第六話 弛緩

 野営地に到着した呂布が胡軫の天幕に入ると、胡軫は既に甲冑を脱ぎ捨て寝台の上で営妓からの按摩を受けていた。

「騎督、ご苦労であった。

 で、あの後、城砦の様子はどうであった」

 俯せのまま顔だけを向ける胡軫。

「はい。

 今なお私の一部隊を城砦周辺に兵を伏せるにいい場所がないかなど探索を行わせていますが、私が現場を退く段階では特に動きは見られませんでした」

 呂布の答えに胡軫は心地よさそうに吐息をもらした。

「であればその部隊が変に刺激したりしなければ、もう孫堅からの夜襲もあるまい。

 今夜はもう休むがよい」

 そう言って弛緩した表情で目を閉じる。

「いえ、大督護。

 相手は相国も警戒する孫堅でございます。

 籠城を避けたい孫堅が逆に夜襲を仕掛けてくる可能性は無いとは言い切れません。

 最低限の防柵、土塁は築いておくべきと存じます」

「ならば騎督の隊だけはそのようにするがよかろう。

 我が隊は相国のご指示通りに、今夜はもうゆっくり休み明日に備える」

 胡軫はそう言って身を起こし、営妓の腰に腕を回して抱き寄せる。

 呂布は黙って一礼して天幕を出た。

 董卓は確かにしっかりと兵を休めて孫堅に当たれと言った。

 籠城は避けたい孫堅に対して気力体力充実させて当たり、孫堅が城砦に籠ってから腰を据えて包囲する。

 既に広成からこの地に到る行軍や往復するだけで終わった陽人の城砦への夜襲で兵士の疲労は限界に達している。

 とは言え天幕を張っただけ、襲撃があったらひとたまりもない状況下で兵士達はどれだけ心休める事ができるだろうか。

 防柵や土塁を築いてあるとないとでは心持ちに雲泥の差がつく。

 そして心休まらぬ状況で体を休める事などできる筈もない。

 自陣に戻ると流石は高順。

 呂布からの指示無くとも防柵や土塁を築かせている最中だった。

「高順、このまま最低限の防柵土塁を築き終えたら休め。

 明日はいつも通り文遠を先陣に出る。

 お前と夜叉の爪牙は俺が使いを出すまでここで控えていろ」

 用意された自分の天幕に入った呂布は冠を脱ぐ。

 付き従う兵卒が鎧を脱ぐのを手伝おうとするが手で制する。

「白湯を」

 呂布の言葉に兵卒は駆け足で天幕を出ていった。

 呂布は寝台に腰掛けると目を閉じて大きく息をつく。

 今のこの軍には命を賭け、血で血を洗う戦場を目前にしてあるべきものがない。

 勇壮、雄志、緊張、狂気、そして恐怖。

 疲労が全てを覆い隠し、陣の空気が弛緩しきっている。

 その全ては胡軫の行動に端を発している。

 呂布はこれに似た空気を過去に経験している。

 それは故郷の五原が鮮卑に襲撃された時、一兵卒として徴兵された初陣の時だった。

 軍を率いた名も知らない指揮官は鮮卑を侮り油断し、それが伝播した軍は鮮卑騎馬隊の速さに撹乱され、騎射に為す術なく、突破力に陣形を切り裂かれ敗れた。

 最末端の兵卒でしかなかった呂布にはどうする事もできずに故郷は蹂躙され、両親は殺され、少ない財産であった牛馬は奪われ、そしてかけがえのない恋人を拐われた。

 全てを失った呂布はその後も徴兵の度に応じては武功を上げ、いつしか并州刺史丁原の右腕と呼ばれるまでに取り立てられていった。

 時は経ち呂布は初陣の指揮官が誰であったのか、そしてその指揮官が敗戦の責を全て部下に押し付けていたという事を知った。

 呂布は後にその指揮官を斬り殺した。

 勿論その指揮官を殺したところで恋人も両親も牛馬も返ってはこない。

 憎むべき一番の元凶は鮮卑による襲撃だ。

 だがそれに対して指揮官の油断がなければ自分は全てを失い、悲しみを背負う事はなかったのではないか。

 勝敗は兵家の常とは言うが、どんな戦でも指揮官が敵を侮り気を弛めれば敗北し、敗者には残酷な末路が待っている。

 戻ってきた兵卒から受け取った椀を片手に、呂布は天幕を出た。

 空にはあの時と同じく、満ちた月が煌々と輝いている。

「其方、名は何と申す」

 椀に白湯を注ぐ兵卒に問う。

「はい、并州雲中の秦と申します」

 呂布に問われ、秦と名乗る青年は顔に喜色を浮かべて答えた。

 雲中郡は呂布の郷里五原にも近い。

 そう言えば丁原に仕えていた頃から軍中で何度か顔を見た事がある気もする。

 自分に仕える配下に、あの時の自分と同じ思いをさせたくはない。

 再び天幕の中に入った呂布は微かな揺れを感じた。

 寝台に腰掛け、耳を澄ませば遠くに馬蹄の響きが聞こえる。

 数は多くない。

 城砦周辺を探索させていた成廉と魏越が戻ってきたのだろう。

 馬蹄の響きが徐々に大きくなるにつれ、陣営の少し離れた所が騒がしくなる。

 何の騒ぎだ。

「秦、様子を見てこい。

 成廉と魏越が戻ったのであればここへ案内しろ」

 騒がしいのは胡軫の天幕のある方だろうか。

 ゆっくりと休む、などと言いながら何を騒いでいるのか。

 まさか夜襲と勘違いしたのではあるまいか。

 湯気立つ椀を口に運びながら顔をしかめる。

 斥候を残してきた事は胡軫に報告したではないか。

 間もなく秦に連れられた成廉と魏越が怪訝な面持ちで天幕に入ってきた。

「失礼します。

 ただいま戻りました。

 ここと城砦の位置関係から見て、兵を伏するに良さそうな場所は無さそうです。

 ただ城砦の先に生い茂る林があり、包囲する前には警戒が必要かと思われます」

 成廉の報告に呂布黙って頷き、湯気のたつ椀を二人に差し出して労う。

「で、殿。

 胡軫の奴、鎧も着ずに馬に乗ってどっかに駆け出していきましたが……何かありましたか。

 連中の陣だけ防柵も土塁も築いてないし」

 魏越の言葉に呂布は頭に手をやり項垂れた。

「放っておけ」

 呆れ果て、ため息混じりに吐き捨てる。

 防備を築いていれば、斥候の帰還か夜襲かを落ち着いて判断するくらいの余裕は持てた筈だ。

 いや、そもそも斥候部隊が出ている事を他の兵に伝えていたかも怪しい。

 そして自身も動揺した兵につられて夜襲と思い込み逃げ出したのかもしれない。

「成廉、今日の胡軫の采配振りをまとめ、相国に報告の伝令をたてておけ」

「かしこまりました」

 成廉と魏越が拱手して天幕を出ていく。

 一人になった呂布はようやく鎧を脱ぎ、寝台に寝そべった。

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