第十二話 蕾
牡丹の蕾を撫でながら独り言の様に貂蝉は答えた。
「あの方の事はもういいのです。
今の私には 王司徒がいらっしゃいます。
ただ、なぜでしょう。
時折あの頃の思い出が脳裏に浮かぶ時があるのです」
鶯は自分達から視線を逸らした貂蝉に諭すように言う。
「やっぱり図星だったようね。
若い妖狐にありがちだけど、血が求める短絡的な欲求に縛られて、現状に満足しようとしているのよ」
「貴女は他の妖狐よりも随分と若くから人間の社会に出る事になったから、人の性情に影響されている所もあるのかも。
人はある程度不満の無い環境を手に入れると変化を恐れるものだから。
今ある安定と小さな満足を失いたくないから。
でも本当の思いや願いは別にあるんじゃないのかしら」
「それはどういう事でしょう」
貂蝉は問いただす様な口ぶりの二羽の真意がわからず聞き返した。
「確かに王允は政務に長け、司徒の地位にまで上り詰めた人物よ。
そして俗人と違って、決してそれだけに満足しない野心家。
今までの主とは器量が違うわ。
とは言えそれは所詮俗人とくらべた話。
野心の正体は人の目と口を気にした、我が身可愛さの裏返し。
ただの保身でしかない」
「それに歳はもう五十を越えている。
妖狐の主となるには少し荷が重いんじゃないかしら。
あと何年妖狐の吸精に耐えられるかしら」
それを聞き、貂蝉の表情が曇っていく。
「そう言われても、私が今頼れるのは王司徒しかいらっしゃいません。
王司徒のお歳の事は承知しております。
そして私に寵愛賜る方は皆、私を置いて逝ってしまわれる……
私はこの未熟な蕾と同じなのです。
陽を浴び、水を吸い、雑草や虫を払うなどの世話をされて成長し、花を咲かせて愛でられる。
しかし、花咲いた瞬間から世話はなくなり、やがて散れば人は去り、人知れず枯れゆく。
すると私の中で、その方への想いは霞と消えてしまう。
花は吸い上げた水の事をどう思っているのでしょう」
すると今度は鶯の方がため息をついて言う。
「そうやって人間に影響されて感傷的になるのは妖狐の悪い所よ。
私達は妖魔よ。
私達は鶯の、貴女は狐の怪。
妖狐が主から精を吸うのは妖狐としての力を得る為、成長の為。
それ以上でもそれ以下でもないわ。
今王允を主としているのは成り行きとして仕方なかったにしても、今のうちから次に主とするに相応しい人物を見定めておくべきよ」
「そうして妖狐が力を得たところで何がどうなるのでしょうか。
私が成長する事で、大切な方を失うなら私は蕾のままでありたい。
それに王司徒以外の方を主に考える事など、できる筈もありません」
静かに呟く貂蝉に対して鶯は首を振る。
「違うわね。
貴女は現状に甘えて、考えようとしていないだけ。
だけど本当はあの男のようにより若く、より強い主を求めている。
あの頃の貴女は今と違って、何かに悩んだり、辛く苦しんだりしていなかった。
毎日が楽しく、幸せを感じていた筈よ。
それは王允なんかよりも心も体も強く、優しく、妖狐の主として相応しい力を持っていた、あの男が側にいたからでしょ。
だからこそ王允という主がいる今でも思い出されるんじゃないかしら」
貂蝉は否定も肯定もせず、二羽を見つめる。
「今貴女がどこまで本音で話しているかはわからないけど、つまらない感傷なんか捨ててちゃいなさい。
さっさと次の主となる男を見つけて、王允の精を吸い尽くしちゃうのよ。
そして私達を眷族にする位の力をつけてこの世を楽しみましょう。
国はこれからもっと楽しい事になるんだから。
その方が身の為よ。
さもないと貴女自身が私達妖魔を楽しませる娯楽の一つになりかねないわよ」
貂蝉は黙って答えず、目線を落とした。
『王司徒以外の誰かを主に考える事など、できる筈もない』
嘘をついたつもりはない。
偽らざる本音である。
しかし何かを取り繕おうとしている自分にも気付いていた。
そうは言ったものの、雒陽で王允に叱責された呂布への興味はなんだったのか。
あれこそが次なる主の候補としての興味だったのではないだろうか。
もし仮にそう問われれば、貂蝉には否定の言葉は浮かばなかった。
そしてそれを知ったら二羽の鶯は何と言うだろうか。
『それでこそ妖狐の本分』
と言うのだろうか。
しばらく沈黙の時が続いたが、やがて廊下の先から他の妓女の声が聞こえてくると二羽の鶯は挨拶もせずに飛び立っていった。
思わず声を出して鶯の飛び立った先を目で追った。
「あら、あの子が庭に出ている、って事はそろそろ牡丹の花が咲くようね」
「まぁ、それは楽しみね。
長安の牡丹を楽しめるなら雒陽から来たのも悪くなかったのかもしれないわね」
振り返るとこちらを眺めながら、楽しげに会話をする二人の妓女が廊下を歩いてきた。
貂蝉は軽く会釈を交わし、二人を眺める。
二人は実に楽しそうで、この長安で迎えた春を謳歌しているように映った。
都が長安に移った事で董卓政権が盤石になった事。
その董卓の為政いかんで我々の生活が激変するであろう事。
彼女達からすれば董卓の治世や反董卓連合、それに伴う長安遷都などの動乱も、自身の生活からは遠い他人事なのかもしれない。
自分は彼女らと違って考え過ぎ、悩み過ぎなのだろうか。
それとも彼女らは自分の生きる上での宿命と受け入れているのだろうか。
あるいは諦めているのだろうか。
「後で私も水の一つでもあげようかしら」
二人の妓女はそういい残して廊下を通り過ぎていった。
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