第四話 強行軍
精兵を率いて雒陽を出立した胡軫と呂布は雒陽より南へ約二百五十里、陽人からは距離数十里の広成を目指す。
徐栄に敗れたとは言え、孫堅は兵法の大家である孫武の子孫と言われ、数々の賊や反乱討伐で活躍してきた歴戦の将。
董卓自身も過去に反乱鎮圧の軍中で孫堅と馬を並べた事があり、その時の事から反董卓連合軍で最も警戒すべき敵と見ている。
董卓は二人に二つの指示を与えた。
雒陽を出たその日のうちに広成に到り、兵に十分な食事と休息を与えて気力を充実させ、翌日より攻める事。
次に攻城戦は被害が出ぬよう無理な攻めはせずに時間を稼ぐ事。
孫堅はまずは迎撃に出るだろうが、董卓軍の士気の高さをみれば籠城する。
敗残兵を集め軍の立て直しの最中である孫堅にとって、連合軍本隊と切り離される籠城は望ましくない。
しかし一方で孫堅もまた騎馬を主力とする董卓軍の精強さを知っている。
武名高い呂布の存在だけでなく、攻めてきた兵の士気の高さを知れば、苦渋の選択ではあっても退いて城に籠らざるをえない。
城に閉じ込められ孤立すれば、やがて兵糧の不安も出てくる。
加えて董卓は連合軍本隊の諸侯数人に対しての調略の手も回している。
その様な状況で連合軍本隊が胡軫や呂布を相手に自軍の損害を覚悟で孫堅へ援軍を出す事は考えにくい。
つまり胡軫と呂布が孫堅を陽人に封じ込めてしまえば反董卓連合軍の動きは事実上停止する。
そうなってしまえば諸侯も長くは自領を留守にしておくわけにはいかず、遠からず連合軍は崩壊するという算段だ。
無論その為にも胡軫と呂布は一日でも早く広成に到着し、孫堅の目を引かねばならない。
胡軫と呂布は兵馬を駆り立て、急行する。
雒陽から広成までは通常の行軍速度ならば丸二日は掛かる。
その距離を食事はおろか、休息もとらずに一日で行軍する。
吐く息も白くなる季節だが兵馬は皆歯を食い縛りながら滝のような汗を流し、体を覆う鎧の隙間から湯気が立ち上る。
兵は日頃から体を鍛えている専業の兵士ばかりではない。
徴兵されてきた農夫や奴婢もいる。
行軍の速度についていけず脱落する者も現れる。
適時落伍者数を報告する伝令に対して胡軫は面倒臭そうに、馬一頭分後方に控える呂布の方へ手を振る。
その都度呂布は忌々しそうな表情を見せながらも伝令を労う。
「強行軍に落伍者はつきもの。
相国もそれを見越した兵をお与えくださったのだ。
いちいち気に止める事でもなかろう」
報告を押し付けておきながらの胡軫の言い草に、呂布の眉間に皺が寄る。
「とは言え相国よりお預かりした兵であればいたずらに数を損なう訳にもいきますまい。
それに落伍者の数によっては広成に着いてから再編も必要となりましょう」
呂布が苛立ちを押し殺すように答えると、胡軫は振り向き加減で呂布を横目に見る。
「ならばその再編も呂騎督に任せようか。
どうせ敵は敗残兵の寄せ集め、孫堅の首を取ってしまえばこの戦は終わりよ」
呂布は思わず片眉を吊り上げ、胡軫を見る。
この男は何を言っているのだ。
この戦は孫堅を陽人に封じ込めるのが主の目的。
敵を迎え撃つ野戦ならまだしも、籠城戦で孫堅の首を標的にするとなればどれだけの兵を犠牲に払う事になるか。
「大督護、相国からのご指示では此度の戦は孫堅の首ではなく自軍の被害を抑えて時間を稼ぐものだった筈ですが」
すると胡軫は呂布の忠言に一つ舌打ちすると、声を荒げだした。
「相国より軍を預かったのは俺だぞ。
その俺の為に、相国が望む以上の戦果を得ようとは思わんのか。
戦いを長引かせず、将の首級が得られた方が相国も喜ばれよう」
「左様か」
呂布は胡軫の怒声に表情を変えず、まるで意に介していない様子で短い返事をする。
「徐栄も相国の命で抃水で曹操と鮑信を破った後、梁でたまたま遭遇した孫堅を奇襲で破った事が大きく讃えられたのだ。
ならば俺も相国の期待を越えた戦果を得ねばなるまい。
敗残の寄せ集めを足止めした程度で十分な訳がなかろうが。
その為にも、騎督には十分に働いてもらうからな」
威圧するように言い、胡軫は前方へ向き直った。
呂布は無言のままゆっくりと視線を移し、胡軫の後ろ姿へ鋭い眼光を送る。
元々短気と言われているが、それに以上に胡軫には苛立ちを抱える理由があった。
董卓が雒陽で実権を握ってから、董卓軍中にも涼州出身以外の者も増えた。
徐栄しかり、この呂布しかり。
胡軫は董卓がこの時代の人間としては珍しく、出自に強いこだわりを持たない事を知っている。
董卓自身が才や能力を感じれば郷里、身分は勿論、異民族や過去に罪を犯した者であっても取り立て重用する。
反面、功を為さぬ者には冷酷非情な仕打ちが待っている。
そんな中、新参で幽州出身の徐栄が大功をたてた。
旧知の李傕は成皋、郭汜は中牟に駐屯し、牛輔指揮の下、関東諸侯の動きの鈍化に一役買っている。
自分も遅れをとってはならない。
胡軫は功を焦っていた。
呂布や胡軫達が広成に到着したのは日が暮れて間もない頃合いだった。
歩兵は膝を地につけ、騎兵も内腿が痺れて力が入らないのか一人で下馬する事すらままならない。
行軍中に報告された落伍者の数は千を超えた。
将兵の誰もが疲れきっていた。
しかし呂布は疲労を微塵も感じさせない様子で、部下に陣の設営を指示する。
胡軫の使いに呼ばれた呂布は部下の高順に野営の設営指揮を任せて胡軫の元へ向かった。
天幕に入ると胡軫は既に甲冑を脱ぎ、炙った干し肉を挟んだ胡餅を頬張っていた。
その胡軫の傍らには中年の文官が立っている。
見たことのない顔だ
「こちらは広成の令、孟殿だ。
幾ばくかではあるが、好意で糧食と営妓を供出してもらう事になった。
これも相国のご威光のお蔭だな」
胡軫に紹介され、媚びた笑みを浮かべる文官に対して、呂布は手を合わせて形式的に礼をとった。
好意。
言葉通りの筈がない。
董卓が雒陽入りしてからの涼州兵による略奪や凌辱の話は各地に広まっている。
董卓軍を恐れ、へつらい、積極的な恭順を示す事で、先に越えられたくない線を引いたのだろう。
全てを奪われるならば、自ら先に供して少ない搾取に抑える。
そしてその糧食や営妓は自らが住民から搾取したものだ。
人を統べ、地を治める者としての誇りも気概もなく、醜く卑しい姿に映る。
そんな令の卑屈な防衛策だが、胡軫には十分な効果があったようだ。
「兵糧だけではなく営妓までとは気が利く。
早速後でこの天幕に二人ほど案内してもらおうかの。
一日中馬を駆ってきた故、内腿が痺れてかなわんのだ。
按摩の一つでも施してもらおうかの」
満足げな笑みを浮かべる胡軫に令は下卑た笑みを浮かべて相槌を打つ。
「今夜はゆっくりと鋭気を養っていただき、明日に備えられるのがよろしいかと存じます。
胡大督護や呂騎督が雒陽を出撃された報は孫堅にも伝わっておりましょう。
もしかしたら既に逃げ支度をしておるかもしれませんな」
見え透いたおもねりだ。
だがこの言葉は胡軫の焦燥に火をつけてしまったようだ。
胡軫の顔から笑みが消えた。
孫堅が逃げてしまっては戦功を上げられない。
「いや待て。
騎督、まだ軍を進めるぞ。
今から夜襲だ」
ついこの瞬間まで営妓との戯れを楽しみにしている様子だった胡軫の意趣返しに、胡軫の部下が驚きの声を上げる。
古くから胡軫に従う猛将、華雄である。
「今、何と。
兵は疲れきって、まだ食事も取っていないのですぞ。
それに相国様からのご指示に反する事に……」
「黙れ華雄、だからこそ今から夜襲なのだ。
まさか孫堅も我々が雒陽を発ったその晩のうちに夜襲して来ようとは思っておるまい。
ここで孫堅を打ち破れば、相国からも雷霆の如き進軍と称賛されるだろう」
有無を言わさぬ胡軫の口調に華雄は口を閉ざす。
呂布は目を閉じ、静かにため息をついてから口を開いた。
「大督護がそう申されるのであれば従いましょう。
しかし、せめて兵馬に糧食を与えてからにしてくだされ」
「食事……まぁ、仕方あるまい」
誰よりも早く胡餅を頬張っていた事は棚に上げ、胡軫は不満ながらも渋々といった様子で承諾した。
天幕を出て自陣へ戻る呂布の耳に、食後の行軍を知らされた兵卒達の失望、落胆の声が聞こえる。
「高順、設営した天幕を畳ませよ。
これから食事を取り、陽人に進軍との大督護の命令だ」
自陣に戻り指示をすると高順は目を丸くし、唖然とした表情で呂布に問う。
「今から進軍……
殿、お言葉ではありますが大督護は正気ですか」
呂布はその問いに平然と答える。
「正気ではある。
ただ愚劣なだけだ。
副官の華雄も困惑していたぞ」
絶句する高順の背後で吹き出す声がした。
「文遠、何が可笑しい」
高順に窘められ、字で呼ばれた若者は口元を左手で覆って右手を振る。
呂布の部下の一人で張遼だ。
「いえいえ、失礼。
しかし少し困りましたな。
そんな奴でもこの軍の総大将である以上、その指示には従わなければならない。
となると、何かあった時にとばっちりを食わないようにしなければなりませんな」
その言葉に呂布はそうだ、と頷く。
「文遠、魏越と成廉はどこにいる」
「魏殿は食事を急かしに、成殿は軍馬の状態を確認している筈です」
高順、張遼、そして魏越と成廉。
かつては呂布と共に丁原に仕えた同僚であり、今は腹心の部下である。
「食事をしたらまた進軍だ。
すぐに天幕を畳ませ、少しでも兵に体を休ませろ」
呂布の指示に二人は拱手して答えた。
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