第十一話 牡丹

 貂蝉は庭に下り、植えられた草花に歩み寄った。

 貂蝉には少し変わった花の嗜好があった。

 開花前の、膨らみかけの蕾を好んで愛でるのだ。

 しかもその時は決まってどこか切なげな眼で眺める。

 咲いた花には興味はないのか、他の妓女達の様に美しさに喜色の笑みを浮かべ、愛でる事はない。

 貂蝉は牡丹に歩み寄り、手が届く膨らみかけの蕾に手を添える。

 そんな貂蝉を家宰は、もはや見慣れた様な目でしばらく眺めていたが、やがてその場を後にした。

 庭に一人残された貂蝉はゆっくりと牡丹の蕾一つ一つを丁寧に撫でてまわる。

「相変わらず花咲く前の蕾が好きなのね」

 声をかけられ、貂蝉は振り返るがそこには誰もいない。

 梅の木にとまって美声でさえずる二羽の鶯がいるだけである。

 この二羽の鶯を見た貂蝉は切なげな表情を微かに崩して語りかけた。

「おや、随分と警戒心の緩い鶯ですこと」

 本来鶯とは警戒心強く人前になかなか現れないものであるが、この二羽は飛び立つ事もなく、寧ろ貂蝉に顔を向けてさえずりを続ける。

「それとも鶯を真似てさえずるメジロなのでしょうか」

 少しからかうような表情をした貂蝉に話しかけられ、鶯は人の言葉を話しだした。

「戯れはその辺にして、相変わらず暗い表情をしているじゃない」

 鶯が人の言葉を発した事に驚く様子もなく、貂蝉は視線を牡丹の蕾に戻しながら答える。

「そうでしょうか。

 私はそんなつもりはないのですが。

 随分とお久し振りですが、なにか愉快な事でもございましたか」

 貂蝉の問いに鶯は交互に答える。

「この都に面白い気運があるのよ。

 妖魔のはしくれとしては見逃せないわ」

「人と妖、独善と我欲が入り交じって、この都だけじゃなくてこの国全体に波及する変事の気運よ」

 妖魔を自称した鶯はさえずる声を高くして言う。

「まぁ、また騒がしくなるのですね。

 やはり一体どの様な変事なのか、まではわからないのでしょうか」

 貂蝉は少し表情を曇らせて尋ねた。

 久し振りの発言が示す通りこの鶯の妖魔とは古い付き合いだが、この二羽が面白い気運と言い出すのは大抵この国には凶兆である。

 過去この鶯が貂蝉の前に現れる度に黄巾党の蜂起、大将軍何進の暗殺、反董卓連合の蜂起と大きな政変、動乱が起きていた。

 困った事に変事の気運を見つける事には敏いが、それがいつ、何が起こるかまではこの二羽にもわからないらしい。

 いや、もしかしたらわかっていて教えてくれないのかもしれない。

 何しろ人間に害をなすような力はないものの、変事の気運を見つけてはその一部始終を眺める事を楽しみとしている妖魔なのだ。

 喋り過ぎた事で、楽しみにしている変事を未然に防がれる様な真似をされたくない筈だ。

「そこまではわからないわね。

 まだ火種が燻っている状態。

 もしかしたら消えてなくなってしまうかもしれないわ。

 でも、もしかしたら一年か二年位かけて素敵な娯楽が見れるかもしれないわ」

「そうなのですね。

 どうかその変事が私の周囲には関係しないものであって欲しいものです」

 貂蝉は案の定、といった面持ちで呟く。

「あら、貴女の今の主は三公の一角、司徒王允よ。

 何かしらの政変が起きたら、何かしら関係せざるを得ないわよ」

「まぁ、せいぜい貴女は巻き込まれないようにね」

 そう言うと二羽は牡丹の枝へ飛び移り、まるでここからが本題と言わんばかりに、貂蝉の視界に割り込んで話を続ける。

「それはそうと、相変わらず満たされた生活をできていないようね。

 まぁ王允に限らずだけど、妖狐を満足させられる人間なんて、そうそういるわけではないから仕方ないのかもしれないけれど」

 妖狐と呼ばれた貂蝉は少し慌てて周囲を見渡す。

 それを見た二羽はからかうように笑う。

「大丈夫よ。

 誰も聞いていないわ。

 そもそも、人がいる前に私達が現れる訳ないでしょ」

 貂蝉は少し怒ったような表情を浮かべ、二羽に向き直った。

「そうは言っても、ここは王司徒のお屋敷の中です。

 私の他にも家僮がお仕えしております。

 不用意な事は言わないでください。

 それに王司徒にご不満なんてありませんわ。

 今私が平穏に暮らしていられるのは全て王司徒のお陰なのですから」

 窘め、弁明する貂蝉に二羽は笑い続ける。

「あら白々しい。

 私達が何十、何百年の付き合いになると思っているの」

「そうよ。

 どう言葉を偽っても、貴女の目を見ればその真意なんてすぐにわかるのよ」

 貂蝉は二羽の鶯をじっと見つめるが、やがて観念したように首を振ってため息をついた。

「貴女達には敵いませんね。

 確かに私の心は満たされてはおりません。

 妓女という身分とは言え、今までに比べたら随分といい暮らしをさせてもらっているのは自分ではわかっているのですが」

 貂蝉は眉尻を下げ、大きく肩を落とす。

「まったく、欲が深いったらないね。

 平民は飢えに苦しんで、董卓兵の略奪やら陵辱に怯えて暮らしていると言うのに。

 司徒の庇護と寵愛、美味しい食事、暖かい布団。

 まぁ、私達に比べたら多少自由がない面はあっても、鳥獣妖魔に追われる事もない。

 これ以上何を求めるというのかしら」

 そう詰る様に言う一羽に、別の鶯は宥める様に言う。

「あら、欲とはそういうものよ。

 己に欠けたるものあればそれを満たさんと欲し、満たされればまた欠けたるものに気付く。

 それの繰り返しでこの世の中は回り廻っていくのよ。

 そして色々な物語を生み出し、私達を楽しませてくれるのよ」

 宥められた鶯は思い直したように相槌を打ち、改めて貂蝉に尋ねた。

「そうだったわね。

 人間でも妖魔でも、無欲に生きるものは一見美しくてもつまらないものよね。

 で、今の名前は貂蝉だったわね、貴女は今何が満ち足りてないのかしら」

 貂蝉は首を振って答える。

「わかりません。

 別に今の生活に不満はありません、これ以上何かを望むつもりもありません。

 それでも何故か心は満たされないのです。

 何が満たされていないのか、それもわからないのです」

 それを聞いた二羽は互いに顔を見合わせ、一羽は少しからかう様に小さく笑い、そしてもう一羽は少し悲しそうに溜息をついた。

「それは本当にわかっていないのかしら。

 それともわからない振りをしているのかしら」

「貴女、まだ忘れられてないようね。

 塞外の人ならぬ漢人の男。

 名前は……何といったかしら」

 そう言われると貂蝉は無意識に視線を牡丹の蕾に移した。

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