第十三話 邂逅

 人語を発する鶯が飛来した数日後、牡丹の蕾は艶やかに開花した。

 妓女達は手が空けば庭に出て世に聞こえる長安の名花を眺める。

 この日も王允は体調を崩し、政庁に出仕しなかった。

 そして見舞いに訪れたのはいつもの士孫瑞ではなかった。

 寝台から身を起こす王允の元へ家僮が案内してきたのは騎都尉の呂布。

 そういえば長安に来てからも何度か政庁内で見かける事はあった。

 しかしこうして面会するのは陽人の戦いに赴く時以来だ。

「幾ばくか、痩せられましたな。

 あまりご無理はなさいませぬよう」

 自分の体調を気にかけてくれるのは素直に感謝するが、内心は穏やかではない。

 何しろ政庁内でもどこで董卓の息のかかった何者かが目を光らせているのだ。

ましてこの男は董卓の義子。

 見舞いとかこつけて何かを探りに来たのではないか。

 そんな疑心が胸に去来する。

 そして一方では苛立ちもする。

 これだけ気苦労していれば痩せもする。

 しかもその原因はこの男の義父のせいではないか。

 努めて笑みを湛えたまま襟を正す。

「呂騎都尉のお見舞い、痛み入ります。

 歳のせいなのか、この長安の風土に馴れるのに少し時間がかかっているようです。

 ですが体調が戻りましたらまた太師の治世の為に尽力いたしますので、太師にはその様にお伝えください」

 社交辞令にも近い王允の言葉に呂布は笑みを見せる。

「お歳などとはご冗談を。

 太師は常々、王司徒がいれば朝政は心配不要と仰られております。

 司徒府に限らず王司徒を頼りにされている者も多くおります。

 何卒お大事になさってくだされ」

 なんとも涼やかで爽やかな笑顔。

 今この瞬間では過去に主を斬り、戦場で飛将と怖れられる男とはとても思えない。

 宮中の女官もこれに騙されるのだろうか。

 王允がそんな事を思案する中、貂蝉が頭を垂れて部屋に入ってくる。

「失礼致します。

 騎都尉様がお見舞いにお持ち下さった、西域の葡萄でございます」

 そう言って頭を上げた貂蝉は呂布の顔を見て、雷に撃たれた様に身を固くして大きく目を見開いた。

「なんと呂騎都尉、見舞品までお持ち頂いていたとは痛み入ります。

 貂蝉、こちらこそが我が并州が天下に誇る豪勇、呂騎都尉だ。

ご挨拶せよ」

 促された貂蝉は懸命に感情を押し殺して挨拶をする。

「は、はい……

 王司徒の元で家妓を務めております、貂蝉と申します」

 以前会ってみたいと言った呂布の、目鼻立ち、声色、体躯、姿勢。

 戸惑い、混乱、困惑。

 幾つもの何故と、それを追いかけるようにまさかが頭の中を駆け巡る。

 複雑にな感情が胸を去来する。

 驚き、惑い、困り、そして喜び。

 瓜二つの別人であって欲しい。

 同一人物であって欲しい。

 相反する二つの期待を抱きながら、ぎこちなく頭を下げる。

 そんな様子の貂蝉を見て王允は柔和な笑みを浮かべつつも、密かに苦虫を潰す。

 これだから女共は。

 この男は以前に義も忠もなき野獣と言ったではないか。

 上面で心乱される。

 視線を移して呂布を見ると、呂布もまた目を見開いて、驚きと困惑の表情で貂蝉を見つめている。

「き、騎都尉の呂布、字を奉先と申す」

 司徒の権威を前ですら不遜と捉える態度であった呂布が、身を強張らせている様子を見て王允は思わず薄笑みを浮かべた。

 所詮こやつも徐栄と同じか。

 それなりの立場にありながら『正室を愛しているからこそ側室は取らぬ』などつまらぬ事を広言しながら宮女との内通を噂され、今もこうして貂蝉に心惑わされておる。

 いや、そもそも天子と董卓のどちらの宮女か知らぬが、内通などという不義不忠を隠し誤魔化す為に側室を取らぬと言っているのではなかろうか。

 その結果未だ跡取りの男子も出来ぬというのだから、つくづく救えぬ不孝者。

 貂蝉を見つめたまま動かぬ呂布を眺め、王允は内心でそう嘲る。

 当時の儒教の考えとして後継となる男子が出来ずに家系が絶える事は先祖に対する最大の不孝であり、身分ある者が側室を取る事は家系を残す為にも常識的な事であった。

 王允は貂蝉に差し出された篭から葡萄の身を一つ手に取り、無造作に口に放り込む。

「ふむ、西域の葡萄は中華の物とまた別の香りと味わいがありますな」

 王允に呼び掛けられ、呂布は我に返った。

「さ、左様でございますな。

 これを漬け込んで造ったという酒も格別の物でございました。

 では、あまり長居しては逆にお体に障りましょう。

 本日はこの辺でお暇いたしますが、体調が戻られましたらご用意致しますので、快気祝いにでも我が邸宅で是非」

 拱手する呂布はどこか居心地悪そうにそう答える。

 王允は表向きはにこやかに頷く。

 しかし内心では、取り込んだとしても内患になりかねないこの男にこれ以上すり寄られても面倒だ、と思うのだった。


 その呂布はある日、娘にせがまれて数人の家僮を伴って市井に足を運んでいた。

 長安は西域諸国との交易の窓口にも当たり、市場には雒陽で見られないような珍しい品々が見られる。

 足を運んだ店の近くには朝廷の高官の邸宅も並ぶ地域で、騒ぎを起こすような董卓兵もいない。

 瑠璃や玻璃といった宝石から、先日王允の見舞いに持っていった葡萄、胡麻や胡桃などの食材、そして香料などが並ぶ。

 色とりどりの宝石に負けじと目を輝かせる娘を優しく見守っていた呂布だが、食材を物色する家妓とおぼしき女に目を止めた。

 家僮の一人に娘の面倒を見ておくに伝えると女の背後に立つ。

「久しいな、銀蓮。

 変わらぬ美しさだ」

 呂布の呼び掛けに、女はハッとして振り返った。

 そして声の主が呂布である事に気付くと一歩後退りながら呂布を睨んだ。

「止めてください。

 今の私は王司徒の家妓、貂蝉です。

 それとも貴方も昔の呼び名で呼ばれたいですか」

 銀蓮と呼ばれた貂蝉の目は、一介の家妓が官位ある者に対して向けるにはあまりに鋭く、何かを責めるように反抗的でもあった。

 眉は釣り上がり、日頃王允や徐栄の前での物憂げな印象は微塵もない。

 だが呂布は無礼とも言える家妓の目付きも意に介さない様子で答える。

「俺は構わない。

 既に俺を飛将だの夜叉だのと呼ぶ者もいる。

 今更なんと呼ばれても周りは何とも思わんだろう」

 貂蝉はしばらく無言で睨み付けていたが、やがて眉目に込めた力を抜き、物憂げな表情で首を振った。

「私は困ります。

 あれからようやく王司徒の下で平穏な生活を手に入れられたのですから。

 それを乱すような事はなさらないでください」

 呂布は貂蝉の言葉を噛み締めるように押し黙った。

 だが二人の間にできた沈黙を嫌う様に言葉を絞り出す。

「あれから……十年以上になるのか。

 どうしていたんだ」

 呂布の問いに貂蝉は答えない。

 呂布から視線を反らして遠い目をする。

 そして交易品を手にはしゃぐ娘を見る。

「騎都尉様こそどうされていましたか。

 太師の元に参られてからの事は人伝に聞いておりますが……

 あの子はご息女ですか」

 呂布は少しの間を置き、自分を見ない貂蝉に小さく頷いて答えた。

「そうだ。

 妻は……あれから……あの時から一年後、娶った」

 貂蝉は呂布の言葉を無視するかの様に店の主人に注文をし、それを王允邸に届けてもらうよう伝えた。

 注文が済むと呂布を見ぬまま再び尋ねる。

「騎都尉様は今、お幸せですか」

 問いに対して呂布は静かに、簡潔に答える。

「悪いとは思っていない」

 それを聞くと貂蝉は再び呂布に向き直った。

「私も今の生活を悪いとは思ってはおりません。

 お互いに変な気を起こして、それを壊さないように致しませんか」

 そう言うと貂蝉は、まるで逃げるように店の外に向かった。

 返事をしないまま後を追う呂布。

「あくまで俺を他人行儀に職位で呼ぶか」

 呂布の言葉に貂蝉は店の外に出て足を止めた。

「私達は騎都尉様と王司徒の妓女。

 互いの立場を考えれば、呂騎都尉のお名前を親しげにお呼びするなど出来る筈もありません。

 お互いに今の幸福の為にも、過去の事は忘れましょう」

「ならば、なぜそうも暗く哀しい顔をしている。

 昔のお前は普段からそんな眉を落とした表情はしてはいなかっただろう」

 その言葉に振り返る貂蝉は何かを堪える様に唇を噛み、その目は潤んでいる。

「貂蝉」

 突然、貂蝉の後ろに止まった馬車から声がかかった。

 その声を聞いた瞬間、みるみると貂蝉の目の潤みや表情が消えていく。

 貂蝉は馬車へ振り返り、頭を垂れた。

「王司徒、気付かずに申し訳ありません。

 今朝がた仰せつかった品物、店主様にお伝えし、夕刻までにはお屋敷に届けて頂けるとの事です」

 馬車上から貂蝉を見据える王允は頷く。

 そして拱手する呂布に、まるで今気付いたかの様に挨拶をする。

「これは呂騎都尉、先日はお見舞い痛み入ります。

 今日はこのまま失礼しますが、また過日お礼の一つもさせてくだされ」

 そう言って王允は貂蝉に馬車に乗るように促した。

 ゆっくりと走りだす馬車を見送る呂布に、店から出てきた娘が声をかける。

「父上、あの方はどちらですか。

 随分とお偉そうな方と、お綺麗な方でしたが」

 呂布は少し屈んで娘と目線を合わせ、娘の頭に手を置く。

「朝廷のお偉い方とその家妓さ。

 で、欲しい物はあったかな。

 あと、母上へのお土産も」

 娘は元気よく頷き、そして不思議そうな顔をする。

「うん。

 でもあの人、家妓なのに同じ馬車に乗せてもらえるのですね」

 呂布は立ち上がり、もう姿の見えない馬車が去って行った方向を見る。

「そうだな。

 ま、そういう事なんだろうな」

 齢十になるかならないかの娘はますます不思議そうに首を傾げ、馬車が走り去った方角を遠い目で眺める父を見上げるのだった。

 一方走り去った馬車の上では貂蝉が王允の隣で問いただされていた。

「奴とは何を話していた」

 呂布に挨拶した時とうって変わり、その目は鋭く怒気が込められている。

「先日のお礼と、他愛もない世間話でございます」

 貂蝉は特別動じる様子もなく静かに答える。

「さっきの様子、先日初めて奴と顔を合わせた時の様子、ただの世間話だけとは思えんが」

 王允はそう言って睨み付けるが、貂蝉が表情一つ変えないのを見ると、舌打ちをして言葉を続けた。

「以前、奴は義も忠もない主殺しの野獣、と話したであろう。

 主を余所に人の妓女に近付こうとする奴も奴だが、お前も何を考えておる。

奴は危険な輩だ。

 不用意に近付くな」

 怒鳴りはしないがその声は語気強く、苛立ちが混じる。

「はい、申し訳ありません。

 以後くれぐれも気を配り、注意致します。」

 貂蝉はじっと馬車の進む道を見据えたまま、一切逆らう事なく恭順の意を示した。

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