第二十話 確信

 その夜、王允は閨に貂蝉を呼び出した。

 しばらく遠ざけていたが、もう一度くらいはよいだろう。

 最後にまたその体を堪能し、施しをくれてやろう。

 一方の貂蝉は久しぶりの閨への呼び足しに、特段変わった素振りも見せない。

 縁談を持ち込まれた妓女をその日に抱く胸中とはどのようなものか。

 悋気、束縛、憤懣、あるいは何も意に介していないのか。

 そんな事を考えながらも貂蝉はいつものように受け入れる。

 だがこの日は王允がいつもと違った。

「貂蝉、呂布の元に嫁ぎたいのか」

 貂蝉は驚いた。

 王允が自分の意を問うなど初めての事だ。

 素直に嬉しかった。

 今まで己の願望や意見を主張する一方で、人を顧みることのなかった王允が初めて自分を顧みた。

 王允にどのような心境の変化が起きたのか。

 この変化はやがて渇望していた心の潤いをもたらしてくれるかもしれない。

 淡い希望が芽生える。

 だが貂蝉は返す言葉に窮した。

 王允の表情から、その問いの意図は読み取れない。

「どうなんだ」

 王允が再度問う。

 頭では王允の元にいたいと願っている。

 とは言え、今日呂布に縁談を申し込んだと言われた時の胸の高鳴りもまた否定できない。

 しかし貂蝉は胸中、自分に言い聞かせる。

 呂布にも言った筈ではないか。

 例えそれ呪われた血の束縛であろうとも、望みはただ一つ。

 そして今まで聞けなかった問いも、今なら色よい返事が聞けるかもしれない。

「私は王司徒の元にあり続けたいと思っております。

 できるならば妓女としてではなく……」

 貂蝉は吐息混じりに一度言葉を区切った。

 そして意を決したように尋ねる。

「王司徒は……

 私を妻にしてはいただけないのですか」

 すると胸を弄ぶ王允の手が止まった。

 ゆっくりと身を起こし、貂蝉に背を向けて袍の襟を正す。

「何を勘違いしておる」

 静かな物言いだが、そこには明確な不快感と怒気が込められていた。

「儂の妓女であるだけでも有り難いと思うべきであるのに、その上妻にしろなどとは思い上がりも甚だしい。

 あの呂布と関係があったという事はお前も塞外の田舎娘風情であろう。

 大方司徒の財を狙っているのであろうが、片腹痛い」

 徐々に強くなっていく語気に、貂蝉は慌てて寝台の上で正座して深く頭を下げる。

「申し訳ありません。

 分をわきまえぬ事を申しました。

 財を狙うなどとんでもございません。

 お慕いする王司徒の元にいる事のみが私の望みでございます。

 どうか今後もお側に置いてくださいませ。

 王司徒の為、なお一層お尽くし致します」

 王允は貂蝉に背を向けたまま口端を歪ませた。

「儂の為に尽くすか」

 王允は振り返ると貂蝉は頭を下げたまま微かに身を震わせ、許しを乞い続ける。

「ならば儂の為に余所に嫁げと言われたらどうするつもりだ」

 王允の言葉に貂蝉の言葉が一瞬途切れた。

「ご、ご容赦くださいませ……

 妓女のままで結構でございます。

 このまま王司徒の元に置かせてくださいませ」

 まるで飢えて餌をねだる仔犬のように弱々しく、涙声で必死に懇願する。

 その様子は呂布の元ならまだしも、仮に徐栄や他の者の元へ送り出したら自ら死を願うのではないかと思わせる。

 この女はそこまでに儂に依存しておったか。

 王允は満足そうに笑みを浮かべ、顎髭を指で摩る。

 だがしばらく優越感に浸っていた王允の表情が凍りついた。

 一瞬だが貂蝉の頭部に狐の耳、臀部から尾が見えた気がしたのだ。

 気のせいだろうか。

 いくら目を凝らしても、もう狐の耳も尾も見ることはできない。

「もうよい」

 絞り出された王允の声に、貂蝉は懇願の声を止めた。

 恐る恐る頭を上げると寝台から降り立った王允が険しい表情で見下ろしている。

「其方の心持ちはわかった。

 今夜はもう下がるがよい」

 しかし貂蝉はこの言葉を自身の懇願の受け入れとは取らなかった。

 王允へすり寄り裳を掴む。

「お許しください。

 私をお見捨てになさらないでください」

 房事の取り止めを自身の拒絶と捉えた。

 足元へ縋り、裳を掴み、太股を撫で、臀部へと手を這わす。

「やめんか」

 そう言って王允は貂蝉を押さえつけて自身から離そうとするが、貂蝉はその細腕からは信じられぬ力でしがみついて離れない。

 王允の背筋に冷たいものが走る。

 今更ながら寝所に呼んだ事を激しく後悔した。

「放しませぬ。

 私は王司徒のお側にありたいのです」

 繰り返し懇願する貂蝉の目を見て王允は戦慄した。

 さっき見た気がした耳や尾のような勘違いなどではない。

 狂気を帯びた目に納まる、細く縦に伸びた瞳孔。

 この目は人の持つものではない。

 李傕や楊奉から聞いた話が脳裏にまざまざと蘇る。

 やはりこの女は妖狐なのだ。

 糧として我が精を吸いとらんとしている。

 しかし王允が拒めば拒むほど貂蝉はすがりつき、貂蝉がすがればすがるほど王允はそれを拒む。

「儂の命が聞けぬか。

 今夜はもう下がれと申しているのだ」

 王允は声を荒げ、平手で貂蝉の頬を打った。

 叱責と平手で正気を取り戻したのか、貂蝉は呆然と寝台の上で座り込み、その瞳孔が広がっていく。

「もう一度命ずる。

 今夜はもう下がれ」

 静かな宣告に貂蝉は身を正して床に降り、深々と頭を下げる。

「見苦しく取り乱して大変申し訳ありません。

 王司徒の命に背き、お心を害するつもりはございません」

 貂蝉の落ち着いた様子を見て王允は大きく安堵の息を吐く。

「もうよい。

 下がって其方も休め」

 王允は部屋を後にする貂蝉の背を眉間に深い皺を刻んで睨む。

 貂蝉の足音が聞こえなくなると全身の力が抜け、倒れるように寝台に仰向けになった。

「我が元に内患、既にあり……!」

 激しい鼓動を押さえるように手を胸に当て、苦々しげに天井を睨みながら吐き捨てるように呟いた。

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