ニ 暗殺

「――十津川の中井様ですね。へぇ、わかりました。では、どうぞお入りくだせえ」


 危急を装う俺の言動に、近江屋の手代も警戒を解いて俺を中へと招き入れる。


「失礼いたす……」


 顔を引っ込めた手代について俺も脇戸を潜ると、羽織っていた黒い合羽の下で袖から鉤爪状に湾曲した鎌のような短刀を取り出す。一応、腰に大小挿してはいるが、こちらが先祖代々、我が一族が暗殺の際に用いている愛刀だ。


 今はこうして得物に頼る有様であるが、日の本へ渡った初代から数えて二、三代、まだ血の濃かった先祖達の時代には自らの爪で標的を仕留めることができたのだと伝わる……この鉤爪型の短刀はその伝統の名残なのだ。


「才谷先生は上にいらっしゃいます。さ、どうぞこちらへ」


 手代は土間から板の間へ上がると、俺を招きながら階段を登って行こうとする。


 背後から全体像を覗うとますます恰幅がよく、商家の手代にしてはずいぶんと大柄の男だ。もとは相撲取りか何かだったのか……あるいは坂本が用心棒として雇った者なのかもしれない。


 どの道、一緒にいられては面倒だ……。


「ぎゃあっ…!」


 俺は素早く間合を詰めると階段に一歩足をかけた手代の背中へ、鉤爪状をした短刀の刃を素早く振り下ろした。


 分厚い肉を割き、骨を断って腑蔵にまで切先が突き刺さった感触……絶命した手代は断末魔の叫びをあげ、大木を倒すかのようにドダン…! と板の間へと倒れ伏す。


「藤吉ぃ〜! ほたえな〜!」


 すると、その物音に二階の部屋からはそんな大声が聞こえてくる。


 〝ほたえな〟……土佐の言葉で〝騒ぐな〟という意味だ。おそらくは今切った手代がはしゃいで暴れているとでも思ったのだろう。


 声の主は坂本か? 本人であってくれれば御の字だ。


 俺は短刀についた血をべろりと舐めてから袖にしまい、手代の遺体を跨いで階段を登ってゆく……ああ、血を舐めるのは無意識にやってしまう俺の癖だ。狩りと同じで仕留めた獲物の血はなんとも美味に感じるものである。


「ごめんつかまつる。才谷梅太郎先生に折り入ってご相談がございまする」


 階段を登り切ると、俺はそこにある襖に向けてそう声をかける。


「おお、わしが才谷じゃ。早う入りや」


 中からは先程と同じ男の声が聞こえてくる……やはりこいつが坂本か……。


「ごめん……」


 しかし、襖を開けると中には二人の男が畳の上であぐらをかき、お銚子の載った御膳を前に酒を酌み交わしていた。


 先祖代々、夜眼は利くので部屋の中の様子はよくわかる……。


 もう一人も坂本と思しき男と同じような年恰好だ。やはり土佐の脱藩浪士か何かだろうか?


 邪魔なことにも連れがいたか……まあ、いい。この場に居合わせたのが運の尽きだ。悪いがともに始末させてもらおう。


「で、おまんはどこのどなたさんじゃ?」


「それがしは十津川郷士の中井庄六郎と申しまする」


 尋ねる奴の前に正座して座ると、俺は腰の大刀を帯から抜いて刃を外側向きに床へと置き、手代に見せたのと同じ偽名の名刺を差し出す……無論、こちらに敵意はないと奴を油断させるためだ。襲うのならば腰の物・・・と、愚かにも武士は思い込んでいる。


「十津川の中井? そんじゃ、もしかして庄五郎の身内のもんかや?」


「ええ、まあ、そんなところでござる」


 名刺を行燈にかざしながら再び尋ねてくる坂本に、俺は適当に話を合わせながら袖に隠した鉤爪の短刀を握る。


「で、相談っちゅうはなんじゃき?」


「ご相談というのは他でもござらん。一つ、坂本先生のお命をいただきたく……」


 そう答えた瞬間、俺は鉤爪の短刀を一閃させ、奴の額を横一文字に斬り裂く……と同時に鮮血が飛び散り、床の間にかかっていた梅と椿の掛け軸の上に赤い滲みを作った。


「……くぅっ……刺客かいや! …うぐあっ!」


 頭蓋の内側にまで達した感触があったが、それでも坂本は身を翻して逃げようとしたため、俺はその背中へも袈裟に一撃を加える。


「だ、誰の…差し金じゃ……」


 だが、さすがは北辰一刀流免許皆伝。しぶとくも刀を手に取ってなおも立ち上がろうとする。


「……くっ……も、もう……あかん……」


 とはいえ、すでに勝敗は決している。俺の三撃目を鞘ごと受け止めはしたものの刃先は再び奴の頭蓋へと食い込み、最早、刀を抜くこともかなわず、坂本はそこで力尽きた。


「刀! 俺の刀はどこじゃ!? ……うぐあっ…!」


 無論、もう一人の男も捨て置きはしない。どうやら近くには置いていなかったらしく、こちらへ背を向けると刀をとりに走る男へ、先ずは両手両脚へ素早く斬りつけて自由を奪い、続いて後頭部へも一撃を食らわす。


「チッ…浅かったか……」


 が、こちらは手元が狂い、致命傷には至らなかった。やむなくもう一撃、とどめを刺そうと短刀を振り上げたその時。


「……石川……刀は……ないがか……?」


 瀕死の坂本が、倒れ伏したままそんな譫言を呟いている。


 石川? ……石川といえば、中岡慎太郎の異名……しまった! もしやこやつ、土佐の中岡か!?


 中岡慎太郎……それは土佐の中でも武力討幕を支持する一派の中心人物だ。じつは坂本を始末するに当たり、他の者を巻き込んでも中岡だけは殺さぬよう、かの薩摩の重臣から注意を受けていたのだ。


 ……まあ、やってしまったものは仕方がない。運が良ければ一命は取り留めるだろう……。


 それが中岡だと悟った俺はとどめを刺すのをやめ、やはり短刀の血を舐めとってから袖にしまうと、代わりに腰の後へ括り付けていた、一本の鞘と下駄の片方を床へと放り投げた。


 それは先刻、ここへ来る前に偶然見かけた新撰組の隊士より奪ったものだ。路地裏で立ち小便をしていたので、こいつはおあつらえ向きと拝借したのである。


 もとより幕府は坂本を目の敵にしていたし、これで皆、坂本を斬った下手人は新撰組だと思い込んでくれよう。今回のことで薩摩と土佐の間に亀裂が入っては面倒だが、新撰組という下手人がいれば、表向き同胞である薩摩に疑いの目が向くことはない。


「これも新しき世を作るため。悪く思うな……」


 まだ事切れてこそいないが、助かる見込みは万に一つもない。中岡は生かしておかねばならぬことだし、任務を果たした俺は早々にこの場を去ることにした。

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