暇さえあれば高一を眺め、聴き、磨き、修繕改造した。高一は真空管ラジオの中では音が良い。スーパー・ヘテロダインと違って、周波数変換をしないから、放送局のスタジオの音がそのまま聞こえてくるような気がした。12Fで整流し、6D6で高周波増幅、6C6で検波して直接、6ZP1で電力増幅をする。電圧増幅の球もなく、音量調節が必要なほど大きな音は出ないので、高周波増幅の感度の調節はできるが、入力ボリュームなどは付いていない。入り口から出口まで単純で音質を損ねる余分な回路がない。
高一から流れるAM放送の音は一道にとっては、自然のなかで幸福感に満たされながら生活していた少年時代に、自分を育んでくれた暖かい音だった。その音に接すると二十年以上も前の自分自身に還ってゆくような気分になった。鮭が生まれ育った川を遡上する感覚もこんなものかもしれないと思った。
AMの音には人の心を原風景に引き戻してくれる雰囲気がある。この雰囲気こそ機器の特性の数値以上に音の良し悪しを決める基本要素ではないのか。わざわざ、真空管のAMラジオの前にマイクを置いて録音したジャズのレコードがあるのもうなずける。
彼は高一の木製のキャビネットを注意深く丁寧に磨き、修復した。剥がれかけたりしている所にはボンドを染み込ませて、それ以上ささくれないように固めた。そして、何度もニスを重ね塗りした。さらに木製のツマミにまでこまめに塗った。また、電気街から買ってきた小物で、劣化した部品を取り替えた。コンデンサーはたいて容量抜けしていた。平滑回路用のブロックコンデンサーと抵抗を新品にすると電源ハムがほとんど無くなった。さらに、6ZP1の第二グリッドをプレートに直結して、三極管の働きにした。これで、音量は小さくなるが、内部抵抗が少なくなって音が優しくなり、ますます彼の好きな音になった。
彼のアパートは狭い路地の行き止まりに建っている。木造二階建てで二十部屋ほどある。彼の部屋は一階の最も奥だった。都市部の開発が進んで、マンションやビルが次々と建設されるなかで、アパートの周辺だけは開発には無関心というようにいつまでも変化がなかった。古い木造の文化住宅や長屋、それに鉄くずや古紙回収の大きな工場が長年風雨さらされた姿を見せていた。その大きな原因は電車の線路沿いだったことにある。早朝、深夜を問わず、列車が走る。通過する度に大きな音と振動が伝わってくる。一日のうち、列車が走らない時間帯は日付が変わってからの四時間ほどしかない。彼は今でこそ慣れたが、初めは音と振動で不眠状態が続き、非常に苦しい思いをした経験がある。
部屋のすぐそばにある裏口から彼は外に出た。隣の建物の壁が迫っているが、人一人が通れる位の幅はある。自分の部屋の窓の下まで行き、足元を調べた。アパートと隣の建物の土台はもちろんコンクリートだが、境界の部分のわずかな隙間からは土が見えた。
「これだけあれば十分だ」
彼はボソボソ言うと、七十センチほどの細目の鉄棒を持ってきて土の中に打ち込んだ。土中は軟らかいとみえてスムーズに進み、頭を少し残した所まで入れた。次にアース用のコードを持ってきて半田づけした。それから次に、窓枠の上部にアンテナ線を這わした。両方とも窓の隙間から室内に引き込み、高一に接続した。そうすると感度、音質ともに格段によくなった。嬉しくなって聞き続けていると、プッツリと音が途切れた。パイロットランプや真空管には灯が点いているのにスピーカーからは音がまったくしなかった。原因を調べると出力トランスの一次巻き線の断線であるのが分かった。彼は明日、工場へ持ち込んで修理しようと思った。
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