第9話「人生で一番大事な日は二日ある。生まれた日と、生まれた理由を知った日だ」

2001年3月31日


 絶望に塗れた夜が明け、更にまた夕陽が沈んだ頃。

余りの疲労感に丸一日気を失っていた僕は、自室のベッドで目を覚ました。同時に逡巡する昨夜の記憶。


「あぁ、全て終わったんだった。」誰に伝えるでもない言葉が無人の部屋を舞う。

この後に待ち受ける大場教授への報告や、自分へ対する叱責を思い浮かべるだけで心臓が締め付けられる。加えて、自分が今まで積み上げてきた実績が崩れていくことへの、絶望感。


「そうだ、マリアに会いたい――。」

咄嗟に浮かんだ希望の色。研究に打ち込むしかなかった僕の人生に、それ以外の価値をくれた人。

そんな光を、昨夜の記憶が黒く染める。


五感を失う。記憶を失う。肉体を失う。突如として突き付けられた副作用。

マリアの今にも泣き出しそうな顔。

激昂する自分の声。

「あれは・・本当に僕が言った・・言葉か・・・・。」


実質的には『実験失敗』という事実を突きつけられた今、唯一僕に残った希望。最後の光。マリア。

きっと彼女は、僕に心配をかけまいと、自分の身に起きる異常を黙っていたのだろう。

完全に僕の失敗だ。


自分ではない人格が犯した罪。人を殺めたという大きな十字架。

日々変わっていく自分の体。確かでなくなっていく記憶。そして、巻き戻された肉体。

きっと逃げ出したいほど恐ろしかったろう、


それなのに、僕に心配をかけないために、僕にはそれを黙っていた。

そんな彼女に、僕は―――。


許してください、か・・・。そう言いたくもなる。

そんな言葉を言わせたのは、紛れもなく僕だ。


僕はもう――、彼女に会うことはやめよう。

だが、実験が失敗したことを大場に伝えたなら、マリアは再びモルモットとして経過観察の対象となるだろう。これ以上彼女を苦しめてたまるか。


彼女をこの研究所から逃がす。その後、僕は然るべき罰を受けよう。

「それが僕にできる最後の償いだ。」

静かに呟くと、僕はマリアの外出手続き――という名の逃走――を進めるべく、書類管理室へ向かった。


---


 アーヴィンが書類管理室に訪れると、書類管理官の加賀は自席で小説を読みながらコーヒーを嗜んでいた。

「おお、アーヴィン。珍しいじゃない。実験は全過程終了したって聞いたよ。」

「やあ加賀さん。済まない、お喋りしている時間はないんだ。マリア・ローライトの外出に必要な申請と添付資料を急ぎ揃えてくれ。」

「外出?急にどうしたんだよ。」

「いいから。迅速に頼む。」

ぶっきらぼうに言いつけた言葉に、加賀は少し眉を歪めた。


「それはいいけど。教授クラスの回付が必要だから、外出できるのは二週間になるよ。」と、加賀。

二週間だと。事情も知らず、この女は。アーヴィンは苛立ちを隠せない。

「教授クラスの承認ならば、口頭でもらっている。急ぎなんだ。」

「駄目だよ。規則は規則だ、回付後の押印が無ければ通せない。たかが二週間じゃないか、まさか教授に無断でハネムーンでも行くつもり――」

加賀は言葉の途中で思考を挟む。まさか、これはアーヴィンの独断なのか。


「・・・アーヴィン研究員。能力開発研究機関 書類管理官(ライブラリアン)として回答します。その発行依頼を、却下します。」

かつてないほど真剣な顔で、形式ばった言葉で、アーヴィンに否を突き付ける加賀。彼女は、自分は職務を全うすべきだ、と考える。ここで自分が規則を蔑ろにするならば、書類管理官などという大それた役職は不要であるからだ。


「加賀さん!」

「書類管理官である私が否決した発行依頼は、全て担当研究室の教授に差し戻す必要があります。」

形式的な言葉を並べた後、トーンを変えて加賀は続ける。

「・・・アーヴィン。あんたがあの子に入れ込んでることは知ってる。だけどどうしたんだい。大場教授の承認だって、本当はもらってないんだろう。」


「うるさい!いいから出せ!」

「アーヴィン!・・・あんたが今まで、この研究所のために頑張ってきたのは知ってる。だから、こんな時くらい甘えてくれ。事情さえ分かれば適切な超法規的措置だって、採れる。」


アーヴィンは立ち上がり、書類管理室の扉の鍵を閉める。

「・・・時間がない。手短でいいかい。」


---


アーヴィンがことのあらましを話すと、加賀はしばらく考え込んでいた。

「・・・なるほど。それで、あの子を逃がして自分が全ての責任を負う、って言ってるわけね。」

「ああ。僕はこれ以上、彼女を追い詰めたくはない。」

「・・・そう。」

加賀は自席に移動し、先ほどまで手にしていた小説の表紙を撫でる。


「加賀さん。もう時間がないんだ。外出許可申請と添付資料を出してくれ。」

「・・・あんたが初めてここに来た時のこと、覚えてる?」

「・・・あぁ、もう数年前になるね。『能力開発研究機関』研究協力中学校を卒業した頃か。加賀さんもまだ赴任したばかりだったね。」

苛立ちを隠し切れないアーヴィンは、指で太ももを叩きながら答える。


「あの時は、こんな幼い子がずっとこの研究所に囚われて生きてるなんて、可哀そうだって思ったよ。」

「まぁ、僕はここの研究協力学校にしか進めなかった。衣食住もここの寮だしね。そういった意味では、囚われていたのかもね。」

「ずっとお父様やお爺様の意志に従って生きるあんたは、何が生きる意味なのか分からない迷子に見えた。その穴埋めに、研究に没頭してたんでしょう。」


「加賀さん、昔話はもういいかい。」

意図の読めない加賀の発言に、つい語気を強めてしまう。

それを右手で制する加賀。


「彼女を研究所から逃がして、大場教授から叱責を受けて、その後アーヴィンはどうしたいの。」

「その・・・後・・・?」

「あんたを縛り続けた『能力開発研究機関』の研究員じゃない。『アーヴィン』は、どうしたいの。」

「僕は・・・。」


研究から身を離すだなんて、罪深いことだと思っていた。

マリアと触れて知った、もう一人の自分。

だけど、そんな生き方なんて、僕に許されるはずが―――。


「世界中の誰もがそれを許さなくても、あの子は許してくれる。」

「あんたが好きになったのは、そんな子でしょう。」

アーヴィンがはっと顔を上げると、加賀は真剣な眼差しで彼を見つめていた。


そうだ、僕は――。

「僕は、マリアと生きていきたい。アーヴィン・ローライトとして、僕を生きたい。」


「だっ・・・たら。」

加賀の声が震えていることに気付く。その頬には涙が伝っている。


「加賀さん・・・?」

きっと加賀と僕がこうして会うことはもうないのだろう、とアーヴィンは考える。

今までのたわいないやり取りが、彼の脳裏を逡巡する。


「いつか、じゃなくて、今行きなさい。あんたが生きたいように、生きなさい。」

「加賀さん、僕は・・・」


「未承認案件を承認済みと偽って申請したこと。そして、被験者を無断で所外へ連れ出そうとしたこと。これらは罰則の対象です。ついて、能力開発研究機関 書類管理官(ライブラリアン)として、虚偽申告者アーヴィン研究員の無期限所外追放、及びマリア・ローライトの即刻退去を命じます。」

「加賀さん!」

「当該対象者は即刻奥多摩研究所から退去するように。一時間以内に退去がなされない場合、保安室に通報致します。」


捲し立てるように言葉を吐いた加賀は、一息ついて、微笑む。

「いってらっしゃい。アーヴィン・ローライト。幸せになんだよ。」

加賀が言い終えるや否や、弾き出されるように駆けだすアーヴィン。


足音が聞こえなくなったころ、加賀はぽつり呟く。

「男の子はいつだって、親心を知らずに成長すんだね。」


---


見慣れた研究所の廊下を駆けながら、アーヴィンは考える。


今までのことを、マリアに謝ろう。そして、マリアと共に、ここを出よう。

いつか彼女と過ごした夜、伝えられなかった言葉を伝えるんだ。


かつてない高揚感が胸を満たしている。

あぁ、僕は好きに生きていいんだ。


前ばかり見ていたためか、足をもつれさせて、転んでしまう。

だが、そんなことは構わない。


五感を失った?記憶を失った?肉体を失った?

たかだかニューロン同士の伝達する電気信号ひとつの成すこと、科学の前には道理に適っていない。

「そんなこと、あってたまるものか。」


僕はいつしか追想していた。研究に明け暮れた日々を。僕の積み重ねた過去を。

僕の「知識(チカラ)」は、きっとこの時のために蓄えてきたんだ。

「そんなもの、すべて僕が解き明かして見せる。」


それが、僕の重ねた日々の意味。

「それが、僕の生まれた理由だ。」


それが、『天使』などという荒唐無稽な存在の力なら。

「僕は、悪魔にだってなってやる。」


あぁ、マリア。僕はこれから、君のために生きていく。

それが、僕の決意。


僕の、僕のための人生だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る