初恋症

冠つらら

初恋症

 大学って普通は高校よりも長い時間を過ごせるはずなのに、高校より体感短いなんて思わなかった。

 しかもさ、高校の時と比べてみんな講義とかもサボりまくったりするじゃん? 二日酔いだのなんだの言って、寝坊してふざけた顔して昼頃学食に来るの。

 この前見学に来てた高校生を見たけどさ、全然、もう圧倒的に向こうの方が立派な人間に見えたよね。

 三年前は私も同じだったはずなんだけどなんて、思ってる時点でもう私も周りの怠け者とそう変わらないのかも。

 今日だってさ、あと五分で講義が始まるのにご近所さんがいない。いつも二つ前の列に座ってる美容系男子。結構ちゃんと出席してるから今日も期待しちゃったんだけど。

 でもそういえば巳緒みほがあいつと昨日夜遅くまで飲んでたとか言ってたっけ。巳緒も今日はもう大学来る気ないみたいだし、あの美容系男子も所詮周りのサボり魔と同じってことか。

 別にあいつらがどんなキャンパスライフを送ろうと自由だし、私には関係ないけどさ。なんかこうも毎日真面目にペンを握ってると複雑な気持ちになるのは何だろ。いや勉強したくて大学来たんだし、やりたいことやってるんだからって思うんだけどさ。なんかね、なんだろうね。このモヤモヤ感は。


 ご近所さんもいないし、前方を遮る頭も少ない。だから今日は前の方に座ってる人のことがやたらよく見える。あの人たちは私のご近所さんとは違ってちゃんと毎回講義に出席しているし、先生への質問だって積極的にしてる。

 本当は私もあの人たちの近くにいた方がいいんだろうけど。でも、背後に誰かいると落ち着かないからそっちに行くつもりはないんだよね。

 結局は自分が自分で決めた席に座ってるだけ。そこで出来た縁に文句なんて言うなって、はい、自分に言い聞かせますよ。


 こめかみに手をつけたまま机に力を押し付けてモヤモヤを鎮める。

 鎮まれー。鎮まれ私の邪念。

 そんなことをして精神部屋に入り込もうとしてたらさ、いつの間にか同じ列の端っこに座った女子たちがざわめいてるの。

 え? もしかして先生がまた斬新な髪型開発した?

 少しの期待を込めて前方を見るとね、たった今入ってきた男子学生が二列目に座ったところだったの。背が高いんだけどひょろひょろじゃなくて、いい感じに筋肉つけてるのが分かるスタイルの男。

 さっきの女子たちは小声で今日もかっこいいねなんて可愛いこと言ってるの。

 だから私も気になっちゃって見ちゃうんだよね。

 だけどさ、隣の友だちに遅れてごめんとか言ってるその人はさ、確かに青春をそのまま標本にしたような爽やかなオーラを纏っててつい色めき立つのも分かるんだけど、まさに彼こそが青春とまでは言い難いんだよね。

 だってね、いっつもマスクを付けてるんだもん。春夏秋冬関係なく。気温も天候もお構いなく。朝だろうと夜だろうとマスクを付けてる。


 前に巳緒とどうしてだろうねって議論したことがあった。講義には真面目になれないくせに巳緒はそういう話には前のめりで。じゃあ卒論はこれをテーマにすればいいんじゃないって思っちゃったくらい白熱したことを覚えてる。

 そうしたら巳緒がさ、その次の日に特ダネを持ってきてくれたんだ。

 「詩奈しいな、大変! 音一くんめっちゃイケメンなんだけど!」って。

 興奮した巳緒曰く、偶然汗を拭くときにマスクを外した彼の素顔を見かけたんだってさ。しかも人通りが少ないところで外したものだから、さらにミステリアスに見えて堪らなかったとか余計な感想まで添えて。

 それ以来巳緒は彼のこと観察してたみたいでさ、彼女なりの結論を教えてくれたんだよね。

 多分、あまりにも顔面が良すぎて人を寄せ付けるのが嫌になっちゃったんだよ。とか、確信めいた顔をして。

 私はそれを聞いて、何それ、鼻につく。なんて思っちゃったから、話したこともない彼のことが少し嫌いになっちゃったんだけど。

 平々凡々な私らの顔面事情のことなんか知らないで、恵まれた造形の人間はさぞ良い気分なんでしょうなぁ。

 反対に私はそっちの苦労なんてこれっぽっちも知らないし、知る気にもなれないんだけどね。

 あー、うん。駄目だ。やっぱり邪念は鎮まらなかった。



 翌週も巳緒は来なくて、私はあの子の代わりに今日も真面目にノートを取る。勘弁してよって思わなくもないけど、巳緒はちょっと風邪ひいちゃったみたいだから今日だけは許してあげようかななんて思っちゃうあたり、私も十分彼女の怠惰に加担してる。

 でも、ま、最近寒くなってきたし、私も体調には気をつけよう。

 そう思って図書館まで歩いてたらさ、途中の大きな木が並んだ道で突風が容赦なく枯れ葉を打ち付けてきた。無駄に広いキャンパスの並木道。少し前までは銀杏を潰した匂いが漂ってて、おまけに虫がたくさん落ちてきたりするわけ。

 景観としては嫌いじゃないんだけど、そう思うとデメリットも多いよねなんて、枯れ葉に殴られたやるせなさでちょっと悲観的になる。

 ぐしゃぐしゃになった髪を整えながらため息を吐く。ああもう。同じ敷地内なのになんでこんなに図書館まで遠いの。

 どこからともなくイライラしてきて、肩にかけた鞄を持つ手に力が入っちゃう。とにかくもう今は一人になりたい。なんで苛ついてるのかも分からないまま周りを見ないようにして図書館を目指した。なのに。


「あの……!」


 怒りに支配されそうな私のことなんて知らずに声をかけてくる愚か者がいた。


「はい゛?」


 喉の奥から絞り出したような全く可愛くない声が口から出ていく。もともと可愛い声でもないけどさ。今は更にそこに澱みが上乗せされた。

 振り返った私に一瞬驚いたような顔をした愚か者は、あ、ごめんなさいとか小さな声で呟くの。私、そんな怖い顔してたのかな。


「何ですか?」


 とにかく用事があるから声をかけたんだよねって思って、息を吐きながら答える。怖い顔してたならそれは申し訳ないなって、今更になって羞恥心が顔を出す。


「すみません突然。でも、あの……」


 そこで私はようやくその愚か者の顔をちゃんと見た。で、反射的に瞼が数回落ちる。


「髪に、葉っぱがたくさん……ついていたので……」


 彼は自分の髪の毛を指差しながらね、私のことを気遣うような眼差しで見てくるの。桃花眼の、くっきりとしてるのに優しい彼の目元は、穏やかに微笑んでいるように見えた。でも実際には彼がどんな顔をしているのかなんて私には分からなかった。

 マスクに隠れた顔半分。そこを透視できるスキルなんか私にはないんだから。


「ありがとうございます……。すみませんわざわざ」


 驚きですっかり心が静かになった私は、示された箇所を手で探って枯れ葉を払う。はらはらりと地面に落ちた枯れ葉たち。彼はそれを目で追ってまた目元を緩めた。


「図書館に行くんですか?」

「え? あ、はい……」


 顔を上げた彼は私を見て、更に向こうに見える建物を見てから尋ねる。だから私も頷いて、そうしたら彼は「そっか」って相槌した。


「さっきの講義の復習?」


 彼は微かに首を傾げて、どこまでも耳を甘やかすみたいな声でそう聞いてくる。この人、顔だけじゃなくて声もいいんだなんて、彼の質問も忘れて私は勝手に感心してしまった。

 そんなことしてたら彼がきょとんとした目をするから、慌てて私は頷くの。


「そうなんですね。俺もこれから復習です。あはは。今日の内容、少し難しかったよね」

「…………あ、待った」


 ようやく彼の声に耳が慣れてきたところで、私は右手を上げて彼の言葉を止める。

 タイム。タイムタイム。


「私のこと知ってるんですか?」


 いつも二列目以内に座っているマスクの君。最後列がお気に入りの私は彼のことをよく知っている。だけど、どうしてこの人は私のことを知ってるんだ?

 話をしたこともない彼との当たり前のような会話にようやく疑問を挟めた。


「いつも教室の後ろの方に座って講義受けてますよね? 俺、教室に入るのいつも遅いから、皆の顔がよく見えるんです。だから、覚えちゃって」


 彼は恥ずかしそうに頭を掻きながらネタばらしをしてくれた。ああ、そうか。そういうことならよく分かる。

 一度たりとも講義を欠席したことのない私。最後列の常連は、前方の扉から入る彼からは目につきやすいんだ。


「あ、俺、瀬渡音一せわたりおといちです。はは。自己紹介もせずにごめんね」

「……川嶌詩奈かわしましいな、です」

「よろしくね、川嶌さん。あ、そうだ。せっかくだから、一緒に復習しません? 俺、ちょっとまだ分かってないところがあって……」

「……はい。いいですよ」


 なんで承諾したのかなんて分からない。

 だけどその時、マスクで見えない彼の表情に、多分、きゅんってしちゃったんだよね。



 巳緒は相変わらず講義をサボりっぱなし。

 今を楽しめ青春だ、黄金時代だなんて自由を満喫しているみたい。私としては、巳緒が楽しそうで何よりです、としか思えないんだけど。でもどことなく感じていた孤独はなくなって、少し気持ちは楽になっていた。

 音一くんと一緒に勉強する回数が増えてから、背後に人がいるのが苦手な私は思い切って前方の席へと足を踏み入れたのだ。そうしたら、なんともあっけなく同じような価値観の人たちと知り合うことが出来てね、今は毎日ペンを握るのもすごく楽しいの。

 音一くんは私と同学年なんだけど、周りにいる人たちと比べても雰囲気が落ち着いているし、マスクで顔が見えないこと以外は好印象しかなかった。

 人柄も知らずに嫌いになってたことを密かに反省しながら、マスクをつけたままでも別に悪いことなんて何もないよななんて思ってる。


 でもさ。親しくなるほどに同時に疑問も沸いてきちゃって。

 近づけば近づくほど、その人のことを知りたいって思うのは当たり前だよね、って言い訳しながら友だちに事情を聞いてみたりもした。

 音一くんは、どうしていつもマスクをつけているのって。

 だけど彼らは事情は知らないなぁって、困ったような顔をしてしまうから、結局のところ音一くんの真意はつかめてないんだよね。

 今日も図書館で外が暗くなるまで勉強しちゃって、隣に座っていた音一くんは時計を見て慌てて私に声をかけた。

 「あんまり遅くなると危ないから、そろそろ終わりにしようか」って。

 でも私はもう少し勉強したかったから、不満があからさまに顔に出ていたんだと思う。音一くんはマスクの下で微かに笑って、「だめだよ」って窘めた。


 音一くんと私は学部は一緒だけどコースが違って。だから唯一同じ教室で受けている講義の勉強をするときくらいしか一緒にいられない。もう少し一緒にいたいのに。

 だけどしっかり者の音一くんは、夜道を女子一人で歩かせるなんてこと絶対にさせたくないんだと思う。なら、彼を煩わせちゃだめだよね。

 正門まで歩く道はもう学生の姿は少なくなっていて、サークル活動の帰りですって人がちらほらいるだけだった。音一くんは裸になった木を見上げながら、「寒いね」って呟くの。でもその声が温かいから、私は全然寒くなかった。

 門が見えてきて、すぐにバスに乗っちゃう音一くんとはここまで。そうしたら、きっと寒くなっちゃうんだろうなって思って。寒いのが嫌いな私は嫌になって足が止まってしまう。


「どうしたの?」


 音一くんも足を止めて、心配そうに私の顔を覗き込んできた。マスク越しに見える彼の表情。彼と友だちになってから一度だけ素顔を見る機会があった。それはただの偶然で、私がいることに気がついた彼は慌ててマスクをつけたのだけど。

 確かに巳緒の言う通り、音一くんの顔は整っている。でも人間の好みなんて千差万別なんだから、モテるのが嫌でマスクをするなんてあまりにも横暴すぎる。

 多分違う。

 音一くんがマスクをつける理由は違うんだって、私は勝手に確信してた。


「音一くんは、どうしてマスクを外さないの?」


 まだ寒さに耐える覚悟が出来ていなかっただけ。音一くんが困ることは分かっているけど、でも、私は勉強を中断させられたちょっとした意趣返しのつもりでそう尋ねた。

 ううん。そうじゃなくて。ただ、私が知りたかっただけなんだけど。

 そうしたら音一くんは、思った通りに眉を八の字にして困惑を隠そうともしない。彼の隠れた表情が切なくて、私は思わず音一くんの胸元を掴んだ。


「教えてよ音一くん……! 何か、何か事情があるんでしょう?」


 切羽詰まってる私を見て、音一くんは意味が分からなかったと思う。だって私も分からなかった。だけど勝手に声が裏返ったの。音一くんの抱えている不安や問題があるのなら、それを教えて欲しかった。彼が一人で抱え込むなんて嫌だ。そんなことしないでって、心が叫んでいたから。

 音一くんは服を掴む私の冷たくなった手にそっと長い指を向ける。それが彼の声以上に温かくて、力の抜けた手は簡単に彼の服から離れていった。


「詩奈ちゃん。……ごめんね」


 音一くんは落ちていった私の手を見て切なく瞳を揺らした。今にも泣きそうなその瞳。そんな顔をしておいて、黙っていろなんて出来るはずがない。


「音一くん! どんな事情だって受け入れる! 私、音一くんのことならなんだって受け入れられるよ! でも音一くんのそんな顔を見るのは嫌。お願い。教えて。このままじゃ帰れないよ」


 声が震えていたのは自分でも意外だった。でも苦しくて。喉が引っ付いちゃいそうで。すごく怖かった。

 音一くんは私の頬に流れた涙を見て、ぐっと眉に力を入れる。

 泣くつもりなんてなかったのに。恥ずかしくなって私は慌てて涙を拭った。


「詩奈ちゃん……。俺……」


 再び顔を上げた頃には、音一くんは世界が崩壊するんじゃないかってくらい深刻で苦しそうな、それでも私のことを気遣うことも忘れない眼差しでこっちを見てた。

 私は彼が何を言おうと覚悟が出来ていた。でも、つい唾は飲み込んでしまった。


「俺、初恋症なんだ」

「え…………?」


 すとん、と、胸の中に何かが落ちていったような気がした。音一くんはポカンとする私を透き通った瞳で捉える。


「はつこい、しょう……?」


 前に聞いたことがある。大学に入る前、色んなことを調べた時に。

 世の中にはたくさんの病気がある。だからそういうことに取り組めるような環境。そんな場所に行きたくて、私はこの大学に来たのだから。

 それから私と音一くんは、門の近くにあるベンチに座って少し話した。

 初恋症。それは幻ともいわれる病だった。すごく珍しくて、勿論対応する薬も治療法もない。研究だってまだ発展途上。

 音一くんはそんな初恋症を患わっていたのだ。

 日常生活をするうえで不便なことは何もなく、命を脅かす恐れも全くない。

 だけどただ一つ。

 たった一つの症状が、彼らのことを苦しめる。


 初恋症は、その名の通り恋することで威力を発揮してしまう。

 疾患者が誰かを本気で好きになった時。もし、その相手と気持ちが通じてキスなんてしてしまったら……。

 彼らはその相手のことを綺麗さっぱり忘れてしまう。まるで最初から存在などしなかったかのように。大好きな人のこと、その人と過ごした時間、思い出、すべてが頭から抜け落ちていく。

 おとぎ話にある運命のキスなんてものじゃない。それはまさに呪いのキス。

 だけど誰かを好きになったのなら。相手も同じ気持ちでいてくれるのなら。

 愛情をキスで確かめるのは自然な流れだ。

 でも音一くんはそれが出来ない。

 まだ発症を知らない頃、過去にそれで相手を苦しめたことがあるという。

 相手のことを忘れてしまって、絶望させてしまったと。

 だから彼はマスクをすることに決めたらしい。


 素顔を隠していれば恋愛関係に発展する機会も少ないし、そもそも意識もされにくい。それに万が一、彼が誰かを好きになってしまっても、マスクをしていればガードになる。マスクさえあればキス出来ない。

 じゃあマスク越しにキスするのって聞いてみたら、どうやら布を介しても唇が触れたら駄目らしい。ならマスク意味なくない? って思う。

 けど、マスクをしていればキスをしようとも思わないし、彼の心も楽になるんだって。

 音一くんが今一生懸命学んでいるのも、将来薬の研究をしたいからだって教えてくれた。

 同じように難病に苦しむ人を救いたいって。

 彼の話を聞いている間、私は何度も泣きそうになった。音一くんが可哀想だとか、そういうことじゃない。

 彼の抱えていた秘密を聞いて、音一くんのことがもっともっと好きになってしまったからだ。



 音一くんの秘密を知ってから、私は前よりも彼に近づけた気がして一緒にいるのがより楽しくなってきた。彼は以前にも増してつきまとうようになった私に少し戸惑っていたようだけど、次第にまた笑ってくれるようになった。

 私の就職活動が軌道に乗った頃、音一くんは院に進むことが決まった。

 まだ自分の将来も決まっていないのに、彼が夢に近づいていることが嬉しくて。私は彼をお祝いしようと少しいいレストランを予約した。音一くんは照れながらも喜んでくれて、躊躇うこともなくマスクを外して一緒に食事をした。

 あんまり見ることのできない彼の素顔。何も気にすることなく笑いかけてくれるから、なんだか彼に心を許してもらえたような気がした。


 そのせいかな。立派な料理の味もすぐに忘れてしまった。だから彼に尋ねられた時、料理の感想の代わりに言ってしまった。彼のことが大好きなのだと。

 音一くんは一瞬顔をこわばらせた。だけどそれがどうしてか、その五秒後には理由が分かった。

 彼が私の手を引いて抱きしめて、涙を流してごめんね、って耳元で囁いたから。強く強く彼の中に埋まって、私も一緒に泣きそうになった。でもそれじゃ駄目だから、少しだけ我慢してみたんだ。

 音一くんの気持ちは本当に痛いくらいに分かった。離れていく彼の顔。マスクが濡れてしまった彼に、私はどーんと笑ってみせた。


「キスなんてできなくても、私は大丈夫だから」


 彼の瞳からまた涙がこぼれた。弱弱しく頷いて、私はまた音一くんに包まれる。


「大好きだよ」


 もうその言葉だけで、私は生涯の宝物を得られたから。



 音一くんは院に進んでからも研究に没頭した。

 私は慣れない社会人生活に目が回りそうだったけど、幸運なことに良い人に囲まれたのだからと、どうにか一歩ずつ前に進んで行った。

 院を卒業した音一くんの研究は本格化して、塵も積もれば山となるじゃないけど、治療薬の礎が徐々に形作られていった。

 私と音一くんの関係は社会人になっても変わらず。他の人たちと同じようにはいかないけれど、それでも互いを尊重し合いながら共にいられるだけで幸せだった。

 彼が研究職に就いてから数年が経ったある日。音一くんは神妙な面持ちで私の前に現れた。いつもの穏やかさが見えなくて不安になった私は彼の手をそっと握る。

 すると彼はその手を包み返してこう告げた。


「治験薬が出来た。今度、治験に協力することになった」


 本当なら喜ばしい報告なはず。だけど彼の声が低いのは、その薬はまだ完璧ではないからだろう。それに、副作用だってあるかもしれない。未知の薬。未知の病。治験は命懸けと言っても過言ではない。

 でも私が何を言っても、どんなに優しい音一くんでもこれだけは譲ることはない。そんなことはあり得ない。だって、これは彼の念願だから。彼は人を救いたい。そのためには、自分が犠牲になることなんて厭わない。

 だから私は微かに震える彼の手をぎゅっと強く握って、明るい声を返すの。


「すごいね! 音一くん。これでまた一歩前進だね!」


 音一くんはこくりと頷いてから、溶けてしまうほど甘い眼差しをこちらに向けて私を首元に抱き寄せる。

 彼がつけている香水がほのかに鼻を通るものだから、私は胸が苦しくなるのを誤魔化すように、彼の頭をそっと撫でた。


 当日になると、研究に協力している病院から電話がかかる。

 私は仕事なんて放り投げて急いで彼のもとへと向かった。椅子に座っている彼は特に変わった様子もなく、私を見るなり目元を緩める。

 薬が効いているのかいないのか。

 それを確かめる術は一つしかない。

 私は彼の前に進んで、カーテンの向こうにいる大勢の研究者たちのことなんて忘れて少し低いところにある彼の顔を見ようと身体を屈めた。


「音一くん」

「詩奈。薬はまだ完成じゃない。もしかしたら……」

「いいの。音一くん。私は、何度でもあなたに恋させてみせるから」


 椅子に手をかけて、照れくさそうに笑う彼の声に顔を寄せると、音一くんは真剣な眼差しでこちらを見つめ返してくれた。


「ありがとう、詩奈」

「ふふ。私から逃げられるはずがないんだからね?」

「ははは。すごく頼もしい言葉だな」


 そう言って口角を上げた音一くん。何年も焦がれたこの瞬間。傍から見たらなんてこともないことだし、洋画だったら五回以上は出てくるありふれた光景。

 でも私には。

 私にとっては、奇跡のような瞬間だった。


 いつも微笑みかけてくれる彼の唇。

 どんな時も私を励ましてくれる言葉を伝えてくれるその場所。

 柔らかな温もりに触れたこの時。

 先の結末がどうなろうと、私は決して後悔することなんてないと、神に向かって誓いを立てた。



 スマホに映された動画を見て、目をぱちぱちとさせる音一くん。

 私はマグカップを二つ手に持ってその隣に座って彼が見ている物語を覗き込む。


「これが、二回目の時?」

「違う違う。これは三回目だよ」


 机に彼の分のマグカップを置いてケタケタと笑ってみせる。音一くんは悔しそうに顔を歪めた後でスマホを消す。

 彼が消したスマホを受け取り、私は写真のフォルダを漁りまわる。


「もう明日で五回目か……」


 ほかほかの紅茶を口に含み、音一くんがぼそっと呟いた。


「そうだね。今回はちゃんと色々な思い出を編集してみたんだよ。映画みたいに。早く見て欲しいな」


 私がそう答えると、音一くんは「見て欲しくないって言ってよ」って困ったように笑う。

 明日は新薬の治験の日。最初の治験から少し時は流れたけど、まだまだ薬は安定しない。

 スマホに残した彼との記憶を見返しながら、私はこれまでの治験を思い返す。

 まず初めの治験。

 やはり思うようにはいかず、彼は私のことを綺麗に忘れてしまった。本当にピンポイントに忘れてしまうものだから、最初はそっちの驚きの方が強くてショックは後から遅れてやってきた。

 覚悟していたものよりも比べ物にもならないほどの絶望感が襲ってきた。だけど私は音一くんにまた恋してもらえるように、すぐに気を取り直して彼との交流を深めていった。

 その後の治験も、何度やっても上手くはいかず、その度に私は彼と恋をした。

 こんなに治験を重ねて彼の身体は大丈夫なのかと心配はよぎるけど、彼の意思が変わることもなく。おまけに研究者たちも彼に鼓舞されちゃって、前よりも研究は盛んになった。

 一度彼に尋ねたことがある。

 研究を止めるって選択肢はないの? って。

 そうしたら音一くんはきっぱりと首を横に振った。


「ないよ。詩奈と本当のキスがしたいから」


 そんなこと言われたら私だって何も言い返せない。

 歳を重ねても音一くんはかっこよさが増すばかりで、若々しさが消えたって次は渋さと色気が現れるだけ。もはや彼の容姿がどんなんだろうと大好きだ。でもやっぱりその姿は反則だ。

 結局、五回目の治験も成功とは言えなかった。私の傑作思い出ムービーは無事彼にお披露目となったわけだけど、何度見てもそのきょとんとした表情は胸に来るな。


 それから何年か経って、もう、何度目か分からない治験の日。

 身体に無理をさせたのか、彼はここのところ入院が増えた。でも、治験は変わらずやるんだって頑固なの。

 少し顔色の悪い彼の姿を固唾を飲んで見守る。

 ああ今回こそは。

 今回こそは、彼を解放してください。

 祈るような想いで彼に声をかけた。

 思いがけず震えたその声は、まるで初めて彼の秘密を聞いた時のようだった。


「…………君は……」


 さっき触れた音一くんの唇が静かに動く。

 縮こまっていく心臓。彼の黒目は私を捉え、じーっと見たまま動かない。

 今回も駄目か……。

 落胆とともに口内が痛む。頬を噛みしめて、どうにか涙を堪えてみる。

 痛い。いたいいたいいたいいたい。

 肉が引き千切れそうなほど深い力で口内を噛んでいると、強張った頬にそっと長い指が伸びてきた。


「詩奈」


 顔を上げると、彼の黒目がじんわりと滲んでいくのが見えた。


「音一くん……?」


 目が合えば、彼はゆっくりと頷き、少し皺の出てきた目元を緩ませる。

 優しくて、緩やかで、愛おしくて。

 大好きなその瞳に、私は思わず彼に抱きつく。


「音一くん!」

「詩奈。待たせて、本当にごめん」


 ぶんぶんと首を横に振って、音一くんの謝罪を振り落とす。


「ねぇ詩奈。俺は一体何回、君に初恋を教えてもらったんだろう」


 彼の背中をぎゅうっと握りしめ、私はまだ現実味のない彼の表情を見上げた。


「そんなの、一回だけに決まってるでしょ」


 音一くんはくすぐったそうに笑って、うん、って頷くの。


「愛してるよ、詩奈」


 もう、そんなの当たり前でしょ。


 声にならない言葉を涙に隠して、私は彼の素顔にきゅん、と胸を弾ませた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

初恋症 冠つらら @akano321

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ