第十話 長安
初平二年二月、孫堅は陽人にて胡軫率いる董卓軍に勝利した。
しかし殿を務める呂布の精強なる武を目の当たりにし、深追いは手痛い反撃を食らうと判断して追撃を断念。
そして己の武威を誇示した呂布もまた無為に城砦を攻める事はせず、友軍を敵の追撃の及ばないであろう距離まで時間を稼ぐと、後を追って粛々と雒陽へと引き上げていった。
先に撤退し、雒陽に帰還した胡軫の軍は鎧は泥にまみれ、隊列も乱れ惨憺たる風体。
一方数刻遅れて雒陽に帰還した呂布軍は全身を返り血に染め、一糸乱れぬ隊列を組んで堂々とした行軍であった。
あまりに対照的な光景を目にした者は、胡軫の兵馬は泥にまみれ敵から逃れる怯懦、呂布の兵馬は血の汗を流して戦う豪勇、と対比した。
敗戦に激怒した董卓は、自身の指示をことごとく無視した指揮を執った胡軫を一切の弁明も聞かずに罷免し、その身を平民に落とした。
大きく肩を落とす胡軫と入れ違いで呂布は董卓の待つ謁見の間に通された。
「呂布」
見るからに不機嫌そうな表情の董卓は傍らに置かれた小さな卓上に置かれた数巻の竹簡を指す。
「お前からの報告は全て目を通した。
胡軫はお前が足を引っ張ったなどと言っていたが、実際の働きも聞いている。
弁明ではなくお前の意見を聞く。
この戦、胡軫ではなくお前が指揮を執っていたならば勝てたか」
呂布は臆する事無く、堂々と胸を張り答える。
「私が総大将として軍権を任されていれば決して孫堅に遅れなどとりませぬ」
「ならばなぜ胡軫を斬らなかった」
董卓の問いに呂布は面食らい絶句した。
軍規に限らず長く中華が規範としてきた儒の教えとして、上下の関係は絶対。
かつてその範を犯して主であった丁原を斬殺した呂布ではあったが、まさか上官に当たる胡軫を斬らなかった理由を問われるとは思いもよらなかった。
董卓は更に続ける。
「お前が従わなければならぬのは胡軫か、儂か。
儂の元におる将であるならば、儂の命に逆らう者は上官であろうと斬り捨てよ。
それをせぬは共に逆らうと同じと見よ。
そして逆らうならば、命を睹して儂が満足するだけの結果を残せ。
儂はその結果を評する」
そこまで言うと董卓は一巻の竹簡を呂布の足元に放る。
竹簡を巻いた紐がほどけ、転がり広がる。
成廉に送らせた胡軫に関する報告の竹簡だ。
「お前を我が義子としたのは、丁原をその手で斬ってきたからだ。
腐り果てた儒者が押し付ける、『主殺し』などという汚名を恐れぬ心胆があろう
儂の名の旗を掲げる軍を率いるならば、副将といえども大将の気位を持て。
上官が無能であれば斬り捨て、自らが代わりとなって勝利を届けよ。
お前は筆ではなく矛に生きる者であろう。
小賢しく立ち回り、媚びる弱将は儂の軍には必要ない」
董卓は声を荒げて言うと、卓上に置かれていた手戟を呂布目掛けて投げつけた。
呂布は咄嗟に飛び退き、手戟は転がる竹簡を貫いて床に突き刺さる。
「胡軫は昔からのよしみと過去の貢献があったゆえ、土地財産全ての没収の上で平民に身分を落とすだけに済ませた。
儂は今、お前を殺すつもりでその手戟を投じた。
それを避けたのであれば、お前が生きる価値を見せてみよ。
今回は不問としてやるが、例え義子とて次はないぞ」
一方的に言い渡された呂布は眉間に皺を寄せ、床に突き立つ手戟を見つめたまま黙って膝をついて拱手した。
華雄の首を挙げ、戦いに勝利した孫堅だったが、その後陽人から雒陽へと動く気配はなかった。
そこには成皋に駐屯していた李傕の暗躍があった。
胡軫や呂布の敗北を逆手に取った董卓は李傕に指示を出し、孫堅の上司に当たる袁術に謀略の手を回した。
袁術はかつて董卓の難から逃れる為に南陽に逃れ、丁度董卓討伐の為に長沙から北上してきた孫堅と合流して影響下においた。
孫堅の持つ軍事力を欲した袁術と名門袁家の名声を旗印に欲した孫堅の利害が一致したのだ。
袁術は上表して孫堅に破慮将軍と豫州刺史を領させ、そしてその軍事力を使って南陽の支配に成功した。
しかし孫堅が雒陽に向けて進軍を続けるうち、袁術はある不安を感じていた。
孫堅が雒陽に至った時、第二の董卓となって自分に反旗を翻すのではないか。
そして陽人の戦いに勝利した孫堅は言わば雒陽の喉元に刃を突きつけた状態となった。
そんな折、袁術の耳にある噂が入る。
孫堅に野心あり。
雒陽に攻め入り董卓誅殺後、自らが相国に成り代わる意思あり。
孫堅に恐れと疑いを持った袁術は糧食等の輸送支援を中断した。
無論この噂こそ李傕の放った間諜が流したものである。
更に李傕は後方支援の断たれた孫堅に懐柔の手を回した。
これは孫堅に拒否されたが、孫堅は陽人から魯陽へ自ら赴き袁術に釈明。
袁術は陳謝して支援を再開し、孫堅は再び陽人に戻ったが、その時には既に陽人の戦いから一ヶ月以上の時間が経過していた。
その間に雒陽から長安へ資財全てを移し終えた董卓は市街のみならず宮城に至るまで完全に焼き払い、自らも西の都長安へと移った。
雒陽と長安の間には函谷関という難攻不落と名高い関がある。
その堅牢さから時に長安の東の盾となり、時に雒陽の西の盾となった。
そしていつの頃からかこの関より東の地域は関東、西の地域は関中、あるいは関西と呼ばれた。
かつて漢の高祖劉邦が都として築いた長安は、光武帝によって都が雒陽に遷された後も関中の中心であった。
董卓からしてみれば都を長安に遷す事で郷里の隴西にも近くなり、統治や人脈面でも雒陽以上に強い影響力を持てる。
そして反董卓連合を組む関東の諸侯に対して難攻不落の函谷関を盾にすることができる。
地の利、人の利を同時に得た董卓の体制はますます磐石となった。
これに頭を抱えるのは廃墟と化した雒陽に入城した孫堅をはじめとする関東諸侯だけではない。
董卓に命じられ、先に長安へ移っていた王允である。
雒陽へ進軍する孫堅の勝利を願った王允だったが、その結果まさか董卓が雒陽の宮城に至るまで燃やし、廃墟にするとは考えもしなかった。
あくまで王允は、長安遷都は一時的なものだろう、と考えていた。
しかし完全に廃墟とされては戻りようもなく、復興するにも膨大な時間を必要となる。
そして反董卓連合軍が長安を攻略する拠点にもできない。
またその反董卓連合は袁紹派と袁術派の派閥争いが激化して自然崩壊してしまった。
その中で打倒董卓に最も精力的だった孫堅が袁紹派の劉表との争いの中で戦死し、もはや関東諸侯に函谷関を越えて董卓を打倒できる勢力は無いと断言してもよかった。
これに安心したのか董卓は長安に着いてしばらくすると太師(皇帝の師)を称して外出時には皇帝のみに許された青蓋の車を乗り回し、董旻や董璜ら一族を朝廷の高官に就けた。
朝廷、政庁内にも董卓の密偵は放たれ、少しでも不満を漏らせば反逆の芽として告発された。
逆らう者は目を抉られ、舌を抜かれ、耳を削がれ、生きながらにして熱湯煮え立つ大釜で煮殺された。
市井では董卓兵による略奪や誘拐が止まず、長安は阿鼻叫喚の絶えぬ魔都と化した。
悲鳴は天にこだまし、怨嗟が地を這う。
董卓はその光景を見ながら、満足気に笑って酒を飲んだという。
董卓の凶行に気を病んだか、皇帝は病に伏せがちになった。
朝政を任される王允の心労は増し、酒量が増える。
時に王允自身も体調を悪くし、出仕できない事もあった。
その日王允は体調を悪くし、自宅にて療養していた。
熱はないものの、どうにも咳が止まらず体の節々が痛む。
しかしのんびりと寝ていられるわけではない。
部下の士孫瑞が見舞いも兼ねて政務の指示を仰ぎに来る。
そしてこの日も見舞いが来た。
王允より席を外すように言われ、貂蝉は家宰に連れられて王允の控える部屋を出た。
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