第三話 激励

 王允は腹心の士孫瑞と二人で政庁の自室に籠っていた。

「正式に陽人への討伐軍の派遣が発令された。

 胡軫を大督護に、騎督には呂布が任じられた」

 そう言うと王允は咳き込み、白湯の湯気立つ茶碗に手を伸ばした。

「大丈夫ですか、王司徒」

 案ずる士孫瑞を王允は手で制しながら白湯を飲む。

「今日は、一段と冷えるからな」

 士孫瑞は首を振って答える。

「何を言われますか。

 ここ一年程、数日に一度は酷く咳き込んでいらっしゃいますではありませんか。

 それに私と初めてお会いした頃から大分痩せられました。

 何かご病気ではありませぬか」

 黄巾の乱が終結した辺りから、時々酷く咳が出て止まらない日がある。

 初めは月に一日あるかないかであったが、徐々にその間隔は短くなり、最近では五日に一日位の間隔になっている。

 一度典医に視てもらったが、典医も原因はわからないという。

 王允は白湯で喉を潤し、咳を抑え込んで答える。

「案ずるな。

 儂にはまだ為さねばならんことがある。

 今この身に何かあって死んだら後世の史家に何と言われるか。

 儂は暴君を止められなかった暗愚な司徒と史に名を残す事になってしまう」

 王允は政庁の窓から覗く雒陽の街を指す。

「見よ、この無惨に変わり果てた街を。

 昨年は『金は世に流れてこそ価値を持つ』などとほざいて歴代天子の陵墓を暴き荒らしおった。

 四夷の蛮族ですら中華の威光を畏れずとも、祖への敬意は持つと言われるのに」

 王允の言葉に士孫瑞は小さく頷く。

「先年からの反董卓連合軍も河内、酸棗、南陽に駐屯しているものの、積極的に動いているのは孫堅だけ。

 その孫堅も徐栄に敗けて陽人で立て直しを計っている状態でありますしな」

 士孫瑞の言う通り、反董卓連合軍の動きは鈍かった。

 董卓は娘婿の牛輔を指揮官に、成皋や中牟に軍を駐屯させて連合軍に睨みを効かせている。

 だがそれ以上に連合軍の諸侯は董卓打倒後の権力闘争を見据え、自軍の兵力を温存すべく諸侯同士で牽制しあっていたのだ。

 しかも連合内で袁紹とその異母弟の袁術が折り合い悪く、袁紹派と袁術派の二つに別れていた。

 意欲的に動いていた曹操や鮑信は徐栄に敗れた後、連合軍に見切りをつけて自領に戻ってしまった。

 もはや連合軍とは名ばかりで、陽人にいる孫堅軍だけが雒陽を目指している状態であった。

「これで孫堅が再び破れ、自領に帰る事になれば……この街の惨状は雒陽に留まらず中華全土に広がり、ひいては儂らの名声が完全に地に堕ちる事にもなりかねんぞ」

 そこまで言うと王允は再び激しく咳き込み、白湯に手を伸ばした。

「しかし率いるのは胡軫に加え副将があの呂布ですぞ。

 どういう経緯があったか詳しくは知りませぬが、かつての主君を斬った不忠者ながらも、その武威は徐栄に勝るとも劣らぬとか」

 茶碗の白湯を飲み干した王允は目を瞑ってしばし天を仰ぐ。

「よい、儂に考えがある。

 彼奴等の性状を鑑みれば、軍中に不協和音を鳴らすのは難しくはなかろう」

 胡軫は武勇に秀で董卓に気に入られているが傲慢な上に短気で、部下はおろか同じ涼州出身の同僚からも嫌われている男であった。

 一方の呂布は并州出身でありながら、やはりその武勇で董卓に気に入られて義父子の契りを交わしている。

 共に主から気に入られている古参と新参の臣は往々にして互いに好意を持たぬもの。

 ましてやその古参は同郷の旧知からも嫌われるような男だ。

「どうされるのですか」

 士孫瑞の問いに王允は一つ咳払いをすると、ゆっくりと胡几から腰を上げ答えた。

「儂らは明後日に長安へ発つ事になっている。

 呂布の所に、その挨拶と出陣の激励に行ってくる」


 姓は呂、名は布、字を奉先。

 宮中や政庁に出入りしない貂蝉までが美丈夫の噂を聞くその容姿は、歩けば忙しなく働く女官も手を止めて所作に見入り、口を開けば話好きの女官も言葉を止めて声に聞き入る。

 また身の丈は一丈に及び鍛え上げられた体躯、煌びやかな鎧を纏い、柄まで鋼で拵えた戟を軽々と振るい、赤兎と呼ばれる董卓より贈られた西域産の名馬を駆る姿は味方のみならず敵の将兵まで恐怖と戦慄の裏で憧れすら抱くと言われる。

 将としてはまだ若いながらもその武技は戟や騎馬の扱いだけでなく弓にも優れ、漢の武帝の下で匈奴討伐に活躍した李広になぞらえて飛将とも呼ばれる。

 しかし一方で、事の詳細な経緯は明らかにされていないものの、かつての主君である丁原をその名馬欲しさで斬り殺し、董卓に寝返ったとも言われている。

 その武勇と過去の行いから文武官の中でも賛否は別れる。

 予定になかった司徒の訪問にも呂布は動じた様子もなく、拱手して迎える。

 王允にはそれが不遜と映る。

 幽州の更に辺境の地の出身である徐栄ですら司徒の権威を前に緊張で身を強張らせるというのに、呂布にはそれがない。

 中華の権威、引いてはそれを定めた天子の威光を畏れ敬わぬ獣。

 それが王允の呂布に対する本音だった。

 魑魅魍魎が巣食うと言われる呂布の郷里。

 王允も魑魅魍魎が比喩だとは思っているものの、漢人離れした体格や女官の嬌声を呼ぶ容姿を実際に向かい合うと、人喰らい、女を色に惑わす悪鬼妖魔の化身ではないかと勘繰ってしまう。

 実際に宮中では複数の宮女と密通している等という噂も真しやかに囁かれている。

「呂騎都尉は明日出撃されますが、私を始め、司徒府は明後日に長安に向かいますのでその挨拶に参りました」

「それはそれは。

 司徒殿自らこんな所にまでわざわざ回っておられるのですか」

 司徒自ら各所に出立の挨拶をしていると思い違いしたのか、呂布は目を丸くして驚きと戸惑いの表情を見せた。

「いえいえ、私が挨拶に来たのはここと相国の所だけでございます。

 何せ呂騎都尉は若くして天下に名を知られ、私と同郷の并州出身。

 同郷の身として誇らしく思っている呂騎都尉が出撃されるとあれば、その戦果を想像して胸を熱くし、励ましに参りたくもなりましょう」

 そこまで話すと呂布は少し表情を崩した。

「左様でしたか。

 陽人に籠る孫堅は、一度は徐中郎将に破れたとは言え相国も戦上手と警戒する油断ならぬ相手。

 それを前に司徒殿からの激励、感謝いたします」

 慮外の返事に王允は少し面食らう。

 てっきり無謀にも似た覇気に溢れ、自らの評判に過信し、敵を侮る言葉が吐き出されると思っていた。

 将としてはまだ若く、自身の武を頼りに血気に逸っておかしくない年代の筈だ。

 つまらぬ。

 王允は気を取り直して更におだての言葉を並べる。

「とは言え大将の胡大督護も勇猛で知られる方、そして呂騎都尉も付いておられるのですから、勝利は火を見るより明らかでしょう。

 長安で呂騎都尉の戦勝とご活躍の報を楽しみにしておりますぞ」

 『胡大督護』その名を発した瞬間、呂布の頬が微かに引き攣るのを王允は見逃さない。

 小さな溜め息混じりの相槌に王允は呂布の本音を確信した。

「ただ、胡大督護は人の武を借りて己の功とする方、との噂を聞いたこともあります。

 呂騎都尉が出る此度の戦、勝利は間違いありませんでしょうが、もしその功の全てが胡大督護に拐われてしまう事になっては少し口惜しいですな。

 胡大督護は相国と同郷で気に入られている方でもありますし」

 黙って聞く呂布の眉間に少しずつ力が入っていく。

「ですが……」

 王允は心中ほくそ笑み、少し間を取った。

 やはりこの男、胡軫を好ましく思っていない。

「あり得ない事ですが、もし呂騎都尉のご活躍がありながら敗れる事があれば、相国のお怒りを買って胡大督護は……」

 呂布はそこまで聞くと、何かを察したかのような笑みを浮かべ王允の言葉を遮る。

「なるほど。

 司徒殿、ここを発つのは明後日と申されておりましたな。

 ではそれまでに相国にお伝えくだされ。

 この呂布が出る以上、万が一にも敗北はあり得ない、と意気軒昂に申していたと。

 激励、感謝致します」

 呂布の表情を読み取った王允は服の袖で顔を隠すように高く手を合わせて頭を下げる。

「先に参る長安で、ささやかながらも戦勝の酒宴をご用意してお待ち致します」

 個の利害、欲望、思惑が絡み合い、不協和音を鳴らすのは反董卓連合軍に限らない。

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