第11話「フィクションは可能性を持つ。現実はそうではない」

東京ドーム二つ分ほどの大きさを持つ奥多摩研究所の中で、僕の研究室として割り当てられているのは南向きの部屋。窓から差し込む朝日で僕は目を覚ます。コンコン、というノックの音と「アーヴィン」と聞き慣れた声が聞こえる。その声と同時に、僕の脳は一瞬で覚醒する。


「マリア!」

ベッドから跳ね起きて、最愛の人を迎える。

髪はボサボサで、上半身なんて何も着ていない、だかそんなことは構わない。


扉を開けると、マリアが出会った時のままの姿で、少し後ろめたそうに俯いて立っていた。

――そうか、天使の力の副作用は時間が経つと回復するものだったのか。

と、今考えるべきはそこじゃない。まずは謝罪だ。


「マリア、昨晩は済まな・・・」

「昨日はごめんね。私、カッとなっちゃって。」

僕の謝罪に被せるように、マリアが謝る。

「僕もあまりに幼稚だった。すまない・・・。お詫びと言ってはなんだが、実験終了の打ち上げにでも行こうか。」

すべての実験が終わったら連れていこうと考えていたレストランの名前を頭に浮かべた。

彼女の好きそうな真っ白いインテリアのレストラン。きっと、喜んでくれるはずだ。


「行って、いいの?・・・行きたい!」と、嬉しそうにはしゃぐマリア。

あぁ、よかった。すべては悪い夢だったんだ。


ふ、と心からの幸福感を感じた瞬間、世界は闇に包まれた。


2001年4月6日


 夢から醒めた僕は、立川にあるホテルの一室で目を覚ました。

「あぁ、夢か・・・。」


手元の時計を眺め、呟く。

「パトロンへの実験結果報告会が終わった頃か――。」

ほんの一週間前まで自分を駆り立てていたものだが、研究所から逃げ出した自分には、遥か遠くの世界の出来事に思えた。


おそらく採用されたのは『GG細胞』だな。『DV細胞』は『AG細胞』との合同研究に切り替えていた。その『AG細胞』の研究開発責任者――名義上は大場教授となっていたが――である僕がいないんだ。どう足掻いても不採用は免れないだろう。

そんなことを思わず考えてしまうが、大げさに首を振り、思考を掃う。


 目を瞑り、あの日の夜のことを追想する。

神野研究員は、実験終了翌日以降のマリアの外出許可申請を正規の手順で手配していた。そのまま彼女を研究所から逃がすつもりだったと容易に想像できる。

神野研究員本人は元々3月末で退所予定だった。それを好機とばかりに、マリアを連れて能力開発研究機関の目の届かないところまで逃げたのだろう。


僕はマリアを愛していた。マリアは僕を愛してくれていたのだろうか。

所詮僕は、彼女にとっては有象無象の一人にしか過ぎなかったのだろうか。


『私、死んでも良かった。』

彼女がいつか僕に吐いた、彼女に似つかわしくない言葉。


彼女はなにを考えていたのだろうか。

いや、今となっては、それを考えることも無意味か。


---


「・・・アーヴィン。私ね。」

「きっとこのまま、音楽も聴こえなくなって、花の香りも嗅げなくなって、綺麗な世界も見えなくなって。」

「何かを触っても何も感じなくなって、ご飯の味もわからなくなって。」

「大切な記憶も思い出せなくなって、体もどんどん幼くなって。」

「いつかあなたにもらった、クリスタルみたいに。透けて。消えて、なくなっちゃうの。」


嫌だ。君のことを、そんな目に遭わせるものか。

僕は思わずマリアの手首を握る。あまりにも細く冷たいその腕は、陶器を思わせるような繊細さだ。


「・・・うるさい。僕なら君を、救える。救ってみせる!」

僕は君がいないと生きていけないんだ、マリア。

僕の手を伝って感じるこの温もりですら、永遠に掌で感じていたい。


「僕と一緒に生きよう、マリア。」

「私、生きててもいいのかなあ。ひと、ころしちゃったんだよ。」

その泣き顔に、胸をズキンと傷める。


「大丈夫だよ、マリア。君の罪なら僕も一緒に背負って見せるさ。」

嘘はない。それが、僕の決意。マリアが、静かに泣き止む。


「さぁ、行こう。」僕は彼女に手を伸ばす。随分と、遅くなってしまった。

「うん!」


彼女がその手を取った瞬間、僕の意識は途絶えた。


2001年5月30日


「夢・・・か。眠ることすら、赦してくれないのか。マリア。」

夢の世界から解き放たれた僕の視界に入るのは、いつもと同じ真っ白な天井。

眠りに落ちるたびに脳に刻まれる、無限の希望。そして、絶望。


ずっとこの部屋に籠りきりでも、と思い、外出を試みたこともあった。

だが、目に入るものすべてが君を思い出させた。

この世界で生きている限り、君との思い出は僕を刺し続ける。


僕はなぜ、世界から君を奪い取られなければならなかったんだ。

僕はもう、この世界で生きていたくない。


---


「・・・やっと見つけた。」

聞き慣れた声で僕が目を覚ますと、ベッドの脇に加賀さん。それと、マリア。

彼女の輝く髪の間から覗く瞳は、今にも零れそうなほど涙を溜めている。


「マリ・・・ア・・・?それに、加賀さん・・・?」

「大場教授からアーヴィンの捜索指示が出てね。随分と走り回されたよ。」と、加賀。

「アーヴィン、ごめんね・・・。私、あなたがそこまで傷付くだなんて、思ってもなかった。」

マリアが大粒の涙を溢しながら、しゃがみ込む。


こんなにやつれて・・・と、彼女は僕の腕を優しく撫でる。

「マリア・・・。僕が、悪かったんだ・・・。」

また夢なんじゃないか、という恐怖心と共に、恐る恐る言葉を並べる。


「君がいつか帰ってきてくれる夢を、何度も見た。」

うん、うん、と、マリアは涙を拭いながら聞いてくれる。

喉からこみあげてくるものが、これは夢ではないと叫んでいる。

あぁ、あぁ。あぁ、よかった!


「また会えて、本当に嬉しい。マリア、僕と一緒に」


2001年8月12日


「はは・・・。これも、夢か。ははは・・・。」

無限の"もしも" が、僕を刺し続ける日々。僕は、限界だった。


「もう勘弁してくれよ!」

ガン、と壁を殴ると、卓上から数冊小説が落ちた。気晴らしのために本屋でまとめて購入してきたものだ。


僕はそのうちの一冊を手に取り、気晴らしにはなるだろう、と読み始める。

よくある安っぽい恋愛小説。ページを捲るが、文字は頭に入らない。考えたくもない事実と妄想が頭を埋め尽くす。


きっとマリアは、随分と前から神野研究員に好意があったんだ。僕に対しては、ただ研究を円滑に進めるため、ひいては早く出所するために好意的に接していたに違いない。きっと、僕のことなんて、気にも留めていなかったんだろう。


そんな思考が頭を巡る中、小説の中の1フレーズが目に留まった。

――夏目漱石は英語教師だった頃、"I love you" を "月が綺麗ですね" と意訳した。――


何故か動悸が激しくなる。小説の続きを目で追い、読み進める。

――一方で二葉亭四迷は、ロシア文学作品の翻訳に際して "Yours (私はあなたのものよ)" を "死んでもいいわ" と訳した。――


『・・・今夜は、月が綺麗だね。まるでそのまま君が連れていかれそうだったよ。』

あの夜、僕はただ、月を臨むマリアをかぐや姫になぞらえて、軽口を吐いただけのつもりだった。


『えー、なにそれ』と、少し頬を赤らめていたマリアの顔を思い出す。


『このまま、二人で他に誰もいないところへ、行きたいな、なんて。考えていたんだ。』

僕がほんの一瞬漏らした本音。アーヴィンとしての、本当の願い。


そして、彼女が僕との別れを決意した際に、言った言葉―――。

『私、死んでも良かった』



――"死んでもいいわ" は、"月が綺麗ですね" への返答として用られることもある。――



瞬時にすべてを理解した。あまりのストレスに吐き気を催す。

彼女は、僕を受け入れてくれていたんだ。

だから、彼女はあの日以降実験に積極的だったのだ。


『次の実験のお話、聞かせてくれる?』

自分から、実験を急かしたのだ。


『私は、アーヴィンに嫌われたくない・・・。』

僕に、壊れた姿を見せたくなかったのだ。


――誰が僕たちを追い詰めた。

頭に浮かぶ、大場の顔、高岡の顔、洞口の顔、加賀の顔。神野研究員の、笑み。


――なにが僕たちを追い詰めた。

視界に蘇る、机に並んだ資料の山、本棚に並べられた研究資料。


――そうだ。僕の決意を踏み躙ったのは。

追憶する、あの日の夜。


――そうだ。僕からすべてを奪ったのは。

追想する、マリアの後ろ姿。


――この、世界だ。


能力開発研究所を出るときに携えていたバッグからDV細胞を格納しているカプセルを取り出す。


心臓付近の肉を、自らの爪で何度も何度も、掻きむしって引き裂く。

胸筋を掴み、千切り取る。落ちた肉塊が床を赤く染める。


無心で続けた結果、剥き出しになった肋骨と、心臓付近の血管。

そこへDV細胞を捻じ込み、自らの肉塊で蓋をするように押さえ付ける。


ジュウ、という焼けたような音と共に、分断された肉片が超速再生を始める。

細胞の発動に伴って、髪が白く輝き始める。

全身の血管が、それぞれ一個の生命のように蠢く。


――薄れゆく意識の中で僕は、ある日毒虫になってしまった男の物語を思い出していた。


「世界が僕たちを裂こうとするなら、僕は世界を壊す。」


――カフカの描いた、不条理に襲われ、世界に全てを奪われた男の物語。


「それが、僕の憤怒。」


――あの小説のタイトルは、たしか。


「『変身』。」

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