第七話 開戦

 夜が明ける直前、張遼は陣内に妙な気配を感じて目覚めた。

 鳥のさえずり馬の嘶きに混じり、引きずるような重い足音、絞り出されたようなため息。

 天幕を出ると、夜明け前の風が肌を刺す。

 白みかけた空の下、虚ろな目をした兵が張遼の目の前を素通りしていく。

 皆一様に胡軫の部隊の幕舎へ向かっている。

「お前ら、胡大督護の兵か」

 声をかけられた兵は目の下に隈を作り、生気の抜けた表情で張遼に会釈だけして通りすぎる。

 まるで僵尸の行進のような光景だ。

 そして行進の最後尾の騎馬を見て目を剥いた。

「胡……大督護……」

 胡軫は張遼の姿を一瞥すると一つ舌打ちをした。

「い、戦の前に……この周辺の地理を見て回ってきた」

 何かを言い訳をするように、聞かれてもいない事を言うと胡軫は足を止めずに去っていった。

 周辺の地理。

 嘘である事はわかった。

 馬上の胡軫は鎧も着ずに、厚手の袍一枚だけを身に纏い、寒さで身を震わせている。

 何があったにせよ、強がる姿が滑稽に映る。

「あれが大将で、奉先殿はどうしよう、ってんだ……」

 張遼は并州雁門郡馬邑県に四百年続く富豪の次男に生まれた。

 体は頑健、力は強く、気は剛胆。

 丁原に見出だされて従事に取り立てられた。

 高順や成廉、魏越の中で最も若く、まだ粗削りながらも斬馬剣をよく振るい、騎射に優れ、戦術もよく解する。

 丁原に仕えていた頃から呂布の武勇に魅せられ、兄のように慕い、丁原殺害後も呂布を主として従った。

 呂布からも可愛がられ、字で呼ぶ事を許される若者は朝日を眺めながら頭を掻いた。

 随分と中途半端な頃合いに起きてしまった。

 仕方なしに樽に貯められた水に手拭いを浸して顔を拭く。

 微かに残っていた甘い眠気が吹き飛び、全身に緊張が走る。

 昨日の疲れはまだ残るが体に重さは感じない。

 先陣を任される朝。

 体調は悪くない。

「随分と早いな、文遠」

 振り返るとそこには腕組みをした呂布が立っていた。

「いや、奉先殿こそ早起きに過ぎませんか」

 呂布は陽人城砦の方角を見つめ、呟く。

「待っている」

 張遼は怪訝な面持ちで呂布の見つめる方角に目を向ける。

 漂う朝靄の中に何があるのか、目を細める。

「炊煙だ」

 よくよく目を凝らせば、丁度陽人城砦のある辺りに朝靄とは異質な白煙が微かに立ち上っている。

「あぁ、敵も随分と早起きなんですね」

「食と睡眠が不足すれば体力は奪われ、気は挫かれる。

 逆に過度になれば体は鈍く、気は緩む。

 十分な備えで夜襲を未然に防ぎ、十分に休む。

 朝は早く起き、早く食をとる。

 我らがこれから食事を取り、攻め上がる頃には万全の態勢で迎え撃てる。

当たり前の事だ。

 だがその当たり前の事を当たり前に出来る者は存外多くない」

 諭すような呂布の言葉に張遼は同じように腕を組む。

「昨晩の時点で今日の戦の準備は整っていたわけですか」

「胡軫のように例え個の武勇に優れようと、自分の事しか考えない者が戦に及ぼす影響などたかが知れてる。

 だが大局を見て、人を動かす者が戦に及ぼす影響は大きい。

 敵を敗残兵と侮るな」

 張遼は表情を引き締め、承知と一言答える。


 朝食を済ませて軍を進めると、陽人の城砦前には二つに分けられた部隊が横陣を敷いて待ち構えていた。

 行軍中は欠伸を噛み殺す様子を見せていた胡軫だったが、敵軍を目の前にすればさすがに引き締まった顔つきな変わる。

 分けられた部隊はそれぞれ兵五千程だろうか。

「我らも軍を二つに別ける。

 呂騎督は右軍に当たれ」

 指示を受けた呂布は右手の軍に兵を進める。

 兵を動かし隊列を組ませる間、呂布はじっと敵の二軍を見つめる。

 南船北馬の言葉が示すように、江東や江南と呼ばれる長江流域は移動手段に船がよく使われる。

 その為重荷になる騎馬はあまり軍に編成されない。

 だが右軍に比べて左軍は明らかに騎兵が多い。

 長江流域で勇名を馳せ、江東の虎の異名を持つ孫堅。

 彼の元には程普という勇将がいる。

 幽州出身で騎馬の扱いにも長け、孫堅軍の騎兵隊を率いていると聞く。

 この事から左軍を率いているのは程普と見ていいだろう。

 そして胡軫が孫堅軍全体を騎馬の戦いに不慣れ、と侮れば手痛い逆襲を食らうことになるだろう。

「文遠、千の騎馬で敵の陣を動かせ。

 騎射と脚を使って十分に撹乱し、足並み崩して斬り込め」

 小高い丘に陣取った呂布は、対峙する右軍を睨んだまま張遼に指示を出す。

「承知」

 張遼は馬上で斬馬剣を高々と掲げる。

「鼓を鳴らせ。

 先陣、張遼隊出るぞ」

 その声に呼応して鼓が鳴らされ、兵が気勢をあげる。

 横陣に真正面からではなく、角度をつけて迫る張遼。

 孫堅軍は手槍と盾を持つ歩兵を前衛に待ち構える。

「弓を構えよ」

 張遼の号令に騎兵は馬を走らせたまま弓に矢をつがえる。

 そして矢の射程に入った瞬間、一斉掃射を号令する。

 孫堅軍の前衛は盾を頭上に、後衛は矢を放って応戦するが、その矢が届くより 先に張遼は部隊を旋回させて射程から逃れる。

 後衛が矢を放てば下がり、放たなければ自らの射程にまで踏み込んで射かける。

 鮮卑との戦いの中で学ばれた騎兵の戦術だ。

 矢を無駄撃ちするだけで一方的に出る被害に焦れた孫堅軍は兵を前進させるが、いつ斬り込んでくるかわからぬ騎馬の動きを警戒するあまりに前衛の隊列が少しずつ乱れていく。

「まずはよし。

 成廉、胡軫の方の様子はどうだ」

 小高い丘から張遼の様子を確認し、呂布が成廉に聞く。

「はっ、胡軫は鶴翼の陣を敷いている模様です」

 呂布はゆっくりと成廉を振り返って聞き返した。

「鶴翼の陣だと」

 黙ってうなずく成廉を見て、呂布はうつむき加減で嘆息する。

「高順と夜叉の爪牙を呼べ」

 魏越がこれに驚いて目を丸くした。

「まだ開戦したばかりだというのに、もう爪牙を呼ぶのですか。

しかもただ陣形を組んだだけで」

 思わず声を上げる魏越を成廉が制し、呂布に代わって答える。

「魏越、この野戦で我々が目指すものは何だ」

「ああ。

 俺達の野戦の強さを見せつけて城に籠らせる事だろ」

 成廉はゆっくりと頷く。

「そうだ。

 我々に求められているのは敵をあの城砦に押し込む事だ。

 殲滅する必要などない」

 鶴翼の陣とは左右の部隊を舞い上がろうとする鶴の翼の様に押し上げ、敵を包囲し殲滅する陣形である。

 だがその為にも左右に兵を多く配置する必要があり、大将のいる中央が手薄になる。

 数に勝り、腰を据えて戦える態勢であればこそ威力を発揮する陣形であるが、逆に中央を突破されると指揮系統が分断され建て直しが非常に困難になる。

 言わば完勝か完敗必至の陣だ。

「それに鶴翼の陣は我らの軍の様に騎馬を多く編成した軍には相応しない。

 騎馬の強みである機動力と突破力が生かしにくいからだ。

 更に昨日我らの帰陣を夜襲と勘違いして逃げ出した胡軫の兵は、文遠の話では今日の明けに戻ってきたらしい。

 早期に圧倒できればいいが、大した睡眠も取れずに昨日の疲れを残す胡軫の兵ではそれも期待できない。

 恐らく胡軫は武功を求めるあまりに、鶴翼の陣を敷いて賭けにでたのだろうが……」

 成廉の説明を聞いた魏越は少し難しい顔をして聞き返す。

「じゃ、敗けか」

「結論を急くな」

 魏越の単純な問いに成廉は少し呆れた表情をして答えた。

「戦は何が起こるかわからん。

 まだわからんからこそ、殿も夜叉の爪牙を今のうちに呼ぶのだ」

「なるほどねぇ。

 でも聞く限り分の悪そうな賭けだな。

 付き合わされる側はたまったもんじゃねぇな」

 呂布は二人のやり取りを他所に張遼と対面の敵の動きを睨む。

 今使いを出し、高順と夜叉の爪牙が到着するまで一刻(二時間)はかかるだろうか。

 胡軫の軍がどうかなるかもそうだが、その前に自身が対面する軍をどうにかする必要もある。

 左の戦場が喧騒に包まれる。

 胡軫軍と孫堅左軍がぶつかり合ったのだろうか。

 そしてそれに続き、控えていた自隊の兵達が喊声を上げる。

 張遼が足並みの乱れを十分と見て、孫堅右軍に斬り込んだのだ。


 矢雨をくぐり抜け、隊の先頭を切って走る張遼が檄を飛ばす。

「槍を恐れるな盾に怯むな。

 影に隠れて死線に立つ怯者など蹴散らせ」

 それに騎兵は呼応し、奮い立ち、雄叫びを上げる。

 鍛えあげられた軍馬の突進に吹き飛ばされる歩兵達。

 その突進を逃れたとしても、張遼の剛腕が振るう斬馬剣に盾諸とも弾き飛ばされ、後続の騎兵の繰り出す矛の餌食となる。

 無論孫堅軍もただやられているだけではない。

 密集した歩兵は互いを支え合って盾で壁を作り、騎馬の動きを牽制する。

 歩兵が数人毎に密集する事で陣形の中に空間が生まれ、道になる。

 その道を進む張遼達に手槍が投げられる。

 手槍に体を貫かれ落馬する兵士、足に絡ませ転倒する騎馬。

 それでも張遼は騎馬の足を止めない。

 密集した盾の壁に斬馬剣を薙ぎ、強引に塊を散らす。

「河の瀑布の如き勢いで敵陣を穿て」

 舞い上がる土埃を両軍の血飛沫が沈め、人馬の雄叫びと悲鳴が交差する中、再度張遼の檄が響く。

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