第10話「彼女は人を好きになることが好きだった。だから人々は彼女が好きだった」

 研究所内を夢中で駆け抜けた僕は、気付くとマリアの部屋の前に辿り着いていた。


時刻は既に深夜2時を回っている。だけど、ただ会いたい。その一心で、彼女の部屋のドアをノックする。


返事は、無言だった。

だが、ゆっくりと部屋のドアが開き、中から顔を覗かせたのは。


マリアの観察を頼んでいた、神野研究員だった。


「アーヴィン研究員。あなたですか。」

「神野・・・研究員?どうして君が・・・。」

こんな時間に、男が、マリアの部屋に?脂汗が額から滲み出る。だが、すぐに我を取り戻す。

そうだ、彼にマリアの観察を指示したのは僕だ。だがこんな時間に彼女の部屋に――。

思考を阻むように神野研究員が言葉を続ける。


「マリアなら、眠っています。起こさないであげてください。」

彼女を呼び捨てにした神野研究員に殺意が湧いた。

だが、今はそれよりマリアを連れ出さなければ。


「悪いが急ぎの用だ。そこをどきたまえ神野研究員。」

アーヴィンはあえて高圧的な態度で、彼を押しのけようとした。


「・・・いい加減にしてくださいよ!」

無音の廊下を反響する、神野研究員の怒声。


「あなたが昨夜、マリアになにを言ったのかは知っています。彼女がどんな気持ちだったか、考えたことはあるんですか?」

「な・・・にを・・・。」

「彼女は、ずっと泣くことを我慢していました。僕の前ではずっと隠していた。だけど、昨日は相当ショックだったんでしょう。僕の前で一晩中泣いていました。」

「自分の犯した過ちは分かっている。だからこうして――。」

「だからこうして、泣き疲れてようやく眠ったマリアを起こすんですか。最低ですね。」

ふざけるな。なにも知らず、なんなんだこの男は。


「とりあえず休憩室にでも行きましょう。マリアを起こしたくない。」

まるで自分の物かのように彼女を扱う神野研究員。

経験則から、正論を振りかざし己が欲望を通そうとする人間の笑顔だ、と感じる。


「・・・うるさいんだよ。そこをどきたまえ!神野研究員!」


「アーヴィン、もうやめて。」

現れたのは、恐らく相当泣いたのだろう目を赤く腫らし、焦燥し切った姿をしたマリアだった。


「マリア、すぐに帰ってもらうから。部屋の中にいて。」

マリアを僕から庇うように抱え込む神野。まるでヒーロー気取りだ。


「マリア。昨晩は本当に済まなかった。僕は――」

「やめてください。マリアはあなたの謝罪なんて聞きたくない。」

神野はぴしゃりと言葉を遮る。その口は勝ち誇ったようにわずかに緩んでいる。

だが、そんなことに構っていられない。


「マリア。僕はようやくわかったんだ。僕はもう研究なんてどうでもいい。」

「アーヴィン研究員、やめてください。あなたのやっていることは被験者への過度な接触だ。」

「ここを一緒に出よう。僕と一緒に暮らそう。他の誰もいない場所へ行こう。」

「アーヴィン研究員・・・!」


「僕は、本当に、君のことを愛して―――」

「・・・アーヴィン。私ね。」

何かを覚悟したように、彼女は言葉を紡ぎだした。 


「きっとこのまま、音楽も聴こえなくなって、花の香りも嗅げなくなって、綺麗な世界も見えなくなって。」

まるで湖の上を歩くような、透き通った声。


「何かを触っても何も感じなくなって、ご飯の味もわからなくなって。」

きっと、彼女と話すのは、これが最後なんだろう。そう思わせるような、澄んだ声。


「大切な記憶も思い出せなくなって、体もどんどん幼くなって。」

言葉が続くたび、彼女と出会ってからの思い出が、零れるように脳から溢れる。


「いつかあなたにもらった、クリスタルみたいに。透けて。消えて、なくなっちゃうの。」

そうだ、これでお別れなんだ。


「せめて最期の瞬間まで、あなたを嫌いになりたくない。」

「だから、二度と私の前に現れないでください。」

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