第15話

包丁を手に取り、心臓が止まってしまいそうになりながら藤田さんへ聞く。



藤田さんは生地を作る手を止めないまま「そうだよ」と、うなづいた。



「嘘、私、本当にこんなことしていいの?」



興奮してうまく言葉が繋がらない。



普段母親から『まだ早い』と言って包丁を握らせてもらえない香織だ。



自分専用の包丁があること事態が夢のような出来事だった。



「社会見学だからね、少しはなにかしてもいいんじゃない?」



生地の準備終えた藤田さんが額に滲んだ汗をぬぐう。



気温はどんどん上昇していて、海に来るお客さんも多そうだ。



他のキッチンカーも着々と準備を進める中、香織は思いっきり頭を下げた。



「ありがとうございます!」



そして、まだ誰もいない砂浜に元気な声が響いたのだった。


☆☆☆


朝の九時くらいから海水浴客たちが増え始めて、十時頃にはキッチンカーに並ぶ人も多くなってきていた。



太陽は大地を照らして人々を海へと駆り立てる。



しかし、潮しぶきをあげながら泳ぐ人たちを見ている余裕はなかった。




このビーチは女性客が多いようで、さっきからひっきりなしにお客さんが声をかけてくる。



「香織ちゃん、次はバナナね」



「はい!」



お客さんがいない間に格フルーツの切り方を教えてもらった香織はすぐに冷蔵庫からバナナを取り出した。



その間にお兄さんは手馴れた様子で生地を焼き、クリームをのせていく。



薄い生地の上に乗る生クリームは真夏の入道雲みたいだ。



「バナナです」



「ありがとう」



藤田さんは香織からカットされたバナナを受け取り、それをキレイに生地の上に載せていく。



香織がキッチンカーの窓から外を確認してみると、まだまだお客さんの列が伸びていることがわかった。



次から次へとやってくるお客さんの要望に答えてフルーツをカットするだけで香織には精一杯だった。



生地を焼いて、クリームをぬってフルーツをカットして乗せるなんて、とてもできないと感じた。



「少し休憩していいよ」



夢中になってフルーツを切っていたときそう言われて香織はようやく手を止めた。



見ると列は二人だけになっている。



いつの間にかお客さんは随分とはけたようだ。



それを見た瞬間全身の力が抜けて、小さな椅子に座り込んでしまった。



フルーツをカットするだけなのに、こんなに大変な作業だとは思ってもいなかった。



車内は冷房が効いているもののすでに汗だくだ。



残り二人のお客さんはすでにカットしたフルーツで足りるようで、香織は藤田さんにそれを差し出すだけで済んだ。



「今日も大盛況ですね!」



「香織ちゃんのおかげかな」



ようやく座ることのできた藤田さんも、額に浮かんだ汗をぬぐう。



「そ、そんなことないですよ」



慌てて否定するものの、悪い気はしなくて自然と頬が緩んでしまう。



藤田さんは冷蔵庫からサイダーのビンを二本取り出すと、一本を香織のために開けてくれた。



カラカラに乾いた喉を取っていく炭酸がたまらなくおいしい。



爽やかな甘さが香りを生き返らせていくようだった。



藤田さんは右手にサイダーのビンを持ち、視線を海水浴客へ向けた。



小さなビーチだけれど沢山の人が集まっていてあちこちから楽しそうな声が聞こえてくる。



中には犬を連れてきて一緒に泳いでいる人もいるみたいだ。



「気持ちよさそうですね」



砂浜は暑いけれど海に入ればそれも忘れることができる。



波に浮かんで漂いながら、太陽を感じることは最高の贅沢だ。



しかし、藤田さんから返事はなかった。



右手に持たれているビンからしずくが落ちてせっかく焼いた生地の上に落ちても気がつかない。



「藤田さん、生地が――」



言いかけて、香織は途中で言葉をとめた。

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