第十九話 縁談
後日、一区切り政務を終えた呂布は衣服を整え、王允の屋敷を訪れた。
用意した西域の葡萄酒や宝石、珍品を並べる。
王司徒の妓女、貂蝉を是非側室に迎えたい。
お許しいただければ司徒を義父と仰ぎ、師事いたす。
意図せぬ呂布の懇願に王允の頬が一瞬ひきつった。
自身が不義不忠と蔑む男の従属は必ずしも喜ばしい事ではない。
「呂騎都尉は確か、側室は持たないと広言されていたと聞いておりましたが、突然どうされましたか。
それに騎都尉程のお方であれば妓女などではなく、良家で自ら側室に望まれる方も多くありましょう。
妻に先立たれた私にとっては娘のような存在ではありますが、元は下賎の身。
とても呂騎都尉のような天下の豪傑には釣り合う女ではありません」
心中を察せられぬよう、努めて柔和な笑みを繕い断る。
だが呂布もまた易々とは引き下がらない。
「確かに私は今の妻を愛すればこそ、側室を置こうとは考えていない、と言った事があります。
しかし王司徒はご存知ないでしょうが、貂蝉と私は五原にいた頃恋仲でありました。
黄巾の乱に呼応するかのように襲撃してきた鮮卑に拐われ生き別れておりました。
しかし数奇な運命によってこの長安で再会致しました。
何卒私の想いを汲んでくだされ」
王允の背筋に雷のような衝撃が走る。
先日李傕や楊奉から聞いた話もその時は『もしかしたら』と思ったが、時間が経つ程に『いや、まさか』と思い直していた。
妖女とは波才が別に抱えていた妾の事かもしれない、と。
だがそれが繋がる。
まさかと思いながら李傕と楊奉の話を聞いてからは貂蝉を抱いてはいなかったが、それから体調は良い。
疑惑、憶測が確信に変わる。
鮮卑から拐われた塞外の漢人の妖女は貂蝉に間違いない。
押し黙る王允に呂布は深く頭を下げる。
「以前、偶然市井で貂蝉と鉢合わせた事があるのは王司徒もご覧になられたかとは思いますが、願わくば今一度貂蝉と二人で話をさせてはいただけないでしょうか」
何かを思案した王允はそれを承諾し、貂蝉を呼んで客間を後にした。
「徐栄にしつこく縁談を申し込まれ、王司徒の元を離れたくないと言っていたな」
確認するように聞く呂布に貂蝉は暗い顔で俯く。
「それは妖狐の血による思いか。
それとも親愛の情によるものか」
俯いたまま貂蝉は首を横に振る。
「それは私にはわかりません。
私は妖狐としてまだまだ未熟です。
この血の求めに抗える程の力を持っていません」
呂布は手の仕草で貂蝉を誘い、庭に降りる。
長安の春先の風はまだまだ冷たい。
「王司徒の子を宿さないのは妖狐の血に抗えぬからか」
貂蝉は一瞬だけ頭を上げて呂布の顔、表情を見てまたゆっくりと俯く。
その後沈黙が二人を包み、やがて意を決したかのように呂布が口を開く。
「俺がお前を側室に迎えたいと言っても、王允の元にあり続けたいと思うのか」
貂蝉は暫し呆然と呂布を見上げるが、みるみるうちにその瞳が涙を蓄えていく。
夕刻の冷たい風が雫を散らす。
貂蝉の肩が微かに震える。
風のせいではない。
「何故……何故もっと早く言ってくれなかったのです。
何故もっと早く、私を自分のものにしようとしてくれなかったのです」
言葉と共に、堰を切った様に涙が溢れだす。
呂布に歩み寄り、胸元を掴む。
「あの日鮮卑の襲撃で拐われ、多くの人の妾となり、妓女となった。
この血が求めるままに抱かれ、それでも私の心は満たされず、渇いたまま。
それは貴方の存在があったから。
忘れられたらどれだけ楽になれるだろうと思い、何度も忘れたいと願い、それでも忘れられなかった。
私を抱いた男はすぐに私を置いて逝ってしまい、でも王司徒というそれまでより強い主を得られて、ようやく貴方を忘れる事ができそうだったのに……
何故また私の前に現れて、私を惑わせるのです。
何故、何故あの頃に私を抱いて、自分のものにしてくれなかったのです」
自分の胸を掴み、拳で叩く貂蝉を呂布は黙ったまま受けとめ、哀しい目で見つめる。
「でも、全て手遅れなのです。
私は既に穢れ、この血は既に王司徒の精が流れ、縛られている。
血が王司徒の元を離れるなと、王司徒に従えと言っている。
貴方にはわからないでしょう。
でもそれが妖狐に流れる呪われた血の宿命なのです」
一頻り呂布の胸を殴打すると貂蝉は呂布の胸に顔を埋めた。
激しい嗚咽を漏らす貂蝉を抱き締める呂布。
「お前は穢れてなどはいない。
少なくとも俺はそうは思わん。
何人もの男の妾となり、妓女となり、その精を吸ってきたとしても、それでも生きてきたからこそ俺とお前は再会できたんだ」
その様子を王允は屋敷の二階から見下ろしていた。
顎に手をやり、じっと思案する。
その眼光は冷たく鋭い。
貂蝉が声を張ったところ以外の会話はろくに聞き取れなかったが、二人の様子を見れば互いの感情の察しはつけられた。
しばらくして貂蝉の嗚咽が落ち着くと呂布は耳許囁くように尋ねた。
「貂蝉、どうすればその血の宿命から解放されるんだ。
今まで何人もの主を渡り歩いてきたのだろう」
貂蝉は肩を震わせて深呼吸する。
必死に息を整えて答える。
「さっきも言ったように、私にはまだ血に抗う力がありません。
一つ手だてがありますが、それは今の私が望みません。
お教えする事はできません」
少し考え、呂布は貂蝉の目を見据える。
「いいか、貂蝉。
俺は既に王允にお前との縁談を願いこんだ。
それと引き換えに俺は王允の手駒となり、董卓を討つ。
そしてお前は建前上、王允の養女として俺の側室になるんだ。
養女であれば俺の屋敷からここに出入りしても違和感はない。
そうすればお前は王司徒の元を離れる事なく、徐栄の元へ行く必要もなくなる。
お前には酒に酔ってお前に暴を振るう輩の元にはいて欲しくないのが本音だが……
俺が考えうる、お前の願いを叶える最上の手段だと思う。
王允も意味もなくお前を手放そうとはしないだろう」
呂布を見上げた貂蝉は再び呂布の胸に顔を埋めた。
仄かに庭の梅の香が薫る。
「取り乱して、申し訳ありませんでした。
未熟な妖狐は人が思っている程、強くありませんので」
目を閉じる貂蝉の表情は安堵のそれにも似ていた。
一方、二人の様子を見届けた王允は何かを思いついたように笑みを浮かべ、家路につく呂布を見送ると家僮に筆と硯を用意させた。
「夜叉などと呼ばれていても、所詮は人の子の男よ。
一度女に目が眩めば思考が止まる。
古来より男は金と女で身を滅ぼすものだ。
そして勝ち残るのはそれを上手く利用する者だ」
自室で一人墨を刷りながら独り言を呟く。
眼光鋭く無地の竹簡に筆を走らせる。
儂は天道を正し、後世に漢朝救世の為政者として史に名を刻む。
色恋などと青臭い情に目を眩ます貴様には政のなんたるかも理解できまい。
儂が頂に立つ世に、貴様のような不義不忠の輩はいらんのだ。
だが儂の大願の一助を担うせめての対価として、主殺しに義父殺しの汚名を重ねて欲望のままに生きた野獣として史に名を残させてやろう。
書き終えた竹簡を紐で編み、丸めると王允は部屋を出ると家僮に言付けと共に竹簡を手渡した。
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