この日以来、わたしたちの関係はずっとぶれずにいる。幼馴染み、そして親友。

 わたしもそれなりに恋をして、ついには七つ歳上のエンジニアと結婚するところまで漕ぎ着けた。

 もう、わたしも二十八だ。いつまでも初恋にしがみついたままではいられない。

 陽治にはわたしがいなければ、と思うのは、恋ゆえの自己欺瞞なんだってことにも気付いている。彼は強い。ひとりでもなんの苦もなく生きていくだろう。それこそ世界が滅んだあとでさえ、彼はしぶとく生続けるような気がする。

 恋をしないことが哀しいなどというのも、凡俗な人間が勝手に勘ぐったことであって、彼には彼の幸せがあるに違いない。わたしたちが恋から得る以上の悦びを、陽治は他のなにかから得ているのかもしれない。太陽からのラブレターとか、蘚苔類との豊かな交情とか。

 わたしの片思い。きっとそれは一生心の中に生き続けるだろう。人間は器用な生き物だから、それでもまた別の誰かに恋をして、新しい道を歩んでいく。

「元気でね」とわたしは陽治に言った。

「あんまり観察に夢中になり過ぎて、身体冷やしたりしないでね」

 うん、と彼は言った。

「わかった」

 わたしはいまならばもう大丈夫だろうと思い、彼にそっと告げた。

「陽治はわたしの初恋のひとだったのよ。知ってた?」

 彼は頷き、そして言った。  

「うん、ぼくの初恋も亜希だったよ」

 胸がどきんと高鳴った。

「だって、陽治は恋をしないって……」

 だから、と彼は言った。

「ぼくなりの初恋だよ。触れたいとか、いつも一緒にいたいとか、亜希を自分だけのものにしたいとか、そんなふうに思ったことは一度もないけれど、それでも、好きだった」

「好き――」

「きっとね。亜希が嬉しそうだと、ぼくも嬉しいんだ。哀しそうなときは、ぼくも哀しくなる。それって恋に似てるよね? これがぼくの精一杯だけど、悪くはないなって思ってた」

 幸せになりなよ、と彼は言った。

「そうすれば、ぼくも嬉しいから。誰といても、どこにいても、亜希が幸せならば、ぼくはそれをきっと感じ取るから。ぼくを悦ばせてよ」

 また涙が込み上げてきた。熱い息が喉を昇り、舌の付け根にそっと触れる。

「そのためには――わたしはここから出て行かなくちゃいけないのね?」

 そう、と彼は言った。

「亜希が望む幸せはここにはないから」

「そうなの?」

「うん、ぼくは知ってる。どうすれば亜希が幸福になれるか」

 あのひとと、と陽治は言った。

「一緒にいるんだ。それが一番正しい選択だよ。いまはそう思えなくても、いずれは――」

「ほんとにそう思うの?」

「うん、ぼくを信じて」

 彼は身体を起こし、柔らかな笑みでわたしを見た。

「最初の一年はまだ恋しくて仕方ない。おじさんやおばさん、この町、それにこのぼくのこともね。でも、向こうの暮らしにも慣れ、やがて赤ちゃんができる頃には、亜希の頭の中は自分が守るべき生活のことでいっぱいになっているはず。ぼくらのことを思い出すことはあっても、もう以前のように泣いたりはしない。亜希は強くなるんだ」 

「まるで見た来たように言うのね? それって、太陽黒点が教えてくれたの?」

 違う、と彼は言った。

「でも、分かるんだ。亜希はまだ成長するんだよ。十二歳で成長を止めたぼくとは違う」

「あなたわたしより、よっぽど大きいじゃない」

 そうだね、と彼は笑った。

「この部屋も、ずいぶんと小さくなったな……」

 もし、とわたしは言った。

「陽治の言ってることが間違っていて――」

 彼がなにかを言いかけたが、わたしは手でそれを制して続けた。 

「わたしが、ちっとも成長しなくて、いつまで経ってもこの町やあなたのことを恋しく思い続けていたら――」

「うん」

「責任取ってくれる?」

 彼は少し驚いた顔をした。あの夜の、酔っぱらい女の一方的な言い掛かりを思い出したのだろうか?

 彼はすぐに表情を戻し、気安い様子で頷いた。

「いいよ。いつでも帰っておいでよ。この毛布は、いつだってここにあるから」

 彼のこのゆとりの笑み。よほど自分が読んだ未来に自信があるのだろう。わたしのことなら、なんでもお見通しってわけね。

 わかった、とわたしは言った。

「じゃあ、行ってくるわ。海の向こうで赤ちゃん生んで育てて、わたしも一緒に成長する」

「うん」

 わたしが立ち上がると、彼も一緒に立ち上がった。わたしよりも二十センチは背が高い。天井に頭が着き掛けている。こんなに背の高い十二歳児っているのかしら?

 ねえ、とわたしは彼に言った。

「最後に、わたしを抱きしめてくれない? 別れの抱擁ってやつ」

 十代の頃、いやそのあとだって、いつだってわたしはそれを待ち望んでいた。彼に抱きしめられること。

 陽治は戸惑い顔でわたしを見下ろしていた。

 最後ぐらいいいじゃない、とわたしは心の中で彼に訴えた。そんな顔しないでよ。

 それが通じたのか、陽治はどうにか自分と折り合いをつけると、ぶきっちょな笑みを浮かべながらわたしに手を伸ばした。

 わたしは軽く顎を上げ、じっと待ち受けていた。夢にまで見た初恋のひとの腕。

 彼はわたしの背に腕をまわし引き寄せた。彼の匂い。温もり。涙がぽろぽろ零れて、彼のシャツの胸を濡らした。陽治、とわたしは呟いた。彼はあまりにぎこちなく、あまりに遠くにいた。

 それでもわたしは束の間の夢に浸り、幸せだった。

 ありがとう、とわたしは言って彼の胸を手で押した。彼の腰は最後まで引けたままだった。

 じゃあ、元気でね。とわたしは言った。涙を指で拭い、化粧が移ってないか確かめる。

 亜希も元気で、と彼が言った。

 わたしは梯子に手を掛け、ゆっくりと昇り始めた。

 名残惜しかったし、彼から呼び止められるような気もしていた。

 けれど、彼はなにも言わなかった。

 最後に振り返って見ると、陽治はふたたびマットレスの上に寝ころび、例の簡易曼荼羅生成器だか望音響だかを熱心に覗き込んでいた。

 わたしは扉を開け外に出ると、一度も振り返らずに彼の庭をあとにした。


 

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隣のうちの子 市川拓司 @TakujiIchikawa

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