わたしが十歳の頃、彼は父親とふたりで、この町に越してきた。母親はいない。ずっと昔、彼がまだ小さかった頃に家を出てしまっている。


 陽治の父親は土木技術者だった。海外に出張することが多く、ときには一年近く家を空けることもある。そのあいだ陽治はひとりぐらしになるが、彼の父親はそれをあまり気にしていないようだった。小学校の高学年の頃から、陽治は自分のことはすべて自分でまかなってきた。ひとりで料理し、洗濯も掃除もこなす。彼はひどく風変わりな少年だったが、だらしのない人間ではなかった。むしろ潔癖なぐらいで、奇妙なセンスではあるけれど、彼はいつも清潔な服を身に着けていた。


 わたしの両親はとてもまっとうで、あまりに普通すぎたために、彼らとどう相対していいのかわからずにいた。子供を放置することを心良く思ってはいなかったので、陽治の父親に対しては、概して批判的だった。ひとり置かれた少年を心配し、親身になろうとしていたが、陽治が普通の子とはひどく違っていたために、彼らはいつも混乱させられていた。


 陽治はいわゆる問題児ではなかった。攻撃性は皆無。声を荒らげることもない。いつも穏やかで、誰かに手を上げたこともない。

 それでも、彼は大人たちの手に余る少年だった。陽治の中には確固たるルールがあって、彼はそこから外れることを極度に嫌っていた。生まれながらの自由児。無理になにかをさせようとすると、彼はスイッチの切れたロボットのように、なんの反応も見せなくなった。目は開いていてもなにも見ず、大人たちの声は届かない(のちに彼は、それが演技だったことをわたしに教えてくれた。『虫の死んだふりと一緒だよ。完璧にやれば、鳥も騙される』)。仕方なく、大人たちは彼を放っておくことにした。周りへの害はほとんどない。規律というものを教えるには、陽治の存在は目障りだったが、子供たちは彼を異様な目で見ている。ある種の反面教師になってくれるかもしれない。


 というわけで、彼は好きな時間に学校に行き、好きな時間に学校をあとにすることができた。大人しく見られていたが、内にあるエネルギーは相当なものだったらしく、学校の外での彼は、とても活発に動き回っていた。

 彼は走ることが好きだった。郊外の新開地だったので、あの頃はまだ周りに緑がたくさんあった。彼は森を駆け、野を馳せた。

 よく憶えている。あの頃の彼の姿。まだ親しくなる前で、わたしもなんとなく陽治とは距離を置いていたけれど、それでも彼の走る姿だけはいつも見ていた。

 彼は美しい獣のように駆けた。長い髪(これも教師から幾度も注意されていたが、彼はまったく切ろうとしなかった)をたてがみのようになびかせ、彼は丘を駆け降りた。すすきが原を渡る風になり、小川を飛び越え、住宅地の舗装道路を駆け抜ける。父親が仕事先から買ってきた中央アジアだか中近東だかの民族衣装を身にまとい、彼は色鮮やかな四つ足獣のように、駅前の商店街を疾走した。

 のちに彼に訊いたことがある。なぜ走るの? どうせ走るのなら、陸上部に入ればいいのに。

 全然違う、と彼は言った。

「この気持ちよさを変にゆがめたくないんだよ。走ることそのものが報酬なんだから、ほかの目的は要らないんだ」

 やがてわたしも気づくようになるが、彼にはほとんど他者性というのものがなかった。とことん自己完結的で、だから彼には競争心、虚栄心、劣等感といったものがまったくなかった。そんな彼が競技者になろうと思うはずがない。


 過剰な活力のはけ口は他にもあった。十三の夏、彼は町を流れる一級河川に石を投げ入れ、流れをき止めようとした。川幅は三メートルほど。最深部の深さは一メートル。直径三十センチほどの石を、近くの造成地から運んできては川に放り込む。彼はどれだけの石を運んだだろう? 来る日も来る日も、彼は造成地と川を往復し続けた。ひと月ほど続けたところで、彼は川を堰き止めるのは不可能だということに気づいた。どんなに積み上げても水はそれを乗り越えてくる。彼はあっさりとこの作業を放棄した。

「意味がないよ」と彼は言った。

 ならば堰き止めることには意味があるの? とわたしは訊きたかったが、なにも言わずにおいた。どうせ、わたしに理解できるような答えは返ってきやしないのだから。

 いまでも、彼がつくった「堰」は残っている。川の流れはそこだけが大きく波打ち、渦巻いている。石はすっかり苔に覆われ、その起伏はもとからの地形のようにも見える。陽治は大地の形を変えたのだ。


 ある年の夏は(どうも夏になると、彼の活力は過剰さを増すらしい)、電柱に立てかけられた金融会社のトタン看板が陽治の熱意の対象となった。彼は看板に向かって石を投げた。男の子なら誰でもやることだが、陽治は誰よりも熱心だった。うだるような暑さの中、彼はヒキガエルたちの気の無さそうな声援を背に受けながら、ただひたすら投げ続けた。午後の早い時間から夕暮れにかけて、一日も欠かすことなく。田んぼ沿いの砂利道だったので、投げる小石はいくらでもあった。これもひと月ほど過ぎたところで終わりを迎えたが、その頃には看板は前衛芸術家がつくった奇妙なオブジェのようになっていた。彼は真っ黒に日焼けし、石を投げる左腕がずいぶんと太くなっていた。

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