真空の灯火(ともしび)

大和田光也

第1話

                          

 振り向くと、そこには何時も自分に危害を加えようとしている人間がいる。その存在にはずいぶん前から気づいている。一人や二人ではない、千変万化して多種多様な人間がその働きをする。だから四六時中、気の休まる時がない。今も用心深く背後から付けて来ている・・・

 三津田一道は今日も、何時もの強迫観念に悩まされながら通勤道を足早に歩いた。最近、通勤経路を変えたばかりの道である。経路といっても乗り物に乗って通っているわけではない。自宅のアパートから会社の工場までは徒歩で十分弱だったが、跡を付けてくる人間が増えてくると、危険を感じて何度も経路を変えた。今は最も近道の、線路に沿った狭い道を通っている。この道の幅はどうにか人がすれ違うことができる程なので、一度に多人数が襲ってくることはないと思える。

・・・何度、道を変えても同じことだ。すぐに嗅ぎつけてやって来る

 彼はうつむき加減になりながら時々、後ろに鋭い視線を向けた。

 人と自転車しか通れない踏切の所まで行った時、線路に立ち入らないようにするためのフェンスの傍に木の箱のようなものが捨ててあるのに気が付いた。

・・・アッ、あれは真空管ラジオではないのか!

 一瞬、ドキッとしたが、直ぐに目を逸らせて何もなかったように歩いた。

 工場に着いてから何時ものように仕事をするが、彼の心はあの真空管ラジオでいっぱいになっていた。ラジオの形が頭の中をぐるぐると回って消えることがない。そのおかげで、何時もなら専務である社長の奥さんが、彼のトイレに行く回数を数えていることが気になって仕方がなかったのだが、今日は全く気にならなかった。

 非常に長くもあり、逆に短くも感じられた就業時間が終わった。彼は何かに憑かれたように工場を出て踏切の所まで行く。途中、ラジオが無くなってはいないかという不安で胸が締め付けられるが、朝と同じ状態であるのを確認すると今度は胸が高鳴った。

・・・いや、待て。明るいところで手を出すのはまずい。奴らに見られている可能性がある。今は辛抱して暗くなるまで待とう

 彼はチラッとラジオを見ただけで何もなかったかのようにアパートの方へ歩いた。

 暗くなるのを待った。さらに深夜になってから、窓につけているカーテンをはずして風呂敷代わりに持って、そっとアパートを出た。周囲の人影に細心の注意を払いながら踏み切りに近づいた。真空管ラジオは一見、不要ごみのように転がっている。彼は人目がないのを確認すると、すばやくラジオをカーテンで包み脇の下にかかえた。そして心臓が踊るのを感じながらアパートに持って帰った。部屋に入ると直ぐに世界最高の宝物でも扱うようにラジオを取り出し、机の上に置いた。奥行きはそれほどない。B4の横幅を少し伸ばしたほどの大きさだ。

「オーッ、高一だ!」

 裏蓋を外して中を覗き込んだ彼は歓喜の押し殺した声を上げた。高一とは高周波一段増幅の四球ラジオのことだ。戦前戦後のしばらくの間、製造されている。

「あの頃、家にあった物とほとんど同じだ。違うところは、これはダイナミックスピーカーになっているが、あの時の物はマグネチックスピーカーだった。少しだけ新しいのかもしれない」

 彼の体に故郷での、小学校高学年から中学生の頃の感覚がよみがえってきた。経済的に苦しい生活のなか、ラジオは家族の唯一の楽しみだった。子供のころ、一道は四角い木の箱から音が出るラジオに限りない興味を感じた。それで故障して捨てているラジオを何台も拾ってきて分解したり組み立てたりした。捨てられたラジオは彼の何よりも面白い遊び道具になった。年齢的にちょうど科学的なことに興味を持つころで、何日も昼夜かまわず夢中になった。その後、就職のため大阪に出て来るまで、多くの真空管ラジオや電蓄を拾ってきては様々に作り変えたりして楽しんだ。

 今、高一ラジオを目の前にするとその頃の幸福感に時を遡って満たされるような気分になった。

「音は出るのだろうか?」

 木製のキャビネットの汚れを布できれいに落としてから、緊張した面持ちで一道は電源プラグをコンセントに差し込んだ。そして直ぐに抜いた。何も異常がなければ少しずつ、通電する時間を長くした。こうすることによって、もし配線間違いや、ショートなどしていた時のダメージを最小限に食い止めることができた。

 特に異常がないので、差し込んだままにしたが、パイロットランプも点かなければ、真空管も点かない。当然、何の音も出ない。電源スイッチが入っていないのではと、三つある木製のダイヤルの左のものを回してみる。左右どちらにでも回り続け、切る入るを繰り返すスイッチだ。何の反応もない。

「つぶれていて当たり前だ。古いものだから・・・」

彼は楽しそうに呟く。通電しない場合の始めの検査として当然、ヒューズを見る。それは電源トランスの頭にあるが、見るとヒューズ管がうまく刺さっていない。彼はヒューズが切れていないことを確認して、しっかりと止めた。それからまた、電源ソケットの出し入れをする。今度はコンセントに差し込んだ時には、電源トランスの小さな唸り音がするし、六・三ボルトのパイロットランプが暖かい光を放つ。煙が出たり、異音がしたりというような異常もない。

 ソケットを差し込んだままにする。シールドカバーをしていない真空管の12Fと6ZP1のヒーターがほんのりと赤みを帯びた光を出す。やがてスピーカーからゆっくりとハム音が出てくる。さらに、アンテナ端子に手を触れさせて、中央のバリコンのつまみをそろりと回すとハム音に混じってどこかの放送が聞こえてきた。

「なんと、ヒューズを直しただけで聞こえた。こんな音を聞くのは何十年ぶりだろうか。なつかしいなあ・・・」

 彼の目に涙がにじんだ。彼は異常なほどの感動を覚えた。

 いい音でもない。ハイファイ音でもない。電源ハムや雑音に混じって聞こえる放送はむしろ音質的には非常に悪い。しかし、一道にとってはそれがどんなに高価なオーディオ装置から聞こえる音よりも心地よく響く。一道の聴覚が高1ラジオの音に接して心は急激に時をさかのぼっていった。音が心の底に届き、少年の心を蘇生させてくれた。長らく帰ったことのなかった故郷の風景を目の当たりにして呼び起こされる感動だった。 

 彼は大阪に出て来て以来、忘れてしまっていた幸福な少年時代の感覚に浸った。

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