3
「結婚式のね」とわたしは言った。
「日取りが決まったの。十月の終わり」
そうなんだ、と彼は言った。 いつもと変わらない口調だった。
陽治は来ないんでしょ? とわたしは訊いた。
「うん、行かない。無理だよ。堪えられない」
そのことは前から聞かされていた。彼は席にじっと座っていることができない。小学校の頃と同じだ。授業中、彼はいつも自分の席を離れ、教室の中をうろうろと歩き回っていた。ひとつの場所に留め置こうとしたら、彼はパニックを起こす。過呼吸に
式場までの距離の問題もある。彼はこの町から離れることができない。家から
金星人はマリを神様の生まれ変わりだと信じているんだ。そう言って彼は、マリー、マリーと奇妙な節を付けて、わたしに唄うように鳴いてみせた。
「式が終わったら、すぐに彼と渡米するわ」とわたしは言った。
「うん」
「そしたら、当分は帰ってこない。もう、いままでみたいに、ここに来ることもできなくなる」
「そうだね」
彼はわたしと目を合わせようとせず、じっと幾何模様が描かれた天上を見つめている。
ねえ、とわたしは言った。
「大丈夫よね?」
「なにが?」
「あなたひとりで生きていくこと」
彼がなにも言わないので、さらにわたしは続けた。
「いずれはあなたのお父さんだって歳を取って動けなくなるのよ。うちの両親だってそう」
「そうだね。そして死んでいくんだ」
陽治の言葉にとくに含みはない。彼はいつも真実だけを告げる。
「そうよ。みんないなくなってしまう。そしたら、ここで暮らしているのは陽治だけってことになっちゃうじゃない」
心配しないで、と彼は言った。
「ぼくは大丈夫だから。たとえ世界が滅んでも、ぼくは生き延びるよ」
これも陽治の口癖だった。この木と漆喰でつくられた貧弱な地下シェルターで、彼は人類を滅ぼすあらゆる災厄から生き延びるつもりでいる。
「ひとりで生きていくための準備はちゃんとしてある。収入源も確保したし、庭の畑で野菜もつくり始めた。それにニワトリだって飼ってるんだ」
知ってる、とわたしは言った。
「さっき、足をつつかれたわ」
そう、と彼は言った。
「災難だったね。彼女、嫉妬深いんだよ。女のひとが嫌いなんだ」
収入源て? とわたしは訊いた。初耳だった。
「ぼくがつくったものをインターネットで販売してる。月に五万ぐらいの稼ぎになるんだ」
「ほんとに? 五万も?」
そうだよ、と彼は言った。
「とくに、簡易曼荼羅生成器は人気なんだ。この半年で七個も売れた」
やだ、とわたしは思わず呟いた。
「大丈夫かしら……」
「なにが?」
「この世界が。心配だわ。あんなものが七個も売れたなんて――」
彼は肩を
「吹奏弦楽器シリーズもよく売れてる」
「ああ、あれはいいわ。わたしも好き」
吹奏弦楽器――形はオカリナに似ていて、息を吹き込んで演奏するところも一緒だけど、弦を押さえるところが決定的に違う。吹き込み口のすぐ奥に風車があって、その回転がシャフトで繋がれたピックを回す。彼はこれを自動トレモロ器とも呼んでいる。
「いずれは、もっと商品を増やすつもりだし、買い手も増えていくと思う。万事順調だよ」
わたしは頷き、そのあとでそっと溜息を吐いた。もとより、収入のことは心配していない。彼の父親はずぬけた高給取りなのだ。陽治のこんなつましい生活なら、百年ぐらい容易にまかなえるだけの蓄えがあるはずだ。
「ひとりで寂しくはないの? 誰か友だちでもつくれば?」
彼はちらりとわたしを見て、またすぐに視線を天井に戻した。
「友だちは亜希だけでいいよ」
「だから――わたしはもう、遠くへ行ってしまうの。他の男のひとの奥さんになって、そのひとの子供だって生むだろうし、そうやって、あなたとは別の人生を歩んでいくことになるの」
「でも、友だちだってことは変わらない。そうだよね?」
「そうだけど――」
彼は満足そうに頷き、くつろいだ様子で背伸びした。
「ならいい。友だちがひとりいれば寂しくなんかないよ」
別にいつでもいいんだ、と彼は言った。
「また、会いに来てよ。五年後で十年後でもかまわない。ぼくはいつだってここにいるから」
その言葉に、涙がふいに込み上げてきた。
「なによそれ? あなたはそれでいいの? そんなに会わないでいて、陽治は平気なの?」
どうしたの? と彼が訊いた。
「亜希らしくないね」
「なんだか不安なのよ。なにもかもが……」
「それって、マリッジブルーってやつ?」
わたしは化粧を崩さないように中指のお腹でそっと涙を拭い、陽治を見つめた。
「そうなのかな? でも――」
大丈夫だよ、と彼は言った。
「あのひとは亜希のことが大好きだし、決して裏切らない。亜希のことを幸せにしてくれるよ」
なぜだか、その言葉でまた涙が込み上げてきた。
「そう?」
「うん。ばっちりだよ」
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