最終話 それぞれが背負うもの

 ······舞は忘れていた過去を思い出した。否。それは本来蘇る記憶では無かったのかもしれない。


 十四年前、あの木漏れ日が射し込む場所に居た俺と出会わなければ。俺の存在が舞の深い潜在意識の中に眠っていた闇を引きずり出してしまった。


「······あの時、私は幼心にも理解していたんです。八重ちゃんが私にぶつかって転げ落ちた事に」


 灯りが消えたツインルームのベッドの上で、舞は壁の一点を見つめながら呟く。自分が八重に怪我をさせてしまった。


 当時四歳の舞は、そう思うと本当の事を言い出せなくなった。そして舞の中からその時の記憶が突然消えた。


 おそらく舞は後に八重の死を知り、余りのショックに自己防衛本能が働いたのではないか。


 幼すぎる精神を守る為に、舞は事故の記憶を消去せざるを得なかった。そう俺は推測した。


「······八重ちゃんに謝らないと。八重ちゃんの御両親に本当の事を言わないと」


 声と肩を震わす舞の頬に俺は両手を添える。


「舞ちゃん。よく聞くんだ。あれは事故だ。君に責任は無い。例え警察にそれを話しても法的に君を裁く事は出来ない筈だ」


 俺は都合の良い希望的観測を口にして舞を落ち着かせようとする。四歳の幼児同士の身体が触れた事に何の過失があると言うのか。


「法律の事はよく分かりません。でも、私は思い出してしまった。そうなった以上、本当の事を言わないと。だって······」


 舞は両手で自分の顔を覆いながら嗚咽を漏らす。


「······だって。だって八重ちゃんは、きっと自分が何で死んだのかまだ知らない」


 舞のこの言葉に、俺は心臓に針を刺された様な気分になった。十四年前、俺はこの娘を守る為に虚偽の証言をした。


 だが十四年の時を経て、結局この少女を苦しめる結果になった。もしあの時、俺が真実を語っていたら、舞はもっと早く救われていたのだろうか?


「······罪があるとすれば君じゃない。俺だ」


 罪の意識に打ちひしがれる少女に、俺は十四年前の真相を話した。だが、舞の涙が止まることは無かった。


「······浅倉さんは悪くありません。全部私が悪いんです」


 人に嘘をついてはいけない。本当の事をちゃんと言う。誰もが幼い頃、親から教えられる当たり前の行為。


 舞は正直に。そして誠実にその教えを守ろうとしていたのかもしれない。社会の汚れに染まった大人には、到底理解が及ばない心の清浄さだった。


 ······だが。汚い大人にも心の重荷を背負い込む時がある。それを下ろし、負債を精算するにはいい機会かもしれなかった。


「······舞ちゃん。この件は俺に任せてくれないか?八重ちゃんの両親の居所を調べてみるよ」


 俺は優しく舞をそう諭した。俺が守りたかったのは何だったのか。十四年前、四歳だった舞なのか。それとも舞を守る振りをして本当は自分自身を守りたかったのか。


 真実を話し、苦しみ嘆く二つの家族を正視出来なかったのでは無いか。


 気密性の高い無機質な部屋の中には、暗く淀んだ空気が何時までも残っていた。



 ······二週間後。粉雪が時折降る寒空の下、俺と舞は並んで国道沿いを歩いていた。絶え間なく国道を往来する車の音がまるで耳に入って来なかった。


 俺は興信所に依頼し、四歳で事故死した橋場八重の両親の居所を調べた。その報告によると、八重の両親は愛娘の死後離婚し、今はそれぞれ再婚し家庭を築いていると言う。


 俺は興信所を通して八重の両親に連絡を取った。十四年前、橋場八重の事故死の目撃者として真実を話したいと。


 八重の両親は俺と舞に会うことを了承し、今日この日、国道沿いにあるファミリーレストランで待ち合わせていた。


 何故ファミリーと言う名所を冠する場所を指定してしまったのか。俺は自分のデリカシーの無さを本気で呪っていた時だった。


 舞は急に立ち止まり、レンガ調に舗装された歩道に立ち尽くす。


「······浅倉さん。恐い。恐いんです。八重ちゃんの御両親に何て言われるか。そう思うと恐いです」


 俺は血の気が引いた舞の頬に右手を当てる。


「······舞ちゃん。年月は良くも悪くも人を変える。八重ちゃんの御両親は今は別々の家庭で日々を送っている。良くない言い方だが、亡くなった娘の事だけを考えて生活する訳には行かないだろう」


「······八重ちゃんの両親は、もう八重ちゃんの事を忘れたと言う事ですか?」


「忘れてはいないよ。忘れられる筈が無い。でも、悲しみは薄れていると思う。そうでなれば、そうしなければ人は前を向いて生きていけない」


 断罪される不安に心が押しつぶされそうな舞に、俺は何とかそれを和らげる言葉を投げかけた。


 そうしている内に、俺達はファミリーレストランの入口に到着していた。ガラスの扉の前で、舞は俺の手を握ってきた。


 その手は冷え切っていた。まるで今の舞の心の有様を表している様だった。


「······浅倉さんと出会えて良かった。やっぱりそう思います。浅倉さんが居なかったら、今ここに自分一人で立っていられなかった」


 語尾が震える舞は、俺から見ても必死で泣く事を堪えている様子だった。十四年前、あの木漏れ日が眩しかったあの日。


 俺が犯した罪は、今日この瞬間の為に意味があったのかもしれなかった。そうでなければ、そう思わなければ舞が救われない。


「舞ちゃん。俺達は十四年前に同じ場所にいた。そして今日も一緒にここにいる。俺達はもう運命共同体だ。どんな罪も。どんな裁きも。一人で抱えず二人で受け止めよう」


 舞は力を込めて俺の手を握る。必死に涙を押し止め、覚悟を決めた様に頷いた。十四年前、橋場八重の両親は俺の虚言で真実を知り得る機会を失った。


 我が子がどうして死ななくてはならなかったのか。俺と舞の行為は、時間が慰めてくれた両親の悲しみを再び呼び起こす悪行かもしれなかった。


 たが俺はこうも思った。俺と舞がこれからどんな罰を受けるのか分からない。だが、この先の人生を過ごして行く為に、その罰は一日も早く受け入れなくてはならなかった。


 そして苦しみが早ければ早い程、それを乗り越える時間も多く与えられる。例えそれが俺には貰えなくても、これから先将来がある舞だけには与えられなくてはならなかった。


 入口で立つ俺達に店員が気付いたのか、扉を開いて俺達を迎い入れる。俺は舞の手を引き店内に入って行く。


 粉雪が風に舞い、俺の頬に張り付いた。粉雪は冷えた俺の頬に暫く留まり、やがて溶けて無くなった。




 


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

木漏れ日の十字架 @tosa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ