「結婚式のね」とわたしは言った。

「日取りが決まったの。十月の終わり」

 そうなんだ、と彼は言った。 いつもと変わらない口調だった。

 陽治は来ないんでしょ? とわたしは訊いた。

「うん、行かない。無理だよ。堪えられない」

 そのことは前から聞かされていた。彼は席にじっと座っていることができない。小学校の頃と同じだ。授業中、彼はいつも自分の席を離れ、教室の中をうろうろと歩き回っていた。ひとつの場所に留め置こうとしたら、彼はパニックを起こす。過呼吸におちいり、ひどいときには気を失うこともある。不思議なことに、自分の意思でその場所に留まる分には、なんの問題もない。集中して絵を描いているときなどは、十時間でも二十時間でも机に張りついたままでいられる。陽治は他人から拘束されることが、なによりも嫌いなのだ。


 式場までの距離の問題もある。彼はこの町から離れることができない。家から遠離とおざかるに連れて、彼は落ち着きを無くしていく。町境を越えようものなら、陽治はパニックに陥ってしまうだろう。彼は古いスペースオペラに出てくる金星の生物「マリ」に自分をなぞらえていた。この小さなテナガザルのような生き物は、自分のすみかから一メートルでも離れると狂って死んでしまう。

 金星人はマリを神様の生まれ変わりだと信じているんだ。そう言って彼は、マリー、マリーと奇妙な節を付けて、わたしに唄うように鳴いてみせた。


「式が終わったら、すぐに彼と渡米するわ」とわたしは言った。

「うん」

「そしたら、当分は帰ってこない。もう、いままでみたいに、ここに来ることもできなくなる」

「そうだね」

 彼はわたしと目を合わせようとせず、じっと幾何模様が描かれた天上を見つめている。 

 ねえ、とわたしは言った。

「大丈夫よね?」

「なにが?」

「あなたひとりで生きていくこと」  


 彼がなにも言わないので、さらにわたしは続けた。

「いずれはあなたのお父さんだって歳を取って動けなくなるのよ。うちの両親だってそう」

「そうだね。そして死んでいくんだ」

 陽治の言葉にとくに含みはない。彼はいつも真実だけを告げる。

「そうよ。みんないなくなってしまう。そしたら、ここで暮らしているのは陽治だけってことになっちゃうじゃない」

 心配しないで、と彼は言った。

「ぼくは大丈夫だから。たとえ世界が滅んでも、ぼくは生き延びるよ」

 これも陽治の口癖だった。この木と漆喰でつくられた貧弱な地下シェルターで、彼は人類を滅ぼすあらゆる災厄から生き延びるつもりでいる。

「ひとりで生きていくための準備はちゃんとしてある。収入源も確保したし、庭の畑で野菜もつくり始めた。それにニワトリだって飼ってるんだ」

 知ってる、とわたしは言った。

「さっき、足をつつかれたわ」

 そう、と彼は言った。

「災難だったね。彼女、嫉妬深いんだよ。女のひとが嫌いなんだ」

 収入源て? とわたしは訊いた。初耳だった。

「ぼくがつくったものをインターネットで販売してる。月に五万ぐらいの稼ぎになるんだ」

「ほんとに? 五万も?」

 そうだよ、と彼は言った。

「とくに、簡易曼荼羅生成器は人気なんだ。この半年で七個も売れた」

 やだ、とわたしは思わず呟いた。

「大丈夫かしら……」

「なにが?」

「この世界が。心配だわ。あんなものが七個も売れたなんて――」

 彼は肩をすくめ、わたしのぶしつけな発言を軽くいなした。 

「吹奏弦楽器シリーズもよく売れてる」

「ああ、あれはいいわ。わたしも好き」

 吹奏弦楽器――形はオカリナに似ていて、息を吹き込んで演奏するところも一緒だけど、弦を押さえるところが決定的に違う。吹き込み口のすぐ奥に風車があって、その回転がシャフトで繋がれたピックを回す。彼はこれを自動トレモロ器とも呼んでいる。

「いずれは、もっと商品を増やすつもりだし、買い手も増えていくと思う。万事順調だよ」 

 わたしは頷き、そのあとでそっと溜息を吐いた。もとより、収入のことは心配していない。彼の父親はずぬけた高給取りなのだ。陽治のこんなつましい生活なら、百年ぐらい容易にまかなえるだけの蓄えがあるはずだ。

「ひとりで寂しくはないの? 誰か友だちでもつくれば?」

 彼はちらりとわたしを見て、またすぐに視線を天井に戻した。 

「友だちは亜希だけでいいよ」

「だから――わたしはもう、遠くへ行ってしまうの。他の男のひとの奥さんになって、そのひとの子供だって生むだろうし、そうやって、あなたとは別の人生を歩んでいくことになるの」

「でも、友だちだってことは変わらない。そうだよね?」

「そうだけど――」

 彼は満足そうに頷き、くつろいだ様子で背伸びした。 

「ならいい。友だちがひとりいれば寂しくなんかないよ」

 別にいつでもいいんだ、と彼は言った。

「また、会いに来てよ。五年後で十年後でもかまわない。ぼくはいつだってここにいるから」

 その言葉に、涙がふいに込み上げてきた。

「なによそれ? あなたはそれでいいの? そんなに会わないでいて、陽治は平気なの?」 

 どうしたの? と彼が訊いた。

「亜希らしくないね」

「なんだか不安なのよ。なにもかもが……」

「それって、マリッジブルーってやつ?」

 わたしは化粧を崩さないように中指のお腹でそっと涙を拭い、陽治を見つめた。

「そうなのかな? でも――」

 大丈夫だよ、と彼は言った。

「あのひとは亜希のことが大好きだし、決して裏切らない。亜希のことを幸せにしてくれるよ」

 なぜだか、その言葉でまた涙が込み上げてきた。

「そう?」

「うん。ばっちりだよ」

 

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