第五話 夜襲
振る舞われた羹で腹を満たして体を温めたとは言え、それだけで兵馬の疲労が癒えるわけがない。
月の光が照らす兵馬の足取りは重い。
営妓として徴集された女達もまさか日没後の行軍に付き合わされるとは思っていなかっただろう。
幌もなく寒風吹きさらしの粗末な馬車に乗せられ、必死に手を擦り、足を擦り、身を震わせている。
さすがに憐れみ、呂布は営妓達に毛皮を与えるよう指示をした。
広成の地を発ってからおよそ十数里。
陽人までの道のりを折り返した位だろうか。
小高い丘を手前に呂布は胡軫に進言した。
「大督護、陽人を手前にここは陣営を築くに適した地。
輜重隊や営妓達を戦場に連れていく訳にもいきません。
この地に仮の陣を構えるのがよろしいかと思います」
胡軫は暫し思案し指示を出す。
「騎督、其の方の隊から兵千をここに残し、陣を張らせろ」
御意、と手を合わせて呂布は高順を呼ぶ。
徴兵された兵士の中には報酬の前金分だけを得て逃亡する者も多い。
本隊から別けるには信の置ける将と兵でなければならない。
呂布は高順に子飼いの私兵を預けてこの地に留まらせる。
呂布の高順に対する指示を聞きながら胡軫は心中ほくそ笑む。
天下に知られる呂布の強さは単に呂布個人の武勇だけではない。
先に挙げた腹心の部下を含め、丁原に仕えていた頃から従う子飼いの私兵。
その全てが鮮卑の度重なる襲撃から并州を守り、戦い抜いてきた精鋭だ。
その中でも特に騎射に優れ、選りすぐられた千の騎兵は夜叉の爪牙と呼ばれ、その武威は万の軍勢に匹敵すると喧伝される。
高順へ指示を出す呂布の口から爪牙という単語が放たれたのを胡軫は聞き逃さなかった。
その精鋭部隊が夜襲に参加しないとなれば呂布の隊としての武力は当然落ちる。
その分自身の功を目立たせる事ができる、と胡軫は算段した。
胡軫の脳裏には、自らが先頭に立って陽人の孫堅軍を蹂躙する絵図が描き上がっていた。
しかし令のおもねりに乗せられて描いたその絵図は陽人の城砦に到着すると同時に脆くも崩れ去る事となる。
行軍を再開して到着した城砦は抗戦の強い意志を示す様に幾重の壕が掘られ、逆茂木が設けられていた。
城壁の上では城砦全体の士気を示す様に無数の篝火が焚かれ、孫の文字が刺繍された軍旗が風にはためく。
篝火に照らされた壁上の兵士は遠目にも居眠りなどしている様子はなく、眼下に目を光らせ敵襲を警戒している。
ここに至って胡軫はようやく自身の失策に気付いた。
夜襲に限らず奇襲とは敵がその備えを見落としているからこそ意味を為し、成果を得られる。
しかしこの城砦を見る限り、備えは十分。
城壁の向こうには更なる備えがあるかもしれない。
今この暗がりの中で攻めるのは大きな危険を背負う事になりかねない。
相国の指示に従っておけばよかった。
だが後悔したところで覆水は盆に返らない。
胡軫は奥歯も割れんばかりに歯軋りをした。
相国から大督護の任を受け、呂布を副将に持ち、敵は敗残兵の寄せ集め。
そして令の佞言を真に受け、舞い上がっていた。
だがここで何もせずに軍を退けば、強行に強行を重ねた行軍は無為に兵を疲弊させただけの徒労に終わってしまう。
判断の誤りを自ら認める事になる。
矮小な自尊心がそれを許さない。
そんな胡軫の心中を察したのか、あるいはただ立ち尽くすだけのこの状況に痺れを切らしたか、呂布が進言する。
「大督護、遠目にはありますが敵は十分な備えをしているように見えます。
今夜は兵を退き、鋭気を養って明日の攻めに備えた方がよろしいかと存じます」
呂布の進言を受け入れるのは癪ではあるが、今の胡軫には助け舟になった。
少し項垂れ、苦々しく絞り出すように言う。
「騎督がそこまで言うのであれば、その言を採り全軍退く……
念の為に騎督は殿を務め、無事野営地に到着したら我が天幕に来るように」
そして胡軫は呂布の返事も聞かず、不機嫌そうに鼻を鳴らして馬首を返した。
胡軫の後ろ姿を見送った呂布は成廉と魏越を呼ぶ。
二人に隊で最も健脚な騎兵五百を与え、周辺の探索を指示する。
相国の言の通りであれば孫堅は一度城を出て迎撃してくる。
野戦を前に兵を伏すに適した地がないか調べる為だ。
「奉先殿、この戦……」
張遼の問いかけに呂布は頷いて答える。
「ああ、既に敗北が見えている。
今の兵の疲労を考えれば、明日は兵を動かさずに休息に当てたいところだ。
だがそれでは今日の強行軍が全くの無意味になってしまう。
本来ならばこの夜襲を止めるべきだったが、功に焦る胡軫には何を言っても止める事はできなかっただろう」
すると張遼は手を振って笑う。
「いや、そうじゃなくて。
奉先殿はわざと敗けようとしておりませんか。
で、責任は胡軫に押し付けて、自分は敗戦の被害を最小限に抑えたという評価される。
そんな戦い方をしようとしているようにも見えますが。
この夜襲だって普段の奉先殿なら絶対に止めているでしょう。
ま、俺は胡軫の奴は嫌いだし、奉先殿に従うだけですが」
張遼の言葉に呂布は一瞬、面食らったように目を丸くし、そして口元に手をやって小さく笑った。
「滅多な事を言うな、人聞きが悪い。
胡軫が相国の言うことも聞かず、無知無謀で自分勝手な指揮を執ってるだけだ。
それに、奴がこれ以上馬鹿な事をしなければまだやりようはある。
まぁ、胡軫が気に食わないのは俺も同じだがな」
窘める呂布だが、言葉に怒気は含まれていない。
「俺達も戻るぞ。
お前は明日先陣で体張ってもらうから、戻ったらすぐに休め」
「承知」
張遼は表情を引き締め、拱手して答えた。
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