第13話

藤田さんとの約束時間まで後二時間近くあったけれど、先に行って待っているつもりだった。



靴を履き、玄関を開けてさぁ出発! と、思ったときだった。



「ちょっと待ちなさい」



後方から低い声が聞こえてきて香織は立ち止まった。



母親がこんな声を出すときはたいていよくないときだ。



香織の体は自然とこわばり、足が前に出なくなってしまった。



このまま一気に約束場所の広場まで行けたらいいのに、衰えてしまった勢いは元には戻らない。


香織は恐る恐る振り向いた。



玄関先に立つ母親は腕組みをして目を吊り上げている。



明らかに怒っている様子だけれど、香織は怒られるようなことをした覚えはなかった。



……いや、ひとつだけあった。



もしかして、勝手にキッチンカーのお手伝いをしていることがバレたんじゃ?そう思って背中にヒヤリとした汗が流れていった。



「こんなに早くから遊びに出るつもり? ちゃんと宿題はやっているの?」



しかし、母親の怒りの矛先は全く違うところだった。



キッチンカーのことはまだバレていないようで、ひとまず胸を撫で下ろす。



「やってるよ」



「今日の分もやってから行きなさい」



「えぇ~!」



思わず不服な声が漏れてしまう。



それを聞いた母親の目が更に釣りあがっていき、香織は全身が冷たくなるのを感じた。



「わ、わかった。宿題をやってから行くよ」



すぐに笑顔を作り、母親へ向けてそう言った。



これ以上怒らせると遊びに行かせてもらえなくなるかもしれない。



香織は大慌てで靴を脱ぎ、自室へとかけ戻ったのだった。



「あ~あ、今日は朝からお手伝いできると思ったのになぁ」

しぶしぶ勉強机に座った香織は原稿用紙を前にして多きなため息を吐き出した。



昨日読んだ本の読書感想文を書くのだ。



「こうなったら、読書感想文を早く終わらせてお手伝いに行くしかない!」



作文は苦手な香織だったけれど、藤田さんとキッチンカーでクレープを作ることを思い浮かべてペンを握り締めたのだった。


☆☆☆


一時間ほどで作文を仕上げた香織はようやく家を出ることができた。



藤田さんとの約束場所は最初に出会ったあの広場。



約束時間まであと二十分くらいだ。



まだまだ十分に時間はあるけれど、気持ちが前へ前へと向かっている香織の足は止まらない。



走って走って、あっという間に広場に到着してしまった。



今日はなんのイベントもないようで広場は閑散としていた。



駐車場には車ひとつ停まっていないし、広場の中にも人の姿はなかった。



香織は呼吸を整えて広場の中へ入り、隅っこに置かれている木製のベンチに座った。



ベンチはヒヤリとつめたくて、朝露で少しだけぬれていた。



空を見上げて見ると風が拭いてきて雲が流れていくのが見える。



今日もとてもいい天気みたいだ。



気分がよくなって人気アニメの主題歌を口ずさんでいると、一台の大きな車が駐車場に入ってきた。



深い緑色をしているその車と、運転席に座っている男性に見覚えがあって香織は勢い良くベンチから飛び降りた。



車は駐車スペースに停車すると、運転席から藤田さんが降りてきた。



「藤田さん! おはようございます!」



香織は元気良く挨拶をして、ペコリとお辞儀をする。



香織にとって藤田さんは上司のようなものだから、自然と敬語になった。



なんだか自分が大人になったようで、気分も違う。



「おはよう香織ちゃん。ずいぶんと早いね」



藤田さんは腕時計を確認して、目を丸くした。



まだ約束時間の十分前だ。



藤田さんも香織を待たせてはいけないと、早めにきてくれたのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る