第二十一話 急変
その後呂布は幾度となく王允の元へ訪れては貂蝉との縁談を願うが、王允は首を縦に振らなかった。
これは呂布にも想定通りである。
あらかじめ貂蝉から、自分が王允から信用されていない事を聞かされていた。
それはそうだろう。
董卓の義子である以上、王允が自分を手駒にできる、信用できると判断するまで時間はかかるだろう。
心配なのは、それより先に王允が徐栄と共に何かしらの行動に移さないかという事だ。
董卓への怨嗟の声は市中のみならず宮中でも強くなっている。
先日も名家荀氏の荀攸を始めとした数名による、董卓暗殺の企てが発覚し、関わる者全てが獄に繋がれていた。
荀攸や王允に限らず董卓暗殺を企てる者は他にもいるだろう。
そして初平三年四月、遂に事は動き出す。
この日呂布は高順、夜叉の爪牙を引き連れ郿塢に向かった。
しばらく病に伏せっていた天子の快気祝いで長安へ向かう董卓の警護の為だ。
馬車上の董卓はいつになく上機嫌で呂布に話しかける。
「腕は錆びておらぬか。
今や儂に逆らった関東諸侯は互いに敵対し、あの孫堅も死んだ。
政務も王允や蔡邕らがうまい事やっておる。
奴らは、考え方は古いが実務に関しては優秀だからな。
全て儂の思い通りに動いておる」
呂布は思わず苦い顔をする。
その信用する王允が自身の暗殺を企てている事も知らず、何が思い通りか。
だが今その事を漏らせば貂蝉にまで害が及んでしまう。
「どうかしたか。
渋い顔をして」
董卓の目が光る。
何かを見透かすような目に、戦場で夜叉と畏怖される男が一瞬たじろいだ。
「いえ、自身の鍛練や兵の調練は怠ってはおりません。
ですが、長く戦場から離れておりますので勘が鈍ってしまわないかと心配しております」
誤魔化す呂布を見て、董卓は眼光鋭いまま口許だけ歪めて笑う。
「さすがは夜叉と呼ばれる男。
平穏を拒み、自ら戦場を望むか。
だが心配するな。
じきに長安を始め、この関西の民も儂の政についてこれる強さを持つ頃だ。
天子が中華の政を動かせるようになる歳も近い。
そうなれば儂は西に出る。
その時こそお前の出番だ」
予想してなかった董卓の答えに呂布は戸惑い、聞き返す。
「西……でございますか」
関東ではなく」
呂布の驚きように董卓は満足気な表情を浮かべる。
「そうだ。
関東は牛甫に李傕、郭汜、張済らをつけて睨ませておけば勝手に弱まる。
疲れきった所を呑み込めばよいのだ。
儂は武威、敦煌を経て大月氏、波斯、大秦を交易ではなく、国として服従させる。
最近では儂に帝位簒奪の意思あり、などと取るに足らぬ誹謗の声もあるらしいが、この中華の大地のみでしか天下を語らず、他国を蛮族と見下す矮小な連中には理解できまい。
この狭い中華など今の天子に治めさせ、太師たる儂は中華以西の地が続く限りを支配し君臨するのだ」
呂布は唖然と話を聞いた。
果たして正気なのだろうか。
中華統一を為した秦始皇帝、漢高祖、光武帝はもとより、中華の歴史上最も領土を拡大させた漢武帝ですら届かなかった波斯や大秦を服従させると言う。
この男は何か妖か魔に取り憑かれているのではなかろうか。
「その為に関東からは攻めにくく、西に出やすい長安に都を遷したのだからな。
郿塢には長き遠征にも耐える膨大な蓄財をし、苛烈な政策を敷いて将兵、官吏、そして民も含め、国として西域のどの国よりも精強であるよう育ててきた。
お前は西の大海へ至るまでを制圧する、億を数える軍の総帥となるのだ。
戦場を望むなら、その時を胸踊らせて待つがよい」
呂布は馬上で拱手して頭を下げる。
壮大と呼ぶには馬鹿げている。
しかし異国を未開と軽んじ、その民を蛮族と蔑む儒者とは違い、この男は土地、民族の隔てなく価値を見出だし、己の欲望に変えている。
事の善悪は差し置いて、後世の史家の評を気にかけている王允よりもはるかに大きい。
もし自分が一人の女の為に裏切ろうとしている事を知れば、何と言うだろう。
小事を見て大事を見れぬ愚物と斬り捨てるだろう。
だが、自分が軍を率いるのは何かを欲するからではない。
守る為だ。
無論王允が思い止まれば、董卓を裏切る必要もなくなるのだが。
「太師にこれ程まで壮大なお考えがあったとは、感服致しました」
董卓は満足そうに笑いながら頷いた。
それにしても機嫌がいい。
呂布は何か妙な胸騒ぎを感じた。
「それにしても今日はえらく上機嫌でございますな。
やはり天子の快気が喜ばしくございますか」
董卓は表情をくずして手を振る。
「いやいや、そんな事ではない。
実は王允が大層美しい妓女を抱えている、という話を聞いてな。
その妓女を儂の後宮に迎える事になったのだが、その女が明日の昼までに長安の儂の屋敷に届けられるのだ」
董卓のその言葉に胸が騒ぎだす。
「王司徒の元の妓女……」
「お前も知らなかったのか。
あの王允が秘蔵していた美女だ。
確か名を貂蝉とか言っておったか。
今から明日の晩が楽しみでな」
呂布の全身から血の気が引いていく。
貂蝉を董卓の後宮に入れるなど、王允は一体何を血迷ったのか。
王允の望みは董卓の命ではなかったのか。
「どうした、呂布。
顔色が良くないぞ」
しかし呂布には董卓の言葉も耳に入らない。
察した高順が横から口を挟む。
「殿、最近羽林の入れ替えがあり、調練も厳しくしておりましたのでお疲れでしょう。
長安に着きましたら後はこの高順にお任せになって先にお休みください」
それを聞いた董卓は興味深そうに高順を見る。
「ほう、其方が高順か。
何でも当たる陣営の全てを陥落す、夜叉の右腕と評判らしいの。
長安に着けばもう問題なかろう。
呂布、お前は先に休むがいい」
高順は董卓の言葉に拱手した後、小声で呂布に囁いた。
「長安に着きましたら殿はどうぞ王司徒の元へ」
呂布は小さく頷き答える。
「わかった。
お前は俺の屋敷で待っていろ」
城内に入り、董卓の警護を高順に任せた呂布はそのまま王允の屋敷へと向かった。
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